アンテナ立ちますか?

波打 犀

圏外:着信拒否

プロローグ

1

「では、私どもはこれで」


 ご利用どうもありがとうございました、と三人の引っ越し業者はキャップ帽を脱いで頭を下げた。


「いえ、こちらこそお世話になりました」


 父がそう言って頭を下げるのに合わせて、僕も無言で頭を下げる。

 なにも言わないかわりに、口元の笑顔は忘れない。どちらからともなく頭を上げて、最後に顔を見合わせる。


 三人の中央に立つまとめ役らしいとした男の業者は、さっきまでの重労働がウソみたいに爽やかな笑顔を浮かべていた。


 プロだなぁ、なんて思っている間に、三人は足取り軽く路肩に停まっていたトラックに駆けていく。全員が乗り込むと、さっきの業者が助手席から顔を出し、僕らに向けて再び爽やかに笑ってみせる。


 僕はなんとなく会釈して、父と二人、トラックが住宅街の角を曲がっていくのを見送った。

 トラックが見えなくなると、父が僕を振り向いた。


「お前は荷ほどきを始めてなさい。自分の荷物だけでいいから」


 わかった、と頷いて、半身振り向く。向いた先には、本当に人が住めるのかも怪しいような、こじんまりとした古くさい木造家屋が建っていた。平屋建てで、築四十年にはなるという話だ。


 僕から見て、右側に家が、左側には雑草だらけで舗装もない砂利の駐車スペースがあって、そこにシルバーのセダンが一台停まっている。車の後ろにもずっと砂利道は続いていて、家をL字で囲うような石塀の突き当りを右に折れていた。


 その向こうは本来、季節の花や低木の似合う庭なのだろうが、長年放置されていたせいで、いまは腰丈ほどもある雑草で埋め尽くされていて、見るに堪えない。ここにもいずれ手を入れるのかどうか、そんなことを思うだけで辟易する。


 ここに越す、と父に言われたとき、僕は最初なにを言われたのか分からなかった。ネット環境と洋式トイレさえあれば、すべて世はこともなし――と謙虚なつもりでいた僕は、潔癖というほどでないにしろ、一応は現代人なのだとそのときに自覚した。

 

 さすがに、というか。数年前に水回りには手を入れて、和式トイレは洋式トイレに、古臭いキッチンは少しだけ背の高いシステムキッチンに、かつて石炭収納があったという一画にはユニットバスが収まった、という話を事前に聞かされていなければ、僕は引っ越しを全力で拒んだだろう。


 ちなみにネット環境はしっかりと整っているので、辛うじて現代人としての面目は保たれている。

 ふと、疑問に思って足を止める。後ろを振り向くと、父はまだそこにいた。


「父さんは?」

「ああ、さきに大家さんに挨拶を済ませてくる。ついでにコンビニでお昼でも買ってくるか……」


 なにが食べたい、と訊かれて、少しだけ考える。僕も父も朝食を抜いていた。荷物の搬入中だって、なんど腹の虫が鳴いたか分からない。そういうわけで、わりとがっつり食べたくて、


「カレーか、かつ丼」


 と答える。わかった、と父は頷いた。

 大家さんは畠中はたなかさんといって、旦那さんを亡くして以降、はす向かいの大きな家にたった一人で住んでいる。去年の暮れに古稀を迎えたばかりの老婆であり、前に一度顔を合わせているが、説教ぶったところのない、人当たりのいい人物だ。


