柩の丘①
あれはいつのことだったろうか。
「おい……」
声をかけようとして、なぜだか言葉に詰まってしまったのだ。
いいや、違う。理由は明白だった。
彼とヴァランの他には誰もいないその場所で、少年の纏う空気は常と違っていた。
それはあまりに神聖で、そんなことには無頓着なヴァランでさえ、声をかけるのをためらうほどだった。
以前から、知ってはいたことだった。
少年は時々、あらぬ方向を見ることがある。周囲に人がいる時やヴァランといる時には決してそんなことはしない。だが、時折、今のように一人でいる時には、まるでそこに何かがいるかのように宙に向かって笑いかけているのだ。
世界をいつくしむ瞳が、いないはずの何かを追いかける。笑みを結ぶ唇から流れる言の葉は、神に捧げられているかのように厳かに紡がれる。その姿を見る度に、ヴァランは無意識に眉を顰めてしまう。
これ以上、何を捧げるというのだろう。
その身を差し出してなお、何が足りぬというのか。
ぐっと拳を握り、ヴァランは唇を噛み締める。
「おい!」
ふ、と空気が沈んで、一拍。
はたりと目を瞬かせた少年が、いつものようにヴァランを見ていた。
「ヴァラン。どうした?」
幼い瞳に、ヴァランの姿が映し出される。問いかける声は常と変わらず、確かにヴァランを捉えている。それに安堵すると同時に、不安にもなった。
「なんでもねえよ。あんま、ぼーっとしてんな」
駆け寄ってきた少年の頭を、ぐしゃっと布の上から押さえる。くすぐったそうに細められた紅が、しんと胸に沈んでいく。どうすればよかったのかなど、ヴァランに分かるはずもなかった。
今だって、何が正しかったなどわからない。もう、知る気すら起きなかった。
選んだ道が正しかろうが、間違いだろうが、どうだって構わないのだ。
望むのは、唯一つ。
「……知りたいか?」
ふいに、そう問うたのは何の気まぐれか。ヴァランが覗き込めば、少年はいつかの時と同じような顔をしていて。
それを寂しさと取ることは間違いなのだろう。そうしてまた、哀しみと取ることもできないのだろう。哀れむようなものではない。ただ、そうあるだけのことだから。
「知り、たい……?」
鸚鵡返しする己の声に、自問自答する。知って、どうするというのか。知って、何を変えられるのだろう。
この少年の、何を。
「……すまない、戯言だ」
そう、先に視線を逸らしたのは少年だった。
背を向けて、歩き出そうとする背中。
「ちがっ、っ待て!」
気がつけば、とっさに肩を掴んで引き戻していた。勢いあまって、彼の肩にぱさりと布が落ちる。
太陽の下で顕になる、静かな紅。
「勝手に決めてんじゃねえ! まだ何も言ってねえだろうが!」
激昂するのは、己に対してだ。あの日、水の輝きの中で零された言葉を思い返す。拾い上げなかったのは、他でもないヴァラン自身であり、それでも傍にいてくれるのは、他の誰でもない少年だった。
ただ一人、ヴァランに世界を諦めさせなかった存在だった。
諦めさせてなるものかと、そう強く思う。
もう二度と。
二度と、何も。
「……そうだな」
和らいだ瞳と表情に、ぎゅうっと心の臓が痛くなる。ただそれだけのことが、如何ほどの価値を持つのかなど、ヴァランの他には誰も知りやしないのだ。
「話せよ。全部」
全部、全部。その小さな体で背負うものすべてを、吐き出してしまえばいい。頼って、縋って、そうして、この手を握って共にあればいい。
ただ、それだけでいい。
「とはいえ、何から話せばよいものか」
何せ、誰にも話したことがないからな。
そう困ったように微笑んだ顔を、ヴァランは一生忘れないだろう。
それはいままで見たどの時よりも、少年らしい表情に満ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます