修羅場
あべせい
修羅場
「あなた、いいわよ。先で……」
妻が私に言った。
ここは理髪店。
私たちは、順番待ちをする長椅子に腰掛けている。
この店の理髪師は全部で3名。いまは、1人が休憩中なのか、2人いて、いずれも客の相手をしている。そのうち、1人はまもなくカットを終えそうで、次は妻の番だ。しかし、妻はそれを私に譲るという。
というのも、妻が気に入っているいつもの理髪師は、いまは他の客にかかりきり。妻は、出来ることなら、いつもの理髪師にやって欲しいというわけだ。
私は妻の気持ちを考え、承知した。
ところが……。
理髪店といっても、この店はショッピングモールの施設内にあり、千円で髪のカットだけをする格安の床屋だ。洗髪、髭剃りまでする従来の床屋はすっかり数が少なくなっていると聞いている。
私も、10年以上も前から、この種の理髪店を使っている。妻は昨年までは美容院を利用していたが、客の応対や家計のことを考えあわせ、私と一緒にこの店に来るようになった。
妻には申し訳ないと思う。しかし、妻はそれほど気にしている風がない。ただ、妻は、髪の数ヶ所に癖毛があるので、それをうまく処理してくれる理髪師にやって欲しいと考えている。その職人が、この店に3人いる中の1人、「薮原一喜(やぶはらかずき)」だ。
私が、いま1人の客のカットをし終えた若い理髪師「角岩基朗(つのいわきろう)」にやってもらうと、妻は薮原にやってもらえることになる。もう1人、女性の理髪師「河波千寿(かわなみちず)」は、昼休憩をとっているらしく、姿が見えない。
客が理髪師を指名できれば、いいのだが、この種の格安の理髪店には、そういうシステムをとっているところはない。各職人は、こなした客の数に応じて報酬が決まるから、不公平にならないよう、順番に客をさばくシステムになっている。
そのときだ。
女性の千寿が戻ってきたッ!
妻の番に代わって角岩の理髪用椅子に腰掛けたばかりの私は、驚いて妻を振り返った。
妻が希望している薮原は、あと数分でいまの客の頭を仕上げることが出来る。しかし、千寿は、店に戻ってくるなり、椅子の高さを調整し、スモックを手にして、順番を待っている客のほうを見た。
そして、
「お次の方、どうぞ」
と言った。
万事休すだ。やむを得ない。順番を次の人に譲るわけにいかない。妻は、本当はそうしたいのだろうが、身内でもない他人に譲るとなると、薮原たちも注意せざるをえなくなるだろう。
妻は、仕方なく腰を浮かした。
と、突然、私の耳に、
「奥さん、すいません。私に譲っていただけませんか?」
に続いて、妻の戸惑った声が、
「エッ、エエ……」
と、聞こえる。
鏡のなかで妻を見ると、妻の次に並んでいた中年男性が、妻の反応も見ずに腰をあげると、千寿が待つ理髪用椅子に進んだ。
「どうぞ」
千寿は驚いている風はなく、当然のように迎え入れている。
「きょうはどのようにしますか?」
私の妻は、ホッとしたような表情をして、手にしている雑誌に目を落とす。妻にとっては願ったり叶ったりなのだから、内心「ふふふ」と悦に入っているはずだ。
しかし、この店では、こういうことは珍しくないのか。表面的には、穏やかな空気が店内に流れている。
私は、妻に先んじた客がなぜそうしたのか、考えた。単に急いでいるためか。
私は、鏡の中で、てきばきと動く角岩の後ろに、ふと目がいった。
妻の次に並ンだ若い男が、手のなかでスマホをいじながら、落ち着きなくキョロキョロと左右を見ている。優しい目をした、ちょっと見にはいい男だ。
薮原が、手ぼうきを使い、客の体にまとわりついている毛を落とし始めた。客にとっては、まもなく理髪終了になる。
これで妻は、確実に薮原にやってもらえる。わずか10数分のことだが、妻にとっては髪の毛のカットの出来不出来で、その日の気分が大きく左右されるから、大切なことなのだ。
