理想の椅子
青水
理想の椅子
いい小説を書くためにはいい椅子が必要である、と私は常々思っている。
小説を執筆するとき、大抵の人は椅子に座って机に向き合う、というスタイルをとっているだろう。机の上にはパソコンを置くか、原稿用紙とペンを置くか。近年ではパソコンを使って小説を執筆する人が大多数だろう。私もそうだ。
昔、大正や昭和を生きた文豪を見習って――あるいは、気取って――原稿用紙に万年筆でかりかりと小説を書いてみたのだが、まったくもって駄目だった。何が駄目かというと、まず書き間違いが多々起こる。次に手直しがしづらい。そして、文字を書くのに時間がかかる。五時間ほど書いたのち、私は原稿用紙を丸めてごみ箱に叩き込み、万年筆を窓から放り投げた。
私は1Kのアパートで一人暮らしをしている。六畳程度の部屋の隅には、執筆するためだけに購入した椅子と机が置かれている。両方とも、ネット通販で購入した物だ。つまり、実際に椅子の座り心地を確かめたわけではないし、机も椅子と相性が合うのかわからない状態である。これはギャンブルに等しい。値段は一万円にも満たないので、外れだとしてもさほど惜しくはない。
結果は、外れだった。
椅子と机――両者の高さと大きさのバランスがあっていない。机自体はそれほど悪くない。オーソドックスな、どこにでもあるような机だ。悪いのは椅子だ。
その椅子は、男としては比較的小柄な私には大きすぎた。座り心地も悪い。背もたれは硬く、私の背中にフィットしない。座面は逆に柔らかく、私が座ると大きく沈む。座って一〇分ほどで尻や腰が痛くなってくる。苦痛で仕方がない。
私はその椅子を処分して、新たな椅子を購入することにした。いい椅子が手に入れば、自動的にいい小説が仕上がるはずだ。
私は懲りずに通販でよさげな椅子を探した。前に購入した椅子は、メッシュ生地の五千円ほどの椅子だった。今度はもう少し値段の高い椅子を購入しよう。具体的には一万円強の椅子だ。さすがに五万、十万するような椅子は気軽には買えない。
まず、椅子の種類だ。世の中には様々な種類の椅子が存在している。どういった椅子が自分に合うのか。
ネットの海をさまよっていると、ゲーミングチェアなるものを発見した。これはeスポーツの選手がよく使っている椅子だ。ゲーミングチェアという名前だが、その椅子はゲームをしない人も使っている。サイズはかなり大きい。色は様々だが、赤と黒あるいは青と黒の二色デザインの物が多い。見た目は近未来的で、格好良さを感じさせる。
私は自分の家にゲーミングチェアを設置するところを想像してみた。私の狭い家に置くには、いささか大きいような気がする。だがしかし、そのデザインや、座り心地がよさそうだ、といった曖昧な理由から、私はゲーミングチェアを購入することに決めた。
私が購入したゲーミングチェアは二万円以下の、比較的安い物だった。一口にゲーミングチェアと言っても、その値段には大きな幅がある。安い物だと一万円強、高い物だと一〇万円を超えてくる。私には、一〇万円のゲーミングチェアを購入する勇気はなかった。
数日して、ゲーミングチェアが届いた。私は早速それを組み立てた。三〇分ほどでゲーミングチェアが完成した。私が購入したのは、黒と青の二色デザインだ。
わかっていたことだが、かなり大きい。威圧感がある。私の部屋に置いてある調度品各種とは、デザインの系統がまったく違っている。正直言うと、ゲーミングチェアの存在は浮いていた。場違いだ。
しかし、大事なのは部屋にフィットするか否かではない。私にフィットするか否かなのだ。
私はゲーミングチェアを机の前に置いて、高尚な絵画を眺めるかのように、そのセットをじっと観察した。
机の高さとゲーミングチェアの高さが合っていない。ゲーミングチェアは前に購入したメッシュ生地の椅子よりも、さらに座面が高い。
嫌な予感がした。
