孤高なソリスト

時津彼方

本編

「じゃあ今から、『夢への冒険』のソロを決めます」


 顧問の言葉に、音楽室が凍り付いた。『夢への冒険』は、福島弘和という作曲者が作った吹奏楽の曲で、私たちの部が今年コンクールでやる曲だ。この曲には目立つソロが、ピッコロとクラリネットに一つ、アルトサックスとトランペットに二つあり、その内のアルトサックス以外の担当を、今日オーディションで決めるのだ。ちなみにアルトサックスはそもそもメンバーが一人しかおらず、自動的に決まった。


 トランペットを抱えて、私は待機列の席に座った。隣には、少しイライラしてる美香子先輩が、せわしなくピストンを触っていた。それを押しては戻す音が歯ぎしりのように聞こえて、少し不快になる。

 オーディションとはいえ、うちの部は実力主義であるため、年功序列の忖度は存在しない。審査は顧問が独断で行うため、部員の主観も入らない。きわめて残酷な世界だ。


「ピッコロのソロは、今回は平川さんにお願いします。拍手」


 顧問の淡々とした言葉の後、私達と向かい合うように座っている、オーディションを受けない部員がまばらに拍手した。ピッコロという楽器は、形こそフルートに似ているものの、吹き方はかなり違うらしく、フルートパート以外の人がすることもある。今回それが一番上手にできたのは、なんとクラリネットパートの先輩だった。


「この結果、クラリネットのソロは、大垣さんに決まりました。拍手」


 クラリネットパートのメンバーが二人しかいない上、二つのソロの間隔が四小節ほど―――六秒ほどしかないため、特例でもう一人のクラリネットパートの同級生が選ばれた。

 私と美香子先輩の前を、三人が通る。その中の一人―――天木先輩は、特に落選したことを気にするそぶりもなく、泣く平川先輩の肩をたたいていた。

 このバンドは小編成という、総員が三〇人以下の楽団であるため、パートによっては人数の少ないところがある。天木先輩のフルートパートも、アルトサックスパートと同様に一人しかいないため、吹く場所のほとんどがソロとなるから気にしていないのだろう。

 その後に続いた大垣ちゃんと目が合った。その目は間違いなく潤んでいた。彼女は中学二年生ながら、全体オーディション前の選抜で、他の二人の先輩を差し置いて合格した、いわば世代のスターだ。


「トランペットのソロのオーディションを始めます。」


 私は指揮台の前に立つ。目の前には、扇型に並んで座った部員たちがいた。


「まず、由崎さんから」


 美香子先輩が演奏を始めた横で、私の耳は先輩の音を拾おうとはしなかった。緊張のせいか、敢えてなのか、私にはわからない。他のこともわからない。遠目に見えるトランペットパートの、同級生の笑顔と先輩の怪訝そうな顔のギャップで酔いそうだ。


「次に、戸堂さん。どうぞ」


 深呼吸をし、唇を軽く舐める。そしてマウスピースに口を付け、震わせた口で息を吹き込む。

 一つ目のソロは、軽快だ。ピッコロのソロ、クラリネットとアルトサックスのソリの後に、その流れを受け継いで、中盤の盛り上がり部分を収束に導く。指の動きがとても多く、感覚派の私は楽譜ではなく音と指の動きで覚えた。

 二つ目のソロは、穏和だ。先ほど終息した流れの後に、ゆったりとした曲調になるのだが、それはこのソロを皮切りに展開される。音符こそ多くないものの、ロングトーンでいかにビブラートや音色を豊かに表現するかがカギとなる。


 私は自分の音の響きを味わい、口を離す。


「じゃあ、オーディション結果を発表します」


 隣の美香子先輩の顔を見ると、きれいな唇の上に汗が滲んでいた。


「まず一つ目のソロ……戸堂さん」


 私は安堵の息を吐いたと同時に、少し残念な気持ちになった。どちらかというと二つ目のソロの方がやりたかった。悠々と歌う方がソロっぽかったからだ。


「次に二つ目のソロ……こちらも戸堂さん」


 え、と自然に声が漏れたのは、私だけではなかったようだ。


「以上でオーディションを終わります。そして、今日はこのまま解散とします。練習したい人は、今日は六時までとします」


 部長、と呼ばれた天木先輩は、号令をかけた。


 ***


夏鈴かりんちゃん!」


 楽器の片づけをしていると、大垣ちゃんが楽器とケースを持って近づいてきた。


「やったね! 私達二人とも、ソロ吹けるよ!」


「二人ともおめでとー」


 前の席で、楽器を磨く鳥山先輩―――通称鳥ちゃんが話しかけてきてくれた。私達の演奏以外の指導を、入部当初してくれていたのはこの鳥ちゃんだった。先輩後輩関係なく、全員名字に付けで呼ぶ顧問ですら、この人を鳥ちゃんと呼ぶ。