と、携帯の着信音が鳴った。
「失礼します」
と言ったのは、千寿だ。
千寿は、ポケットからスマホを取り出しながら、カーテンで仕切られたスタッフ用の待機室に消えた。急な電話が入ったのだろうが、仕事中は、携帯はマナーモードにするか、電源は切って置くものではないのか。
ところが、千寿は控え室から数秒で戻ってくると、終わった客を送り出した薮原のそばに行き、聞き取れない声で二言三言ささやいた。
薮原はうんうんと頷く。
すると、千寿は、椅子に腰掛けて待っている男性客に対して、
「申し訳ありません。急用ができまして。あとは薮原が引き継ぎます」
と言い、店の制服姿のまま、さっさと店の外に出ていった。
このため、妻を追い越して千寿の客になったばかりの中年男性は、薮原が扱うことになった。
「どういうことだッ!」
中年男性は、薮原にかみつくように言う。
「ぼくは、チズちゃんにやってもらうンだよ」
「すみません。河波は急用ができまして……」
薮原は、頭を下げ、殊勝に詫びている。彼がこの店の責任者なのだろう。
それより、私が驚いたのは、中年男性が千寿を「チズちゃん」と呼んだことだ。
理髪師はそれぞれ胸に名札を付けている。だから、姓名、フルネームを知る事は容易だが、下の名前で呼ぶにはそれ相当の人間関係がなければならない……。
「キミがやるのなら、帰るッ。いいね。お金は返してもらうヨ」
この店は代金を前金で支払って、支払い証を受け取り、その支払い証を担当の理髪師に差し出す仕組みだ。
薮原は初めて渋い顔をしたが、非は急に出ていった千寿にあると考えたのか、中年男性の要求に応じた。
しかし、私の妻は幸いというか、二転三転して、薮原の手にかかることになり満足そうだ。
それから、10分ほどたったろうか。私も妻も、まもなく終えるというとき、千寿が戻ってきた。
そして、何事もなかったように、
「次の方、どうぞ」
と言って、妻の次に並んでいた若い男性を促す。彼は、家電量販店「オオシマ」とプリントされた、ユニホームを着て、「谷馬雄太」と記されたIDカードを首から下げている。
谷馬は、大儀そうに立ちあがると、千寿が勧める入り口ドアから最も遠い、奥の理髪用椅子に腰掛けた。
そのとき、私は見てしまった。
千寿が、椅子の肘掛けをつかんで腰掛けようとする谷馬の手をギュッと握った瞬間を、だ。
他の客に見られないよう、ぽっちゃりした肉体で、周囲の視線を隠したつもりなのだろうが、私には役に立たなかった。
心臓の鼓動が急に速くなり、私は我がことのようにドキドキした。
千寿はいくつだろうか。28、9才。男性は千寿より、3つ4つ年上にみえる。2人は、ただならぬ関係に違いない。
私は、千寿と谷馬のようすをもっと観察したかったが、
角岩から、
「お疲れさまでした」
と言われ、預けていたバッグを手渡されると、外に出るしかなかった。
妻は、私に遅れること数分で、私が待つ2階フードコートのテーブル席に現れた。
「あなた、見たでしょ」
私の向かいに腰かけるなり、妻は言った。
私は頷いた。
私と妻はこういうとき、話が早い。2人とも、目の付けどころが似ているのだろう。
「あの女性理髪師、若い男性客といい仲なンだろうけれど、ちょっとおかしくない?」
「なにが?」
「自分の職場でいちゃつくことないじゃない。勤務が終わってから、ゆっくり会えばいいのに……」
それはそうだろうが、それが出来ない事情があるのだろう。
「順番をいじって、男性客が自分の担当になるように小細工していたけれど、お客には迷惑な話よ」
妻も気付いていたのだ。千寿は、谷馬を自分が扱えるように、妻の番を追い越して客になった中年男を、急用が出来たと言って拒絶した。スマホの着信音が鳴ったが、その電話は谷馬にかけさせたのだろう。あるいは自分で操作したか。着信音だけが目立てばいいのだ。
