第拾㯃章 帝国宰相の憂鬱な一日

「聖女ゲルダと接触したそうだな」


 ゲルダとの邂逅から数日後、ナルの身はガイラント帝国にあった。

 宰相から出頭命令が出され、皇帝のおわす居城へと馳せ参じたのである。

 彼女と接触した経緯をガイラント帝国宰相カンツラーに報告を命じられたのだ。

 五十絡みの神経質そうな男で、癖であるのか、頻りに眼鏡の位置を直している。


「はっ、流石は音に聞こえた『斬鉄』のゲルダ様、私が既に成人している事はすぐに見抜かれてしまいました。その上で私の体内に蓄積されていた成長阻害の魔法薬を完全に無毒化され、“今後はカイムと共に歳を取ってやれ”とのお言葉を賜りまして御座います」


「何と帝国が誇る治療術師と薬師が総掛りで解毒作業を行ったとしても数ヶ月は時を要し、それでも尚完全な排毒は不可能とされている強力な魔法薬を僅か一日でか」


「いえ、解毒は一瞬で終了しました。しかも私の他、部下全員もです」


 カンツラーは顎を擦りながらナルを観察する。

 その実験動物を見るかのような目にナルは妙な居心地の悪さを覚えたものだ。

 これで僅かでも好色の気配があれば反発心と相俟って真正面から視線を受け止めてやるところであるが、彼の目には性欲が全く見られなかった。

 聞くところによると妻はおらず、広大な屋敷に一人で暮らしているという。

 屋敷が国立大学のそばにあるからか、空いている部屋を学生に格安で間貸ししているそうである。しかも家賃を安くしてやる代わりに…という事も無いそうで、学生達、特に家が貧しい者や地方出身者には感謝されているという。

 酷薄そうな見た目に反して未来に向けて邁進している若者に援助を惜しまず、それでいて見返りを求めない事から性欲が無い、或いは戦場で負傷した際に不能者となったのではあるまいか、などの噂が立った事があるそうな。

 だからこそナルは宰相の空洞を思わせる黒い瞳が苦手なのである。


「うむ、骨格、筋肉、内臓、諸々後遺症が残っている気配は確かに無いな。しかも一瞬であるか。それ程の回復役ヒーラーを追放したというのだから、やはり救いようが無いな、あの皇后あほは……」


「さ、宰相様? 今、誰の事を阿呆と…」


 言葉の衝撃にカンツラーもまた一瞬にしてナルの状態を看破するという凄技を見せていた事に気付くことが出来ず、ナルは頬を引き攣らせていた。


「それで聖女は取り込めそうかね?」


「いえ、その、あまりに衝撃的な言葉を聞かされて頭ぐあっ?!」


 ナルの首筋に冷たいものが走り、見れば巨大な鎌が首を捉えていた。

 さながら死神を想起させる大鎌を右手一本で支えながら左手で眼鏡の位置を直すカンツラーの膂力は如何程のものであろうか。


「これで少しは頭が冷えたであろう。貴様は何も聞いていなかった。そうだな?」


「そ、その通りであります、サー!」


 ナルが背筋を伸ばして敬礼をすると黒い柄の大鎌は霞の如く消え去る。

 この御方は治の人ではなかったのか。ナルの冷や汗は何時までも止まらなかった。


「私は見ての通り、如何にも悪徳政治家で御座いと云わんばかりの見た目をしているから善く間違われるのだが……誤解されても不愉快なので教えてやる」


 カンツラーは銀縁眼鏡を正しながらナルを見据える。


「私は武人上がりだ。こう見えて強いのだよ。ただ政治も出来るからと官僚の真似事をさせられているうちに気が付けば宰相カンツラーが出来上がっていた訳だ」


 そう云えば聞いた事があるとナルはカンツラーの経歴を思い出す。

 確か平民の出でありながら皇帝陛下の覚えがめでたく順当に出世していったとか。

 爵位を持たず、後ろ盾も無いにも拘わらず、彼の発言は必ず陛下のお耳に届き、採用されていったそうである。

 会議でも皇帝陛下は貴族や将校らに自由に討論させておいて、粗方意見が出尽くしたところで最後にカンツラーの意見を求め、最終的に彼の案を採用されていたというのだから宰相の知恵が如何に優れているかというものだ。


「平民が陛下の信頼を得るのも考え物であるのだぞ? お陰で周囲、特にお貴族様からのやっかみが非道い。知っているか? 一番厄介な刺客とは借金などで追い詰められた素人だという事を。遺された家族への借金の帳消しを条件に爆弾抱えて突っ込んで来るのだぞ。或いは逆に子供に毒を塗った刃物を持たせて差し向けてくるのだ」