 もともとこの借家も賃貸する気はなかったらしく、父が無理を言って借りたのだという。しかし僕の記憶では、迷惑そうにする素振りを一切みせず、


『親戚だと思って、困ったことがあったらなぁんでも言ってくださいな』


 と、ニコニコ笑顔だったちよさんが印象深い。

 体力的な問題もあるだろうに有難い人柄だったが、昔のことを思い出すので、僕のことを「幸司郎ちゃん」と呼ぶのだけは勘弁して欲しかった。


 確か、コンビニも徒歩で数分ほどの位置にあったはずだ、なんて思っていると、父はとっくに道幅の狭い道路の向こうへ渡っていた。


 ドアの前に立つと、家の古臭さが際立った。ペンキの塗りが荒い、オレンジ色の木製ドア。レバー式ではないドアノブ。

 北国だというのにいまどき風除室もないなんて、冬場になったら凍え死ぬんじゃなかろうか。


 ノブを捻って手前に引くと、軋みを立てた。玄関はかなり狭く、靴など四足も置けば足の踏み場がなくなりそうだ。


 靴を脱いで、微妙に低いあがりかまちを踏む。

 すぐ右手にはトイレに通じるドアがあり、正面廊下の突き当りにはバスルーム。当然、脱衣所なんてものはない。板張りの廊下を少し行くと左に居間が見える。居間を正面にして、さらに左を見ればキッチンが、右を見れば父の部屋がある。


 居間では、コーギー犬のマルが静かに寝息を立てていた。新居だというのに緊張なんて知らないみたいに。

 まったく、図太いやつだ。


 気を取り直して居間から父の部屋に入ると、右側に一枚の薄い襖を挟んで僕の部屋。プライバシーのプの字もなければ、僕の部屋には窓がない。まるで座敷牢である。そのうえ全室畳なせいか、じめっとした空気を感じる。換気扇があるだけましか。いまから夏場も思いやられた。


 この家で窓がないのは僕の部屋だけで、キッチンとトイレ、風呂場に小窓が一つずつと、父の部屋に一つ。それから居間に掃き出し窓がついている。居間からは裏庭が一望できたが、いまは雑草の群生が拝めるだけである。


「住めば都……であってほしいよな」


 いまは何とも言えないが。

 よしやるか、と気合を入れて、僕の部屋に運び込まれたダンボールに歩み寄る。業者さんに搬入してもらった勉強机と椅子、本棚とベッド以外は手付かずのまま山のように積みあがっていた。


 どこから手をつけるべきか、としばらく右往左往して、結局手近なものから取り掛かる。


 三段に積み上げられた一番上のダンボールには、僕の波をうったような字で『服』とだけ書かれていた。取っ掛かりとしてはいいかもしれない。新調した衣装ケースの具合も確かめられるし、とそれを畳におろそうと持ち上げたところで、二段目のダンボールに僕の視線は釘付けになった。


 そのダンボールには、父の几帳面な字で『本・アルバム』と書いてあった。

 僕の荷物じゃない。けれど、『アルバム』という文字に惹かれて、気付けば封を切っていた。


 箱の中には、読書家の父お気に入りの本に埋もれるように、はたして数冊のアルバムが入っていた。内一冊を衝動的に手に取って、途中から開く。見開きいっぱいに、いつの間にやら忘れてしまった思い出たちが溢れかえっていた。


 一段と目を引いたのは、青空に浮かぶ入道雲とラベンダー畑をバックに、三歳か四歳くらいの僕を抱く、ワンピースに女優帽という出で立ちの母と、生後半年ほどのマルを抱き、朗らかに笑う父が写った写真だった。どちらも記憶にある二人より若々しく、思わずフィルムの上からその写真の表面を指でなぞっていた。じっと見つめていると、不思議な想いに囚われる。


 突然セミの鳴き声と、むっとした空気を肌に感じた。あり得ない。いまは三月だ。それでも、その写真を見ていると、音から匂いから、忘れていたはずの在りし日の思い出が、脳裏で鮮明に蘇るようだった。


 アルバムをめくる手は止まらなかった。写真の日付が進めば進むほど、目に見えて――特にマルの成長が著しい。


 彼を家族に迎えてすぐのころ、綿毛のようにふわふわとした毛玉だったのが、みるみるうちに艶のある毛並みになって、鼻面も長く、体も一回り、二回りと大きくなっていく。


 僕の成長も負けてはいないのだろうが、自分のことだ。写真だけではあまり実感がわかない。ただ、どの写真でも僕は笑っていて、胸が少し苦しくなった。


 七歳になる年から、徐々に写真が少なくなっていく。

 九歳まではまだいいが、十歳になると一気に減った。僕が笑顔で写っている写真も同様に少なくなって、たまにそういう写真があっても、無理をしているようなのが痛々しい。家族全員で写っている写真となると、もう一枚も見つからなかった。