私は、谷馬がいやそうにスマホをいじっていた姿を見ている。
「女のほうが積極的、男が乗り気じゃないということは……」
「不倫よ。それも、男はすでに後悔している」
妻は断定する。
「カレのほうは、あそこにある家電量販店の店員でしょ」
量販店の「オオシマ」は、フードコートと内部で直接つながっている。妻はその量販店のほうを示して、
「2人は、同じモール内で知り合い、火遊びしたのだろうけれど……」
と言う。
「どうして、不倫だと思うンだ?」
私は、男も女も独身だろうと見当をつけていたので、妻に尋ねた。
「簡単よ。あの床屋で、あのイロ男は中年男がわたしの番を越したあと、わたしの隣に来たでしょ。そのとき、カレが手にしているスマホが見えた。その待ち受け画面が、赤ちゃんの写真だったもの」
なるほど。谷馬には赤ん坊がいる。このまま進めば、ロクなことが起きない。
「そういえば、あの谷馬という男はおまえのタイプだな」
私はつい気になっていたことを口に出した。
「フッ、フフフフ。ヤいてくれているの?」
妻は久しぶりに屈託なく笑った。
妻は33才、私は35才だから、あの女性理髪師と家電の谷馬とも、年齢は近いはずだ。
「あっ、噂をすればよ……」
フードコートの入り口のほうを向いていた妻が、そう言ってから顔を隠すように俯いた。私は、所在なげにゆっくりと視線を転じる。
すると、私の背後から谷馬がのそのそと現れ、10数メートル先のテーブル席にどったりと腰掛けた。
そこには、赤ん坊に食事を与えている谷馬とほぼ同年齢の女性がいた。
「遅かったじゃない。どうしたの?」
「あァ、疲れた……」
「また、床屋さん? 先週もやらなかった?」
「そうだったかな」
「靴を見に行ったのじゃ、なかったの?」
「行ったけれど、いいのがなかった。それで……」
「それで?」
「……」
「隣が床屋だったから、入った。先週はそう言ったわね。きょうは?」
「きょうは……」
「きょうは? チズちゃんに引っ張り込まれた、って?」
「チズ」は河波の下の名前だ。妻も聞き耳を立てていたらしく、私を見て「ふふふ」と、声を出さずに笑った。
「おまえ、そのこと、どうして?」
谷馬の顔色が変わった。谷馬の妻は、見た感じ、夫より少し年上のようだ。ぽっちゃりタイプの千寿に比べると、かなり痩せている。容貌は、男を振り向かせるには十分魅力的だが、どこか刺々しい印象がある。
「さっき、電話があったわ。ここに」
谷馬の妻は、手の中のスマホを示す。
「エッ!」
どうして、あいつは女房の携帯番号を知っているンだ。谷馬の眼はそう告げている。
「何を言われた?」
「いつ別れるンですか、って」
「エッ、あの女……」
「ユウちゃん」
谷馬の下の名前は、雄太。
「あなた、コウタに会えなくなってもいいのッ!」
谷馬の妻の表情が一変した。怒りの形相すさまじい。不動明王というより、般若顔だ。
「落ち着け。あの女とは、まだそこまでいってない」
「認めたわね」
谷馬は、シマツタという顔をした。否定すれば、ここはくぐりぬけられたのかもしれない、という顔だ。
「いつからなの、あのチズとは!」
「いつから、って……まだ、3ヵ月だよ」
「何回?」
「エッ」
「ホテルに行ったか、ってよ」
「一度だけだ」
谷馬の声は小さい。
「たった一度で妊娠させた、っていうのッ!」
「待てッ。そんな話は聞いてない。ウソに決まっているッ」
「産む、って言ってるわよ」
「そ、そんなことを言われても……」
「どうするつもりッ!」
谷馬は時計を見る。
「そろそろ仕事に行かないと……」
「仕事と家庭の、どっちが大切なの。ユウちゃん、こんなことを言わせないでよ」
谷馬の妻は、少し冷静になってきたのか。
「わかった。別れる」
「いつ?」
「だから、すぐ」
「すぐ、って、いつ?」
「ウーン。あさって……」
