第肆拾玖章 聖女の悪巧み 或いは侍達の友情

「ちぇええええええええええええすとぉ!!」


 ゲルダの背後から男が迫る。

 振り下ろされる木刀の勢いは凄まじく、常人では避けるどころか切っ先も見えないであろう。その上、男が発した気迫は人の動きを縛るだけの威があった。


「ほいさ」


 しかしゲルダがくるりと振り返った時には男はどうと倒れていた。

 振り下ろす剣より振り返りながらの横薙ぎの方が早かったのだ。

 しかもゲルダからは殺気も剣気も感じない。

 顔には笑みさえ浮かべていた。


「どうしたな? 後ろから奇襲をかけてそのザマか?」


「つ、強すぎる…これで三十人だぞ」


「ええい! 相手は一人だ。押し包んで蹴殺けころせ!」


 周囲に倒れる仲間に怯むも横にいた男が鼓舞した。


「よし! 四方から行くぞ!」


 ゲルダの前後左右から同時に斬りかかる。


「まるでなってないのぅ」


 ゲルダは呆れて溜め息をつくと前方の男へと駆け出す。

 これにより四人同時に振り下ろす機を外された。


「狙いは悪くないが所詮は素人よ」


「なっ?!」


 前方の敵を倒して振り返れば、寸前までゲルダが居た場所を無様に振り下ろしている三人の姿が見えた。しかも一人は対面にいる仲間の肩を痛打している始末だ。


「これで終いじゃ」


 残った者達も袋竹刀で頭を打たれて轟沈する事になる。

 一撃で人を屠る威力はあるが結局は動かない標的まとを相手の稽古でしかなく、素早く動く敵には翻弄される結果に終わった。

 実際に人に打ち込んでもいたようだが、それとて縛られていたから当たったのだ。

 示現流は農民を剣士に育成するには有効な流派ではあるし、稽古も実戦を想定して立ち木に向かってひたすら振り下ろすもので、これが俗に云う“ニの太刀要らず”の豪剣の修得へと繋がる。

 達人ともなれば立ち木を打った時に煙があがるとも云われており、初太刀に全てを賭けた一撃を躱すのは勿論、受け止める事も容易ではない。

 受けた初撃のあまりの威力に自らの刀の峰を頭にめり込ませて死んだ者がいるとも云われており、その鋭さは躱すに躱せなかったともいう。

 かつて新撰組局長・近藤勇が「薩摩者の初太刀を外せ」と云ったとされているが、初太刀を躱したら素人同然というのは誤った認識だ。

 当然ながらニの太刀、三の太刀と続く連続技も存在している。

 農民達も僅か数ヶ月で随分と鍛え上げられていたが所詮は実戦を知らぬ者達だ。

 三十人を超えていた青葉武左衛門の弟子達は瞬く間に瞬殺されてしまうのだった。


「お疲れ様。どうだった?」


 青葉武左衛門こと“土”と“豊穣”を司る『虎』の聖女・イルゼがゲルダを労う。

 差し出された手拭いで汗を拭いながらゲルダは答えたものだ。


「想像よりは練り上がっておる。甲冑を着た騎士にも引けは取らぬであろう」


「そう、ありがとう」


 だが――微笑むイルゼにゲルダは厳しい目を向ける。


「騎士に勝つ事は出来よう。だが戦争いくさには勝てまいよ。どれだけ奮戦しようとも聖都軍や神殿騎士達の物量の前ではたちまち踏み潰されてしまうだろうさ。況してや聖都軍を率いるのはあの・・大将軍だ。ヴァレンティーヌやアンネの親分、そして奔放なベアトリクスですら心服している大将軍を相手にしては万が一にも勝ち目は無いぞ」


 場合によっては聖女三人も敵に回す事になると付け加える。


「それは分かっている。大将軍が育て上げた屈強な騎士団。強大な魔力を持つエリート魔法遣いで構成された魔導兵団。スチューデリア御抱えの隠密集団『聖都影狼衆フェンリル』も投入されるかも知れない。そうなったらこの秘密道場なんて簡単に割り出されてしまうでしょうね」