 カンツラーの出世を妬んだ貴族から送られてくる刺客のえげつなさにナルは怒りを通り越して怖気が走ったものだ。


「そ、それで宰相様はその刺客達を如何されたのですか?」


「どうもせんさ。爆弾は導火線を切れば爆発せんし、子供に刺されるような私ではない。後は事情聴取をして、それが敵の罠であるなら家族諸共助けてやるし、借金が自業自得なら牢屋にぶち込むだけだ。家族を人質に取られていたケースでは救出に行ってやったっけなぁ。たーのしーいぞォ? 陛下に御墨付きを戴いてから大手を振って大貴族の屋敷にカチコミにいくのは」


「カチコミて……」


 あれ? 何故だろう? この獰猛な笑顔は見覚えがあるぞ?

 そう云えば、ガイラント帝国にはたった一人の暴漢に襲われて土地屋敷を更地にされた挙げ句に改易させられた貴族が大勢・・いると聞く。

 大抵は臣民を苦しめる悪徳の者であり、貴族、宗教家、無頼の区別無く、おおよその悪党はその財産を悉く奪われ、当人も殺されはしないらしいが、確実に相当な目に遭わされてしまうというのであるから恐ろしい。


「そうそう、大貴族で思い出した。本日、貴様を呼んだのは他でもない。そろそろ本題に入ろうか。大貴族・辺境伯ビオグラフィー家がご令嬢・ヘルディン様?」


「さ、様付けなど畏れ多い…と云いますか、ほ、本題でありますか。それはゲルダ様の事では無いのですか?」


 ナルはニッコリと微笑んだ宰相に気圧される。

 うん、何故か、カンツラー様は大変お怒りになられているわね。

 こめかみにて別個の生物のように脈動する青筋にナルは恐怖した。


「そんなもの、会話の糸口に過ぎん。さっきも云ったが本題は別だ」


 あれ? やっぱり既視感がある? このように笑顔が怖い人とどこかで会った事があるぞ? それもごく最近の事だ。

 兎に角、自分は何か重大な失態をやらかしてしまったのだろう。

 ここは大人しく宰相様が本題を切り出すのを待つべきである。


「まあ、聖女ゲルダを我が帝国に取り込めなんだのは残念であったが、彼女と誼みを通じた事はまず素直に褒めよう。でかしたぞ」


「あ、ありがとうございます」


 まずいな。お褒めの言葉でワンクッションおくのだ。相当なミスに違いない。

 しかしナルには心当たりが無いのである。

 果たして自分は何を仕出かしたのだろうか。


「帝国に相談もせず聖女と主従となった事は、まあ目を瞑ろう。それで成長阻害の魔法薬を解毒して貰い、浮かれてしまうのは無理もないとしようよ」


 おかしいなぁ…物理的に気温が下がるのはどこかで経験した記憶があるぞ?

 寛大なようで物凄く追い詰められている気がするのは気の所為ではないだろう。


「貴様、何の為にバオム王国へ行ってきたのだ?」


「あ……」


 思い出した。

 ゲルダ様との主従の契りを許されて舞い上がっていたけど、そもそもの用事は彼女ではなかったのである。


「そうだよな? 本来の目的はカイム王子・・・・・との見合い・・・・・だったはずだよな?」


「あは…あははははは……」


 人間、心底恐怖すると笑いが出ると云われているけど本当だ。

 ナルは顔を引き攣らせて笑いながら、やはりどこかで感じた恐怖だと思った。


「先方から“これがガイラント帝国の矜持ですかな”とメッセージが届いてなァ? それはそうだよな。見合いの為にスケジュールを調整して歓迎のパーティーまで準備していたのに、肝心の見合い相手がいつまで待っても来ないのでは、嫌味の一つも述べたくなるだろうさ。え? どう思うね?」


 宰相様の瞳は先程まで黒ではなかったか?

 無理矢理作った笑みを湛える瞳は何故か蒼銀へと変わっていた。


「今からバオム王国へ行くぞ。私が直接出向いて詫びを入れると伝えたら、“音に聞こえた宰相カンツラー殿がお出ましになるのであれば”と一応ではあるものの謝罪の言葉を聞く体勢になってくれたのだ」


「こ、これは何とお詫びをしたものか…申し訳ありません」


「詫びはいらん。その代わり、必ずカイム王子と結婚して貰う。何、心配は無用だ。先方は貴様を十歳の子供と信じている。カバーストーリーは無い。今の貴様そのままだ。憧れの聖女様と会って舞い上がってしまった阿呆餓鬼という筋書きでいく。良いな?」