 そして、まばらながらも写真の残っていた十一歳のページは、鳥居と人だかりをバックに僕が一人で写る年末の初詣を最後に終わり、次からは中学時代――僕の手は自然と止まった。


 記憶が正しければ、この先には何もない。

 分かっていても、怖かった。期せずして、一つの家庭が崩壊していく様を記録することになってしまったアルバムの終わりを見ることが。


 ごくり、と喉が鳴る。


 震える指でページをめくろうとしたその時、ガチャッと家のドアが開く音がして我に返った。慌てて、元あったように箱の中を整理して持ち上げる。父の部屋に運び入れ、黙っているのも忍びなくて、いつの間にか居間まであがっていた父に声をかけた。


「僕の荷物の中に父さんのが混ざってたみたい。間違って開けちゃったんだ、ごめん」


 本当に間違って開けただけなら、僕はきっとこんなことをわざわざ言わなかったのではないかと思う。我ながら白々しくてどぎまぎしたが、父は「そうか」としか言わなかった。


「それより、昼にしないか」


 父はコンビニのレジ袋を少し持ち上げてそう言った。僕に気を利かせたわけではないだろう。父は鈍くて、不器用で、どうしようもない臆病者だから。

 うん、と頷いて、僕は父と荷ほどきも全く進んでいない居間に二人胡坐をかいて座ると、ほんのりと温かいかつ丼をたがいに無言でかき込んだ。



 四月に入った。


 引っ越しから早くも一週間以上が経ち、四日後には高校の入学式が控えている。

 荷ほどきやゴミの処分もほぼ終わり涼しい日が続く中、暇を持て余しているのは休み期間中の僕だけで、父は土日以外は毎日朝早くから仕事に出ていた。


 僕はといえば今朝も二度寝のすえ、十時くらいに起き出して、朝食なのか昼食なのか分からないご飯をもそもそと食べ、寝癖もなおさず家の中に引きこもるという、いかにも長期休み期間中の学生らしい自堕落な生活を送っている。


 この辺りには確か小学校があるはずで、目覚ましは小学生たちの声だった。ああ、自分は本当に特別な休み期間を与えられているんだなぁ、と幸福を感じながら再び瞼を閉じたのを、なんとなくだが記憶していた。


 とはいえ父が日中不在である以上、家事の大半は僕の仕事だ。

 洗濯、部屋・風呂・トイレの掃除にマルの世話。幸か不幸か間取りもそれほど広くなければ、手のかかる水回りが軒並み一新されているため、いまのところそれほど負担にはなっていない。


 問題があるとすれば炊事の経験が浅いばかりに、連日コンビニ弁当かカップ麺しか食べていないのが問題といえば問題だろうか。

 しかし父も料理は出来ないし、金はかかるがいまのところは仕方がない。


 努力でなんとかできる問題はいいとして、ここ数日この家で暮らしてみて思うのは『隙間風がひどすぎる』ということだ。


 風の強い日は、家中あちらこちらからひゅーひゅーと冷気が吹き込んできて、特に夜などは冬装備でなければ寒くて眠れない。

 今年の冬に備える意味でも、各部屋に一つずつ暖房器具は必要だ、と父と意見が一致したのは、越してきた日の翌朝のことである。


 ベッドの上で寝返りをうつ。仰向けから横向きになると、部屋の中が一望できた。


 仮に玄関方向を南とする。

 そうすると、僕と父の部屋は北の端にあり、南北に長い六畳間である父の部屋に対して、僕の部屋は東西に長い六畳間ということになる。


 いま僕が寝転んでいるベッドは、そんな部屋の北東のすみに北側を頭にして設置され、そのまま西方向に北の壁を背にして本棚、さらにその西側に勉強机と、家具の配置はそのようになっていた。


