空の話


 「当たり前だけど、空ってさぁ…大きいよね。晴れの日には青くて、白い雲なんかも浮かんでいたりしてね。曇りの日には一面灰色で、時には雨なんか降ったりもするし、夜になると暗くなる。

でも逆に空から僕たちを見たら、ちっぽけで何の変化にも気付かないかも知れないね。」


 僕はね、物心ついた時にはもう、父親から虐待を受けていたんだ。今も消えない傷跡があったりもする。

 兄が一人いたんだけど、そっちは愛情たっぷりにかわいがられていたな。

 母親は、多分父親が怖かったんだろうね、僕への虐待を見ていても何もしてくれなかった。

 僕の育った家は貧しくてね、ぼろぼろの長屋で、間取りは、玄関を入ると手前に3畳と奥に6畳の2部屋、玄関横に小さな簡易キッチンがあって、もちろん風呂なん付いてていない。奥の6畳間までが一応室内で、その奥に一応屋根は付いているが、隣との仕切りだけある屋外になっていた、そこにはトイレとその横に2畳ほどの土間があった。

 そんな家で、僕が居ても許される場所はその土間だけ。夏は暑くて、冬は寒くてしょうがなかったな。

 食事も、みんなの残り物を、母が持って来て、それを一人土間で食べていたんだ。食事が無い時もしょっちゅうで、お腹がいつも空いていたなぁ。

 でもね、不思議なもので、そんな環境の中でも、「生まれて来た僕が悪いんだ。」ってずっと思っていた。

 逃げようとか、誰かに助けを求めようなんて、頭の片隅にもなかったな。


 あの時までは…


 それは、僕が小学4年生のある日、父親がタンスの中で大きなビンに貯めていたお金(硬貨)が減っていると、急に怒り出したんだ。もちろん僕は盗ってはいないけど、僕を殴り、蹴り、たばこの火を手の甲に押し付けて来た。

 乱暴には慣れていたけど、この時の母親や兄の「ついに人様の物に手を付けるようになったのか。」と言う言葉と目だけは、一生忘れないと思う。


 …いつかこんな家、出て行ってやる。

 生まれて初めて怒りと言う感情を知った瞬間だったな。

 でも、それ以降は、怒りや、腹が立つといった事があまりない。

 言わば、人生でただ一度の大きな怒りの感情だったのかな。

 それからの僕は、取ってもいないのに、自分のせいにされるのなら、本当に盗ってやると、度々万引きに走って行ったんだ。


 僕が小学5年生の10月、父親が死んだ。


 お酒の飲み過ぎで、脳の血管が破れたらしい。

 父親は外づらのいい人で、葬儀には多くの参列者が来ていたよ。

 母親や兄、親族や親しい人たちは、涙を流していたけど、僕は一滴の涙も出なかった。

 それどころか多分、周りからは、へらへらして見えていたと思う。

 そんな僕を見て「なんて奴だ。」と言うような声が聞こえたのは、よく覚えているよ。

 父親が死んで間もなく、借金取りが毎日のように家に来るようになった。子供だったから、よくは分からなかったけど、父親が結構な額の借金を作っていたようだ。

 母親は、パートを増やした。

 僕は、朝夕の新聞配達と、家の近くの小さな遅くまでやっている鉄工所で簡単な手伝い程度のアルバイトを始めた。

 鉄工所の社長は、僕が小学生だけど顔見知りだし、事情も分かってくれて、雇ってくれたんだ。

 鉄工所の仕事の無い土日には、社長の口利きで近くの食堂でも働かせてもらった。

 バイト代は、全部家に持って行かれたけど、鉄工所も、食堂も、食事を出してくれたので、そこまで辛いとは思わなかった。

 兄は、中学生で、野球部に夢中になり、当然バイトなど眼中になかったようだ。

 僕も中学に上がった。最初はやるつもりは無かったのだけれども、クラブに入った。

 というのも、バイト先の鉄工所にバスケットボールでインターハイまで行った人がいて、休憩時間にずっと教えてもらっていたんだけど、「せっかく教えたのにもったいないから、クラブに入れ。新聞配達は朝だけにして、工場は遅くまでやってるんだから、バイトはクラブが終わってから来たらいい。」と言われ、バスケ部に入部したんだ。

 でもね、まだその頃も万引きを続けていて、暫く経った頃に補導されてしまった。

 そんなことがあると、あまりよくない連中が寄って来て、つるむようになってね。今までのバイトも止めて夜のレストランの厨房で働くようになったんだ。

 でも部活だけは止めなかった。思えばその頃は、バスケだけが、生きている証と思っていたのかもしれないね。


 僕は、中2のある日、家を出た。当時つるんでいた内の一人の父親が住む所を用意してくれたんだ。

 母親と兄には黙って家を出たんだけど、学校からは何も言われなかったので、おそらく母親は捜索願いすら出さなかったのだろうね。


 一人になれた僕は、空を見上げた。どこまでも青い空だった。生まれて初めて空を見た気がした。

 

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