「分かっているのなら何故? 一揆が起こったところで星神教ヤツらには何も響かぬぞ。帝室とて容赦はしまい。勝ちの目が無い戦いを挑む狙いは、やはり帝室と百姓をぶつけて国力を低下させる事か?」


「そんな単純な話じゃないわよ」


 イルゼは撤収作業をしている百姓達を眺めながら答えた。


「ゲルダ、貴方はアタシの事、どのように聞いているの?」


「噂程度の事しか知らんわえ。お主がスチューデリアの皇子との婚約を破棄されて城から出された。ワシが知っておるのはその程度よ」


「貴方の事だから情報に疎いんじゃなくて興味が無いだけなんでしょうね。もうちょっとスチューデリアに目を向けてくれると話もしやすかったんだけど」


「無理云うな。我が身は一つよ。『水の都』の浄化、ガイラント帝国との交流、最近ではバオム騎士団の指南役じゃ。聖都にまで気に掛けておる暇はないわいな」


 貧乏徳利から杯に酒を注いで一気に呑み干してから苦言を呈したものだ。

 敵地といって過言ではない状況で酒を呷るゲルダの度胸にイルゼは苦笑する。


「それでお主はいつから天魔宗と繋がっておったのだ。城を追い出された時か?」


「いいえ、もっと前よ」


「ほう? では皇子を寝取られた時に唆されたか」


「もっともっと前よ。“豊穣”の力に目覚める前、アタシはある衝動を抱えていたの」


「衝動とな」


 イルゼは頷くと腰から鞘ごと太刀を抜いて『蜻蛉』の構えを取る。


「小さい頃から知らない筈の『蜻蛉』の構えをとってね。木に向かって振り下ろすの。元々力は強かったけど七つになると木刀で立ち木を折れるようになって、十にもならない内に岩を砕くようになっていたわ」


「ワシも示現流の剣客と立ち合うたが岩をも砕く者はおらなんだぞ」


 流石は『虎』の聖女よな、とゲルダは笑った。

 『亀』のクセに素早い貴方に笑われなくないわ、とイルゼは憮然として返す。


「それを天魔大僧正様に見出されてね。前世の記憶を引き出されたってワケ。アタシの前世が人斬りと呼ばれていたなんてショックだったけど、習った覚えの無い剣術の正体を教えてくれた大僧正様に、つまりは天魔宗に帰依したのよ」


「面白いものじゃな。よもや聖女として召し出される前から天魔宗であったとはお釈迦様でも気が付くまいて。つまりお主は裏切ったのではなく表返り・・・であったのか」


「信じてくれた事も責めないでいてくれた事も嬉しいけど、そんな風にカラカラ笑われると複雑なんだけど……」


「ま、ワシも前世の記憶があるからの。しかし、そうなると悔いが出るのぅ」


「悔い?」


「お主がこれ程面白いヤツと知っておればもっと深く付き合っておったと云うておるのよ。垢抜けぬ田舎娘、一皮剥けば剣客でござったか」


 上機嫌に杯を空けるゲルダにイルゼの頬が引き攣る。

 こっちは斬り捨てられる覚悟で正体を明かしたのにこの余裕はなんだ。

 イシルの敗北は知っている。

 プライドが高く、策士気取りのクセにどこか抜けているが、その実力は本物だ。

 エルフというだけあって弓の名手であると同時に天魔大僧正により日本剣術の三大源流の一つである陰流かげりゅうを仕込まれている。

 何度か手合わせをした事があるが示現流の初太刀をたやすく受け止められてしまうのだ。しかも受け止めるのは切っ先である。

 その畏るべきイシルが繰り出した弓の奥義『流星三連』を破られたと聞いた時は我が耳を疑ったものだ。

 幸い十六夜いざよいが介入した事により逃走に成功したようであるが、その事はイルゼに大きな衝撃を与える事となった。

 十大弟子同士でなあなあ・・・・にならないよう天魔大僧正の密命により皆の前では亜人扱いしているが実のところ頼りになる姉貴分としてイシルを慕っていたし、イシルもまた陰ではイルゼを可愛がっていたのである。