「いいなー。ホルンもソロほしいなー」


 吹奏楽の曲で、ホルンやユーフォニアムなどの中音楽器、チューバやバリトンサックスなどの低音楽器にソロがある曲はかなり少ない。


「今回は裏のソロが多いじゃないですか」


「まあそうだけどね。Kのソロ、明日から合わせよっか」


 K、とは、ある程度の音楽のまとまりごとに楽譜に振られる、いわゆるセクション番号で、そのソロはオーディションの二つ目のソロに当たる。


「いやあ、まさか私が指導した二人が、両方ともソロを持って帰ってくれるなんて、二人は本当に先輩孝行者だよ」


 鳥ちゃんが笑う奥で、顧問と何人かの先輩が言い合いをしているようだった。その中には、美香子先輩の姿もあった。


「あれ、気になる?」


 その目線を遮るかのように、鳥ちゃんの後ろから天木先輩が顔をのぞかせた。


「はい」


 私は率直に答えた。


「だよね。どう? ざまあみろって思った?」


「いやいやそんな」


「素直になってもいいんだよ」


 鳥ちゃんが横から茶々を入れてくるのに便乗し、大垣ちゃんが横腹を肘で小突いてくる。


「本当にそんなことないですって」


 少し声が大きくなってしまい、言い合いの集団から冷たい目線を感じた私たちは、部室をそそくさと出て行った。

 部室の外に出ると、あの日も同じ景色を見ていたことを思い出す。


 *****


「ねぇ、戸堂。ちょっと帰り付き合ってよ」


 オーディション前選抜があった日、帰ろうと部室を出たところ、美香子先輩を含む七人の先輩に呼び止められた。断る理由もなかったため、素直に帰り道を共にした。


「戸堂って音はきれいだけど、息継ぎの間が不自然だと思う」


「練習もロングトーンばかりじゃなくて、リップスラーもやらないと」


 今思えば、すべてが負け惜しみのようだ。

 その日の駅までの道のりで繰り広げられたのは、私に対する評論だった。最初の内は騙すように賛辞を贈る先輩も何人かいたものの、次第に難癖をつけ始めた。さらに、その批評は演奏者へのものから一人の人間へのものへと変わっていく。


「朝練に来てないけど、コンクール当日の出番は朝のこともあるんだから、ちゃんと朝に吹けるようにしとけよー」


「朝弱い人って、日中もボヤってしてることが多いからねぇ」


 七人もの先輩に囲まれるだけでも息が詰まるのに、その逃げられない状況でひたすら口撃を受け続けた私は、その日から二日間寝込んでしまった。


 *****


「今だから言えるけど、夏鈴ちゃんがいなかった二日間、あのグループすごく生き生きしてたんだよ」


 駅のホームのベンチに座った天木先輩がパックのレモンティーを一口飲んだ。


「ほんと。あの二日間はずっと笑顔だった。それも嫌な笑顔で。で、夏鈴ちゃんが来た時の絶望っぷりは、今考えても痛快だった」


 隣で一緒に立っている大垣ちゃんが、近所の迷惑住人を噂するかのように、先輩に続いた。


「でも、あの子たちとも仲良くしなきゃ、いい賞は取れないからねー。まあどっちかっていうと、あの子たちが夏鈴ちゃんのソロを認めないことには始まらないけど。団体戦だから、そこは嫌でも一緒にやってかなくちゃねー」


 上品に座る鳥ちゃんが、目線を定めずにつぶやいた。


「何かあっても、私は夏鈴ちゃんの味方だからね」


 大垣ちゃんが、いつの間にか震えていた私の手の上に乗せる。とてもあたたかな手。この手が奏でる音だから、観客の心を動かすのだろうと思った。

 

「今年もあの年と同じことを繰り返したくないって、ほとんどの部員は思っているんだけどね。やっぱりプライドが高いっていうか我が強いっていうか、そういう部員は何人かいて、いろんな面から陥れようとしてくるから、上手いことかわしてね。私もできることはするけど」


 天木先輩によると、先輩方が中一の時に同じようなことがあり、一人の当時中二だった男子部員が孤立してしまったらしい。その人は部を辞め、その責任を負ったのか先代顧問はその年をもって辞任した。

 成績は県大会銀賞。県内有数の強豪校であったためか、吹奏楽の界隈では少し話題に上がったらしい。


「私は何も言われてないけど、いつ言われるかわからないし、その時は夏鈴ちゃんを頼ってもいい?」


「もちろんだよ。大垣ちゃん、がんばろうね!」


 私は夏鈴ちゃんと手を合わせて誓い合った。


 *****


 上手かみての舞台裏で台紙に貼った楽譜を抱え、私は息を整えていた。

 あれ以来、オーディションがあった一か月前から、数回のパート練習やごくまれの事務的な連絡以外、ちゃんと美香子先輩と話せていない。どちらかというと、私の方が避けてしまったことが多かったように思われる。

 でも、大垣ちゃんや鳥ちゃんの顔を思い浮かべるごとに、隅っこに浮かぶ先輩の顔が、いつまでも私を責めているような気がする。


「美香子先輩」


 私の手は、先輩の肩をたたいていた。

 先輩が振り向く。その顔は、とてもやさしい顔をしていた。


「大丈夫だから。私は夏鈴ちゃんが一番うまいって信じてるから」


 あとで聞いた話だけど、先輩はあの言い争いの場に連れていかれただけで、私に敵わないと思っていたみたい。思い返せばあの帰り道も先輩は黙っていた気がする。

 私は先輩のことを勘違いしていたみたいだ。


 舞台が暗転し、係員に誘導される。

 先輩に肩を押された私は、胸を張ってひな壇を上った。

 私はきっと、一人じゃない。

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孤高なソリスト 時津彼方 @g2-kurupan

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