 南西のすみが父の部屋と通じており、まだ片付けきれていないダンボールがいくつか積まれた書斎が見えた。


 南側は押し入れ収納になっていて、押し入れの木枠に取りつけた四連フックには、まだ一度も袖を通していない新品のブレザーと、白シャツ、チェックのスラックスがハンガーにかかって吊るされている。


 一昨日やっと片付いた僕の部屋も、こうして見ると悪くない。畳にラグマットの組み合わせも、落ち着いた柄がよかったのか意外や意外、マッチしていた。


 僕が通う予定の市立北川高等学校の校舎は、陽隠ひなばり町に隣接する、茲野花ここのか市の北の果て――北川地区のはずれに位置しており、隣り合う明星あかほし地区にある我が家から、徒歩二〇分弱の距離に建っている。


 四月八日が入学式で、それまでには一度制服に袖を通しておきなさい、と父からは言われているが、サイズは注文通りだし、十中八九、着られないなんてことはない思って放ったらかしにしていた。


 ただ、ネクタイが中学までのクリップ式から一般的なものに変わっているから、その辺りは練習がいるかもしれない。まぁ、明日やればいいだろう。そんなふうに考えて、再び仰向けになおる。


 玄関のチャイムが鳴ったのは、そんなだらしのない一日の、午後四時を過ぎたころだった。


 眠りかけていたのだろうか。ふっと覚醒して、夢か現かぼうっと天井の木目を見つめていると、二度目が鳴った。聞き間違いではなかった、と跳ねるように飛び起きて、ばたばたと部屋を出る。この家にインターホンなどというハイテク機材があるわけもなく、スリッパを引っかけて玄関に下り、そっと魚眼レンズを覗き込んだ。


 外には大家のちよさんが立っていた。この時点で僕の気配は外に伝わっているのだろうし、ここから居留守もないのだけれど、寝癖は朝から直してないし、服も寝間着のままであることに気が付いて、ドアを開けるのを少しだけ躊躇った。


 しかし、気配が伝わっているのなら、待たせる方が印象の悪い事に気が付いて、考えを改める。


「あらあら、とぉっても寝坊助さんねぇ」


 ちよさんは、僕の恰好を見てコロコロ笑った。

 白髪交じりで灰色に見える髪の毛――シニヨンというのだったか――を綺麗に束ね、オリーブグリーンのカーディガンを羽織っている。頬だったり、首だったり、年相応にやせ細ってはいるものの、ぱっと見で齢七十には絶対見えないくらい、若々しい。


「すみません」


 僕はなんとなく謝った。

 ふと視線を下げると、ちよさんの両手には近所のスーパーマーケット『一番屋』の大きなレジ袋がそれぞれぶら下がっていた。飛び出した長ネギや、なんらかの肉のパック詰め、お醤油のボトルなどなどが袋の口から覗いている。


 一人暮らしだと聞いていたけど、これらの食材をちよさん一人で消費するのだろうか。


「持ちましょうか」


 重そうに見えて声をかけると、ちよさんは息切れをものともせず、綻ぶような笑顔を浮かべた。


「あら、頼める? 台所まで運んでほしいの」

 

 荷物を受け取ると、取っ手のビニールが手のひらに食い込むほど、ずっしりと重かった。外に出るには少し自分の恰好が気になるけれど、頼み自体はお安い御用。

 まぁ近所だし。寝癖に寝間着でも別にいいか、と靴を履こうとする僕に、ちよさんは慌てて言う。


「ああ、違うのよ。台所まで運んでほしいの」

「この家の?」


 はて、と首を傾げる。

 そんな僕を見上げて、ちよさんはお茶目に片目をつむった。


「台所を借りてもいいかしらね?」

「あ……」


 言われてようやく得心がいく。

 たくさんの食材を消費するあては、僕と父の胃袋だったのだ。


 そうなると、代金はこちらが持つのが道理だろう、そう思って、僕はちよさんが靴を脱いでいる間に部屋まで財布を取りに戻った。高校入学のお祝いに、父から贈られた折りたたみの革財布。