私は首を大きく振って、その予感をかき消そうとした。しかし、できなかった。だから、上塗りすることにした。両者の高さが合わなければ、背の高い机を新たに購入すればいいじゃないか、と。
私はある種の覚悟を持って、ゲーミングチェアに座った。
座ってすぐに感じた。座面の奥行きがありすぎる。そして、高さもまるであっていない。下のほうにあるレバーを押してみるが、椅子はこれ以上低くはならない。
嗚呼、なんということだろう。
これもまた理想の椅子とは程遠い。それどころか、及第点にも満たない。
どうやらこのゲーミングチェアは海外で作られたものらしい。だからかはわからないが、日本人――その中でも比較的小柄な私には、いささか大きすぎる。大柄な西洋人のサイズに合わせて作られたものなのかもしれない。
座面も妙に柔らかく、前に購入したメッシュ生地の椅子と同様に、座ってすぐに尻と腰が痛くなった。
私はそのゲーミングチェアを処分した。
前に購入したメッシュ生地の椅子を処分したときもそうだったのだが、業者を呼んで引き取ってもらうと金がかかる。大した金額ではないのだが、余計に金がかかることに腹が立つ。私にあわない椅子のために、金がどんどん減っていく。狂っている。
私は反省した。実物を見て、座り心地を確かめてから購入すべきだったのだ。
私は理想の椅子を求め、家具屋へと出かけた。
家具屋には多くの椅子が展示されていた。それらの椅子を一つ一つ座ってみて、座り心地を確かめる。しかし、一分二分座ったところで、それが私にとっての理想の椅子か否かはわからない。最低でも三〇分、できることなら一時間くらいは座りたい。しかし、展示されている椅子に三〇分も座り続けるのは、よろしくない。私は人目を気にする人間なのだ。
ずらりと並んだ椅子の数々。値段や形状はそれぞれ大きく異なっている。
高級な椅子が絶対的に素晴らしいとは思わないが、安価な椅子よりはアベレージが高いのは間違いない。ここは思い切って高級な椅子を買うべきだろうか?
数時間の吟味の末、私は一〇万円を超える椅子を購入した。決して金持ちではない、むしろ貧乏な私にとって、それは大きな買い物だった。将来に対する投資だと考えることにした。
数日後、購入した椅子が家に届いた。
私はうきうきと気分を高揚させつつ、椅子の梱包を開けた。椅子を組み立てて、机の前に置いた。値段の割にはシンプルで地味な椅子だ。
悪くない。
私は椅子に座った。そして、そのまま一時間ほど読書をした。
背中が、腰が、尻が痛い。家具屋で一〇分ほど座ったときには、かなり座り心地がいいと思ったのだが、自宅で座ってみると、まったく異なる感想を抱く。
なぜだろう?
さすがに一〇万円の椅子を処分するのは、躊躇われた。なので、インテリアのようにその椅子を置いておくことにした。その後、その椅子に私が座ることは二度となかった。
私は喫茶店に出かけることにした。喫茶店の落ち着いた雰囲気や、コーヒーの混ざった独特の匂いなどが好きなのだ。
喫茶店の椅子に座る。なぜか体のどこも痛まない。疲れにくい。どうしてだろう? 特別優れた椅子というわけではないのに。
もしかしたら、自宅という環境が悪いのかもしれない。どんなに優れた椅子でも、自宅ではその輝きが失われてしまうのかもしれない。
実際のところはわからない。椅子が悪いのか、自宅が悪いのか、はたまた私が悪いのか。何もかもがわからなくなってしまった。
私は仕事を辞め、世界中を旅することにした。
世界をまわることで、価値観や死生観や椅子観が変わるかもしれない。あるいは、理想の椅子に巡り合うことができるかもしれない。
できることなら、この旅で理想の椅子を見つけたいものだ。そして、その理想の椅子に座って、素晴らしい小説を執筆したいものだ。
そう思った。
理想の椅子 青水 @Aomizu
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