「なに寝惚けたことを言っているの。あさって、じゃないでしょ。きょう。たった、いまよッ!」
「いまと言っても……」
「あの女はすぐそばにいるじゃない。話が早くていいわ。ユウちゃんがいやなら、わたしが乗り込ンでもいいのよッ」
「待て、待ってくれ!」
谷馬の妻は、本当にやりかねないだろう。
「わかった。これから話してみる」
谷馬は、決意して立ちあがった。
「ユウちゃん、そっちじゃないでしょ」
谷馬は、フードコートの出入り口に向かわず、中で繋がっている「オオシマ」のほうに行きかけたが、妻の声で立ち止まった。
「欠勤させて欲しいと言ってくるンだ」
「エッ、別れ話をするのに、そんなに時間がかかる、っていうの!」
「いくらなんでも、5分や10分じゃ終わらない。時間をかけないと、あとで何をされるか、わからないだろう」
「ウーン……そうね。わかった。ユウちゃん、こんどの休みでいいわ。それまで我慢する」
谷馬の顔から、思わず笑みがこぼれた。その瞬間、カレの妻の顔から、怒りが噴き出た。
「ユウちゃん! なにがオカシイの!」
ところが、谷馬の妻の声に続いて、一際大きな声が。
「ユウタ、遅いじゃない!」
私と妻は、驚いてその声の主を探した。
フードコートの出入り口に仁王立ちしている。河波千寿だ。私服に着替えている。ということは、勤務が終わったのか、早退してきたのか。
妻と愛人のぶつかりあい。こんな光景は滅多に見られるものじゃない。しかし、他人事にしていて、いいのか……。
「ユウタ、『車で待っていて』って、メモを渡したでしょッ!」
千寿は、つかつかと谷馬の家族がいるテーブルに近寄ると、谷馬だけを見て、そう言った。そばに彼の妻とこどもがいることが目に入らないようだ。
「チズちゃん、いやチズさん、ちょっと女房に話があって……」
「女房!?」
千寿は初めて、谷馬の妻子の存在に気がついたのか、慌てて、谷馬の向かい側に腰掛けている母子に目をやった。
「このひとが、ユウタの奥さん?」
千寿のことばが急におとなしくなった。その程度の礼儀はわきまえているようだ。
「わたし、谷馬雄太の妻、谷馬柾美(たにうままさみ)です。それと息子の功太」
柾美はそう言って、抱きかかえている赤ん坊を示した。
すると、千寿も負けずに、
「わたしは、谷馬雄太さんとマジメに交際している、看護師の河波千寿です」
「看護師!?」
「週に3日、夜勤明けの昼間、3時間だけ、1階の千円カットで働いています」
「ユウちゃん、この前、脚の骨にヒビが入って7日間入院したけれど、そのとき……」
雄太が頷いた。
「そういえば、あのとき、ユウちゃんのベッドにやけに出入りする看護師がいたけれど、あなただったのッ」
「あれは仕事でお邪魔しただけです。それより、ユウタ、あなた、『入院中、妻は一度しか顔を見せない』と嘆いていたわよね。わたし、それでとてもかわいそうになって、心が動いた。ちょうど恋人と別れたときでもあったし……」
似た話、ってあるものだ。私は、いよいよ、他人事ではないと思った。
「母親は子育てで忙しいンです。わたしが相手をしない間、ユウちゃんの相手をしてくださったようですけれど、それは小さな親切、大きなお世話です。たったいま、別れていただきます」
「ユウタ、それでいいの? あなた、わたしと別れられるの?」
千寿は雄太の隣に腰掛け、大胆にも肘で雄太の二の腕を突っついた。これでは、どちらが妻か愛人か、わからない。
「ユウちゃん、いい加減、目を覚ましたら。こんな女のどこがよくて……お肉がわたしより、多いだけじゃないの」
「そう。カレは、このお肉が『柔らかくて、イイーッ』って、いつも、ね、そうよね。ユウちゃん!」
どちらも『ユウちゃん』になった。こんな男のどこがいいンだろう。モテる男ってわからない。私は知らず知らずのうちに、眼が優しいだけの、弱々しい谷馬に、嫉妬していた。
「あなた、あなた……」