 頬を赤く染めてケラケラ笑うゲルダに、それでも十大弟子の中でも上位にいる孤月院延光とイシルに勝った剣客か、と遣り場のない感情が湧き起こる。


「それでお主は星神教に聖女にされてどうしたな」


 すっと冷徹な目となったゲルダにイルゼはたじろいだ。

 熱くなりかけたイルゼの心がさっと冷やされて感情と思考が上手く噛み合わなくなってしまう。


「天魔宗の密偵となったか」


「い、いいえ、天魔大僧正様は時がくれば声をかけるから、それまで心のままに生きろと云われてそれっきり…連絡役つなぎが接触する事もなかったわ」


 流石に三百年の時を生きる老獪な戦術家は会話の主導権をイルゼに握らせない。

 だらしない姿を見せてイルゼが呆れ怒ったところに凍えるような殺気をぶつける。

 イルゼにしてみればいきなり冷水をぶっかけられたようなものだったに違いない。

 自分でも気付かないままゲルダの訊問に答えていた。


「それでどうしたな」


「お城の中で生活しながらスチューデリア中に“豊穣”の力を送っていたのよ。そして転生して六十年、聖女になって五十年が過ぎた頃、ローデリヒ皇子が生まれたの」


「今からニ十年前であったかな」


「十八年前よ。でもローデリヒのお母上は産後の肥立ちが悪くてそのまま亡くなってしまったの。そこでアタシが乳母となった。まだ生娘だったけど“豊穣”の力ゆえか、母乳が出たし、何故か目が開かない内から皇子に懐かれていたから」


「乳母を婚約者としたのかえ」


「そんな気味悪そうに云う事ないでしょう」


 イルゼは憮然として云った。


「でも、そこからが噂と違うところなの」


「うん?」


「確かにローデリヒはアタシに懐いていた。ヴァレンティーヌと協力して教育した御陰で頭脳も明晰。それだけじゃない。アタシは示現流もローデリヒに伝授した。その結果、あの子は誰よりも賢く強くなったわ。自慢の弟子よ」


「本当に面白いヤツだな、お前さんは。他の皇子達がサーベルを持つ中で長兄は木刀を持って「ちぇすと」と猿叫えんきょうをあげて稽古をしておったか」


「その甲斐あってローデリヒは負け無しよ。大将軍が育てた精鋭にだって勝ち越していたもの。大抵の剣士は気迫だけで降参したものよ」


 けど――イルゼの表情が曇る。


「ストイックに剣を磨きすぎたのがいけなかったのかも知れないわね」


「何があった?」


「ある舞踏会の夜、ヴァイアーシュトラス公爵家の令嬢・ローゼマリーを見初めてね。アタシとヴァレンティーヌが察した時にはローデリヒは彼女に夢中になっていたわ。しかも既に男女の仲となっているというおまけ付きでね」


「それで寝取られた訳か…ん? ちょっと待て」


「そう、その段階ではアタシとローデリヒは婚約してはいなかったの。勿論、懐いてくれてはいたけど、それは母代わりとしてであって女としてではなかったわ」


「どういう事だな?」


 首を傾げるゲルダにイルゼは初めて怒りに顔を歪ませた。


「ローデリヒは罠にかけられたのよ」


「罠とな?」


「ローゼマリーは慈母豊穣会の信徒だったの」


「慈母豊穣会? スチューデリアでは禁教とされておるではないか」


 慈母豊穣会は星神教と並ぶ巨大宗教である。

 星を神に見立てた星神教、精霊信仰のプネブマ教、そして地母神を崇める慈母豊穣会はこの世界において三大宗教と呼ばれるほどの勢力を誇っていた。

 慈母豊穣会が何故聖都スチューデリアで禁止されているのかというと、数千年も昔、星神教は地母神が支配する実りある大地を欲して侵略した過去があり、彼女が“豊穣”だけでなく“多産”も司っていたことから房事に奔放であろうとこじつけに近い云い掛かりで淫魔へと貶めて信徒を虐殺した事があった。