 だが、中身を覗いて直感する。どう見ても持ち合わせが足りない。


 我が家は毎月の小遣い制ではない。欲しいものや金のかかる用事があるときは父に申請して、必要な分だけのお金をもらうというのがルールだった。


「すみません。近いうちに必ずお返ししますから」


 そう言うと、ちよさんは「いいの」を二回繰り返して手を振った。


「勝手に押しかけて、お金を取ったりする気はないもの」

「いえ、でも――」

「あらぁ!」


 食い下がろうとする僕の声を、ちよさんは甲高い歓声で掻き消した。

 視線の先には、居間の一角を囲うペットサークル。その内側で両耳をピンと立てて、マルがじっとちよさんを見上げていた。


「ワンちゃんを飼っているのね!」

「コーギー犬で、マルっていいます」


 マルちゃん、と呟いて、ちよさんは幾重にも皺の刻まれた目尻を細めた。

 僕は、その横顔から視線を逸らしてマルを見る。マルがちよさんと会うのは初めてだ。大丈夫、という意思をこめて頷くと、マルは「やれやれ」と小さく鳴いて、伏せをした。


 改めてちよさんに向く直前、体中に緊張がはしったが、ちよさんは、


「賢いわねぇ」


 と言ったきりだった。

 僕はほっと胸を撫でおろし、無駄吠えのないマルにしきりに感心するちよさんを避け、一足先に台所に入る。


 ここでお金の話をぶり返すのは野暮という気がした。

 重たい袋を調理台の上に乗せると、腕まくりをしたちよさんが隣に並ぶ。並んで立つと、ちよさんの身長は僕より頭一つ分は低かった。


「とりあえず、仕舞えるものはしまっちゃうわね」


 それからしばらくの間、僕は少しだけ恥ずかしい想いをすることになった。

 普段使わないくせに、水垢がつくのが嫌で毎日掃除するものだから、台所は本当に新品同然。コンロ台下の収納はすっからかんで、冷蔵庫には六缶パックのビールが二ケースと1.5Lの炭酸ジュースが二本だけ入っている。越してきてから一週間は経っているのだ。下手な文句は言い訳にもなりはしない。


 僕は正直にこう言った。


「父も僕も、料理の心得がなくて」


 みそ汁や目玉焼きくらいなら作れるが、それ以外となるとてんでダメだった。

 父も似たり寄ったりで、ちよさんがいま冷蔵庫や収納にしまっている食材の四分の一だって、僕は使ったことがない。

 ちよさんは上機嫌に小さく笑った。


「やっぱりね、たくさん買ってきて正解!」


 買い過ぎかなって思ってたけど、と嫌味もなくそう言いながら、テキパキと手を動かすちよさんは、あっという間にぱんぱんに膨らんでいたレジ袋を束ねてしまった。


「男所帯だもの。仕方ないわよ」


 いまどきではない。それでも、実際心得のない者からすると有難い言葉だった。


「道具は……あるわね。包丁、まな板、フライパンにお鍋、ピーラーにおたま……はあるけど菜箸もフライ返しもないか……」

「足りませんか」

「まぁ……、なんとかなるわね」


 僕には十分に思えるが、どうにもそうではないらしい。これからの事を考えると、道具は揃えておきたかった。あとで調べておかねばと思いつつ、いまは別にすべきことがある。


「あの、なにか手伝えることは」


 ただでさえ迷惑をかけている身の上で、これ以上黙って成り行きを見守るのも気が引けた。そうねぇ、とちよさんはこちらを振り向くと、僕の目の高さより少しだけ高い位置を見て、くすりと笑う。


「あるにはあるわね。でも、その前に……寝癖をなおして、服を着替えてらっしゃいな」


 おそるおそる髪に触れると、つんと弾力のある抵抗が返ってきた。

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