私の妻だ。
「どうして今日、床屋に行こうとわたしが言ったのか、聞かないわね」
谷馬の修羅場に釘付けになっていた私は、妻の声で我に返った。
「うちは1ヵ月おきに床屋に行くことにしているじゃないか」
「前回から、まだ20日しかたってないわ。10日も早いことになる」
「少しくらい、いいじゃないか」
「わたし、このフードコートで約束しているの」
「エッ、約束?」
「あなたの大切なひとがここに来るのよ」
「おれの大切なひと!? 大切なひとは、この世におまえしかいない……」
「あなた、昨日、家の電話にかかってきたの」
妻は、まだ微笑んでいる。
「だれから?」
「だから、言ってるでしょ。あなたの大切なひとからよ」
私の体が、ギクギクときしみ始めた。
「わからない。おまえの言っていることが……」
「とぼけるのね。もうすぐ、あちらのご夫婦のように、厄介なことになるわ」
「おまえ、うちには小中学生の娘が3人もいるンだ」
「こどもが多いほど、厄介だわね。でも、我慢には限度がある」
「バカなまねはよしてくれ」
私は、あの女がそんなバカとは思っていない。
どうして、妻に電話をかける必要があるのか。考えられない。確かに電話番号は知っている。同じ職場だから、固定電話の番号は、職員名簿に載っているのだから。
そのとき、
「捜したよ。チズちゃん!」
私と妻が、同時に声のほうを振り向いた。谷馬家のテーブルに、息せき切って駆け付けた男がいる。理髪店で妻を追い越し、河波千寿に頭をやってもらおうとした中年男性。
「こ、こんなところで、な、何しているンだよ。ふぅーふぅーふぅ……」
中年男性は、まだ息が苦しいようす。
「このバカ、なにしに来たの!」
千寿が立ちあがって、中年男性の前に行く。
「あなたとは、もう別れたの。あなたは真っ赤な他人なの」
「それはそうだけど、まだ別れて4ヵ月じゃないか」
「5ヵ月よッ。これ以上、近寄らないで。警察を呼ぶわよ!」
私は、千寿という女が、元亭主を嫌い、谷馬にニセの電話をかけさせて、理髪店を出て行ったのだと悟った。千寿という女が、見た目でも10才以上年の離れた中年男性と結婚した理由はわからないが、別れた理由はわかるような気がする。しつこく、つきまとわれては、好きでも嫌いになってしまうだろう。
「千寿さん、警察をお呼びになったら。わたしたちも、そのほうが助かります」
と、谷馬の妻柾美。
「さァ、いまのうちにわたしたちは帰りましょう。あなた、立って」
「じゃ、おれは仕事に行くから」
と谷馬。
「早く、帰ってきてよ。そうでないと、うちも、警察にストーカー被害を届けることになるから」
「あァ……」
谷馬は渋い顔をしながら、妻子と右左に別れて去った。
千寿はまだ、中年男性とやりあっている。
「あなた、ねェ、あなた」
私の妻だ。
「今回だけ、許してあげる」
「エッ?」
勝利のきざしが見えてきた。
「でも、油断しないことね。女房に隠しごとは、通じないから」
私はさきほどから考えている。どうして、あいつの存在が妻にバレたのか。いや、妻が疑いを持ったのか。どこかに手落ちがあったとしたら、それはどこか。
あいつとの連絡は電話もメールも使わない。直接、メモ書きを手渡す方法だ。急なことがあったとき不便だが、これがいちばん安全確実だから。
「あなた、ワイシャツを洗濯カゴに入れるとき、ポケットのなかに紙切れを入れておかないでよ」
「エッ……」
私は背筋が寒くなった。
「紙切れがぐちゃぐちゃになって、何が書いてあるか、なかなか読めない。読み解くのに苦労したンだから、ねッ……」
妻はそう言ってから、私が最も気に入っている、かわいい笑顔で私を鋭くにらみつけた。
(了)
修羅場 あべせい @abesei
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