 これにより地母神は怒りのあまり本当に淫魔の王となって星神教に復讐を始めてしまい、今度は星神教の教徒や僧侶を誘惑し堕落させたという。

 しかも自堕落となっただけでも許し難いのに罪の無い地母神の信徒を欲の為に虐殺した星神教徒になんと主神である太陽神・アポスドルファが炎のたてがみを持つ獅子という恐ろしい姿に化身して天罰を下したのだ。

 怒り狂う巨大な獅子に畏れた信徒達は太陽神に許しを乞い、千日の祈祷の末に漸く許された時には星神教の信徒は半分以下にまでなってしまったそうな。

 以来、星神教は他教であっても差別する事を禁忌としたそうである。

 ところが話はそれで終わりではない。

 神代と呼ばれる太古にあっても強大であった地母神を崇める集団が現れたのだ。

 信仰により淫魔から神として復活した地母神とその集団は“豊穣”と“子宝・・”という現世利益を武器に信徒を増やし、また潤沢な資金をも武器にして商売の手を広めて瞬く間に宗教的にも商業的にも躍り出てしまったという。

 目に見える奇跡と経済力によって星神教も無視できないほどの勢いを増した彼らは慈母豊穣会と名乗り、新興宗教でありながら神代より続く星神教とプネブマ教に追いついたそうな。

 星神教としては商売敵・・・を押さえ込みたいのだが、過去に自らの信徒を滅ぼすまでに怒り狂った太陽神の伝説もあってか手を出す事は憚られ、せめて星神教を国教とする聖都スチューデリアでの布教を禁止するに留めるしかなかったという。

 その禁忌タブーとされる慈母豊穣会のシンボルがローゼマリーの下腹部に彫られていたと云うではないか。


「なるほどのぅ。ローデリヒ皇子が見初めたご令嬢が慈母豊穣会の信徒であったならば不祥事どころではないわな。ローデリヒを追い落としたいヤツらはこぞって飛び付くであろうよ。早々に引き離すのが賢明であろう」


「ところがローデリヒがローゼマリーから離れないのよ。“私がローゼマリーを守ってみせる”と鼻息を荒くしている始末なの。もうあの子は身も心もローゼマリーの虜になってしまっていたのよ」


 そして、ついにローゼマリーが禁教の信者であるのではあるまいか、と疑う者も現れてしまい、証拠を掴もうと彼女の周りを調査しているらしい。

 

「ははん、禁教の令嬢に鼻血が頭に上った皇子様か。飢饉の立て直しの真っ最中にこんな不祥事を起こしたら、そりゃ廃嫡待った無しじゃろうな」


 あわよくば扱いやすい第ニ皇子を擁立して聖帝に就かせようと企んだか。

 獅子身中の虫はどこにでもいるな、とゲルダは笑った。


「面白そうに云わないで。それで手に負えなくなったアタシは天魔大僧正様に手紙を出したの。このままでは聖都スチューデリアは崩壊するってね」


「そこで天魔大僧正は今回の騒動を思いついたのか」


「立案は十大弟子の一人よ。知恵は働くんだけど決して姿を見せる事は無い不気味なヤツでね。でも大僧正様のお許しが出たから実行したの」


 まずイルゼはヴァレンティーヌと協力して有りもしない婚約話を近しい人物にでっち上げ、数年後に一方的に婚約を破棄されたと噂を流して姿を消す。

 その間、逃散百姓を集めて調練を施し、一揆の画策を敢えて臭わせた。

 フェンリルの嗅覚は必ず一揆を嗅ぎつけると信頼・・しつつ、百姓達は決して見つからぬよう秘密道場で匿うまうものとする。

 フェンリルが一揆の証拠を集める事に躍起になっている間に支援物質を高値で民衆に売り捌いている貴族の摘発し厳罰に処す事で王侯貴族の耳目を一揆に集中させた。

 そこまでの目論見は当たって支援が正常に機能するようになり農民の流出を食い止める事に成功し、悪徳貴族は震え上がってローデリヒへの追求どころではなくなったそうである。