「は、ははぁ……承知しました」


「取り敢えずはである」


「はい?」


 話が纏まりかけたと思いきや、カンツラーから威圧が増して身体が動かなくなってしまう。それはゲルダの比ではなく、金縛りを通り越して麻痺してきたのだ。


「先方に恥を掻かせた罪を少しでもそそがねば示しがつくまい」


 風を切る音を立てて右腕を振り始めたカンツラーにナルは嫌な予感を覚えた。

 否、それ以前に右手の先端が鞭のように速くて見る事が出来ない。


「さあ、尻を出せ。こちらで不埒者の仕置きをしたとなれば心証はかなり違うだろうからな。これぞ『苦肉の計』なり、だ」


「あ、あの…手の先が見えないのですけど、どれ位の威力があるのですか?」


「一度だけ実戦で遣ってみたが、全身甲冑を着た騎士が三発で昏倒していたな」


「あ、あの…お尻の肉が削がれそうなのですが……」


「甲冑もひしゃげていたな。だが安心しろ。人間、そう簡単には壊れん」


「は、はい…お、お手柔らかに……」


 ナルはカンツラーに後ろを見せて前屈みの体勢となった。


「良い心掛けだ。では、いくぞ」


 カンツラーの右手が大きく振り上げられる。


「この……大莫迦者が!!」


「あっひいいいいいいいいいいいいっ?!」


 防音効果があるはずの宰相の執務室からナルの絶叫が城内に響き渡った。









「まったく、あの莫迦娘は……」


 カンツラーは日付が変わる頃に漸く我が家へと帰って来た。

 その後、ナルを伴いバオム城へと趣き、見合い当日の非礼を詫びてきたのだ。

 両国の関係は同盟である。国力の差はあれど、どちらが上という事はない。

 カンツラーは菓子折りを持参し、平身低頭謝罪してきたのである。

 これにはバオム王国・国王ヴルツェルも苦笑し、許しを得る事が出来た。

 カイム王子の母である第一側室レーヴェは何か云いたげではあったが、カンツラーが彼女に会釈をした途端に何故か顔色を青くして押し黙ったそうな。

 彼女にだけ睨みつけ、「あ゛?」と凄んだような気もしないでもなかったが、ヴルツェルは見なかった事にしたようだ。


「身近にこのような人物がいなかったか?」


 国王ヴルツェルは後に家臣にそうお訊ねになったとか、ならなかったとか。

 その後、放心状態となり、何故か尻から煙を出しているヘルディン嬢が引き出され、彼女からの謝罪も受け入れた事で先日の非礼は不問となったのであった。

 カイム王子との婚約も無事に成立し、二人は晴れて婚約者同士となる。

 何故か、カイム王子に額を突き合わせるように近づいて、「分を弁えろよ」と忠告というより凄んで見せたのは気になったが、ヴルツェルとレーヴェは何も見なかった事にした。むしろ見合いを忘れて帰国したヘルディン嬢より大問題であるのだが、あれは下手に関わると碌な事にならないと本能が悟ったのだ。


 カンツラーは屋敷を見上げながら伸びをする。

 ああ、もうすぐだ。愛しい万年床まんねんどこに潜って今日はもう寝てしまおう。

 だが、そんな気分はすぐに吹き飛ばされた。

 カンツラーは屋敷の一室に灯りが灯っているのを見たのである。

 しかも選りに選ってそこはカンツラーの自室であった。

 カンツラーの屋敷に使用人はいない。夜遅く帰っても出迎える者はいないはずだ。

 間貸ししている学生達には格安で部屋を貸す代わりに身の回りの事は自分でするように云ってある。また逆に自分の世話も不要であるとも告げていた。

 自分の世話は自分で見られるし、何よりそんな暇があるならば学業に専念しろとどやしつけてさえいたのだ。


「さて、一体誰だ? 私の部屋は魔法で鍵を掛けてあるから泥棒など入れぬはずだ」


 考えていても埒が明かないのでカンツラーは自室へ突入する事にした。

 私は疲れているし眠たいのだ。賊だろうと刺客だろうと構わん。

 カンツラーの辞書に慎重という文字はない。敵なら捕らえれば良かろうなのだ。

 ガイラント帝国宰相カンツラーは仕事の外となれば案外脳筋である。

 カンツラーは屋敷に入ると音も立てずに自室へと向かう。

 こうして気配を消しての隠密行動も母に仕込ま・・・・・れている・・・・のだ。


「ちっ、まだいるな。誰だか知らんが泥棒稼業が割りに合わぬ事を教育してやろう」


 扉の前で中の気配を窺うと人の気配が感じられた。

 カンツラーは舌打ちをするとドアノブに手を掛ける。


「手を上げなくて宜しい! 今は機嫌が悪いのだ。犬にでも噛まれたと思って殴られてくれたまえ!!」


 そして中にいるであろう賊の不意を突く為に一気に扉を開け放つのだった。

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