 またフェンリルを遠ざけていた理由は、彼らは諜報に長けていたが結局は貴族に飼われているようなものであった。支援物資の横流しの証拠隠滅も行っていたようで一揆探索の任を総出で当たらせた結果、証拠隠滅に手が回らなくなったそうである。

 後はローゼマリーをどうにかするだけであった。


「ところが事態は思わぬ方向へと暴走する事になってしまったの」


「暴走?」


「十大弟子の一人にフェーという少年がいるのだけど、無邪気な振りをして実は半グレ集団『神を見限った者達』の主導者・フェッセルンの息子だって判明したの」


「ここに来て半グレか」


「ええ、フェーは可愛い顔をして凄まじい二刀流の達人であり、天魔宗への寄付金が信徒の中でも一番多額である事から十大弟子になったのだけど、その寄付金がまさか半グレから流れていたとは思わなかったわ」


「金に貴賤は無いからのぅ。大僧正殿も拒まんかったか」


「フェーが半グレと繋がっていると知ったのはごく最近の事よ」


 フェーは一揆を画策している農民達へ武器の提供を始めてしまったのだという。


「一揆はあくまでスチューデリアの耳目を集める為のフェイクだったから武器は無用だって云ったのだけど聞き入れなくてね。ついにはアームストロング砲やガトリング砲まで用意してしまったの。まさか四方山話よもやまばなしに聞かせただけの兵器を再現するとは思わなかったわ」


「む? お主が用意させた物では無かったのか?」


「冗談でも笑えないわ。私の目的はあくまでローデリヒを守る事よ」


「だがお主はまた西南戦争とやらを繰り返せると云っていたそうではないか」


「新右衛門君ね? それはフェーの耳を気にしての事よ。今、下手に動けばフェーは独断で農民を使って一揆を起こすでしょうね。折角手に入れた戦力を手放したくはない。農民を尖兵にして各地を襲い自らの手を汚すことなく街や村を手に入れる事が出来るのだから。けど、そんな事をすれば飢饉以上にスチューデリアを衰退させる事になるなんて考えてないいのよ。いいえ、今が良ければ後はどうなっても構わないとすら思っているに違いないわ」


 天魔宗が一枚岩ではないと察してはいたが、想像以上に深刻であるようだ。

 そこでゲルダはピンときた。


「貴様、ワシを巻き込むつもりでカンツを襲ったか。貴様は謂わば農民を人質に取られているようなものだがワシは表だって半グレ共と敵対しても不審に思われぬであろうからな」


 ゲルダが瓶底眼鏡を外すと瞳は蒼銀に光っており、険悪の表情を浮かべていた。

 洞窟内の温度は一気に下がり、岩壁は霜どころか氷で白くなっている。

 相性としては“水”を吸収する“土”が有利とされているが二人の地力が違いすぎてそのようなアドバンテージは無きに等しく、あと一押し力を顕わにしただけで洞窟全体が氷で埋められてしまうだろうことは察せられた。


「ま、待って! それは誤解よ。確かに尾張柳生がカンツラー君を襲うのを止められなかった罪はあるけど、アタシは決して貴方を巻き込むつもりは無かったわ」


 しかしゲルダが聖都スチューデリアに乗り込んできたと報告を受けた時は天の助けと思ってしまったのは本音であると正直に告白した。

 ここで下手に誤魔化そうものなら一瞬にして全滅させられると分かった上である。


「それでどうする? 地狐を取り戻し、カンツがこの国を出ている以上、スチューデリアがどうなろうとワシの知った事ではないと心得て言葉を紡げ」


「こんな事を頼めた義理では無いのは分かっている。けど承知の上でお願いしたいの! ローデリヒだけは助けて! 家族を奪われ、自由を奪われたアタシにとって漸く出来た生き甲斐なの! あの子の成長を見守る事だけがアタシの支え! その為ならアタシの財産は全て差し出すし、命を望むのなら今すぐ差し出しても良い! だからお願い! ローデリヒだけは! アタシの息子・・の命だけは助けて!!」


 ゲルダは凍りつく地面に額を擦り付けるイルゼを暫く睥睨していたが、氷によって膝や手、額までもが血を流すに至って目を閉じた。


「相分かった」


「ゲルダ?」


おもてを上げい」


 云われて血塗れの顔を上げる。

 ゲルダは笑っていた。


「初めからそう申せ。まあ、中々本音を云わなかったのは天魔宗であった負い目と解釈して許してやろう」


「ゲルダ…」


「ワシも人の親じゃ。お主のを想う気持ちは善く解るでな」


「じゃあ?」


 ゲルダはイルゼに右手を差し出す。


「お主の御陰で斃すべき敵が『神を見限った者達』とフェーとやらであると定める事が出来た。その一点においてお主に力を添えてやろう」


「ゲルダ…ありがとう」


 イルゼは差し出された手を取って立ち上がる。


「ところで敵はお主と青葉が同一人物であると知っておるのか?」


 いきなりの問いに戸惑いながら、否、と答える。


「この事を知っているのは大僧正様とイシル姉様、亡き延光和尚だけよ。厳重に秘しているから察しているものいないと思う。今回の作戦を思いついた竹槍仙十は察している可能性はあるけど…」


「新しい名が出てきたな。そやつも十大弟子か?」


「ええ、寺院の裏の顔が天魔宗ならその影である存在よ。正体は私にも分からないけど大僧正様も軍師として頼りにされているみたい」


「軍師・竹槍仙十な。覚えておこうよ」


 ゲルダの体が光り、前世の仕明しあけ吾郎次郎ごろうじろうへと変わる。


「ゲルダ?」


「色々聞きたい事はあるが、まずは固めの杯・・・・といこう」


「固めの杯?」


「こういうのは男同士の方が話が早い。お主も前世は薩摩隼人さつまはやとであったなら酒に強かろう。付き合え」


「いや、お酒に強かったのは前世であって…」


「ワシの酒が呑めんと申すか?」


「……分かったわよ」


 忘れていた。ゲルダは既に出来上がっていた・・・・・・・・のである。

 酔っ払いに逆らうと面倒であると承知していたのでイルゼも観念した。

 彼女もまた青葉武左衛門の姿となる。


「よぅし、フェーにはな。新しい呑み友達と紹介せぇ」


 戦略家の顔で吾郎次郎が云った。

 つまりスチューデリアにおける本拠地へ連れて行けと行っているのだ。

 本当に酔っているのか、冷徹な戦術家であるのか、判断がつかない。

 だが流石はゲルダであるとその胆力を称えたものだ。


「それと命だけは助けてやれるが、慈母豊穣会の信徒と理解しての寵愛だ。廃嫡だけは覚悟しておく事だ」


「高望みはしないでごわす」


 青葉武左衛門は覚悟を決めて答えた。

 生きようと思えばどこでも生きられる。

 かつて前世では明治政府に対して不満を募らせ西南戦争を起こしてしまったが、結果として自らが慕う西郷隆盛をも死なせてしまった。

 そんな思いはもう沢山だ。命さえあればそれで良い。

 前世とはいっても完全に覚えている訳でもないし人格も蘇ってはいない。

 イルゼとしても特に思い入れは無かったが桐野利秋の生き様は色々な教訓を与えてくれたのだ。

 青葉という名も未来を見据えて付けたものであった。


「さあ、呑むぞ。スチューデリアは不案内だ。善い店を紹介せい」


「分かり申した。美味い酒に合う絶品の干物を出す店に案内するでごわす」


「それは楽しみな事よ」


 いきなりの極寒地獄に見舞われた農民達は呆然としながら古くからの付き合いであるが如く肩を組んで道場から出て行く侍二人を見送るのであった。

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