第3章 - 4 本間千尋と(4)

 4 本間千尋と(4)




〝藤木達哉 様〟


〝最後の最後で、最高の時間をプレゼントされた気分です〟

〝あなたが戻って来るのかは分かりませんが、とにかく、心から感謝いたします〟

〝ご両親を、大切にしてくださいね〟

〝本当に、ありがとうございました〟        〝天野翔太〟




「これって、本当のこと、なの?」

 千尋がそう呟いたのは、きっと一、二分は過ぎ去った後だ。

 たった数行の文字を読み、それから必死に考えたのだろう。

 この数行が意味するすべてを考えて、真実をしっかり理解したということか?

 もしかしたらだが、達哉の読んでいない方にも、何か重要な事実が書かれていたのかもしれない。

 ただとにかく、達哉の答えるべき言葉はたった一つだ。

「はい、本当のこと、なんです……」

「あのさ……ってことはさ、あなたが、天野さんだったってことなの?」

「え? どうして?」

「だって、天野さんがあなただったんでしょ? なら、その間はあなたが天野さんだったって、考えるしかないじゃない?」

 本間千尋はそう言って、穴の開くほど達哉の顔を見つめ続けた。


 〝気付けば道路に寝転んでいて、そこはすでに朝だった。そしてその瞬間から、わたしは藤木達哉という人物に……〟

 そんな文章で始まっていて、心の混乱などは一切表現されていなかった。

 それからなんとか帰宅して、達哉の部屋を調べて彼の置かれた状況を把握する。

 両親とはいかように接して、その結果、どのような関係を築けたか……。そんなことが淡々と書き込まれ、まるで議事録か何かのような文章なのだ。

 さらにしばらくすると、彼は勉強漬けの毎日を過ごし、成績を上げ、上慶大学を選んで進学を決める。

 ここで唯一、もしも、他の進路を考えていたなら申し訳ない――と、達哉に向けてのものらしい言葉が残されていた。

 それ以外にも、小遣いでどんなレコードを買い、部屋の模様替えをした理由――元々達哉がいた頃から、アイドルの水着やプレイボーイの金髪ヌードポスターなどを、まさみがとにかく嫌がっていた――などが、これでもかってくらい事細かに書き込まれていた。

 そして大学入学が決まったとあって、それ以降はほとんど何も書かれていない、

 ただ最後のページに、

 ――あとはよろしく。

 とだけ書かれてあった。

 すべてはきっと、達哉本人が戻った時に、困らないようにという配慮からだ。

 母、まさみの目のことも書かれてあった。

 彼女の右目は、この先一生治ることはない。しかし幸い、眼球の摘出だけは免れて、そこに至るまでの父、浩一の奮闘ぶりまでがしっかり表現されている。

 これを読んで、まだ両親と敵対するのか? 

 そんなことを言われているようで、なんとも心が震えてしまった。

 達哉は心の動揺を悟られまいと、どんどん顔をノートに近付けていく。そしてその間、千尋はただただ黙って待っていてくれた。

 しかし達哉は読み終わっても、最後のページをずっと見つめたままだった。

 だから千尋は穏やかに、それでもほんの少しだけ愉快そうな声で言ったのだ。

「へ〜、そんなにジーンと来ちゃってるんだ……本当に、そこんところは読んでなかったんだね。うん、まあ妙に中途半端っちゃあ、中途半端なところに書いてあるから、そういうことも、あるのかもね……」

 そうしてその夜、達哉の必死の説明で、千尋もそこそこ信じてくれたようだった。

「でもさ、上慶大学に合格したのって、実際は天野さんの方なんでしょ? それって、大丈夫なの? 例えばさ、授業とか」

「大丈夫じゃないよ。すっげえ〜大変。今日だってさ、遅れたのって、それだもん」

 前回の授業で提出したレポートが、あまりに的外れだと突っ返されて、

「書き直して持ってこいって、それもさ、今日中だって言われちゃって……」

 だから教室に居残って、友人に教えられながら必死になってレポートを仕上げた。

「でもさ、よかったじゃない? 戻ってきたら、受験すっ飛ばして大学生だなんて……ある意味、最高じゃない?」

「うん、まあ、それもそうだけど、それ以外にもさ、彼にはいろいろとしてもらって、だから本当に、心から感謝してる……」

「ふ〜ん、だから、救いたいって、なるわけね」

「あ、そうそう、そうなんだ……」

「でさ、次の話って何? 彼に襲いかかる災難って、それっていったいなんなのよ?」

 そこからは、達哉の記憶している人生を、大まかザックリ話して聞かせた。

 近いうちに起きる筈の交通事故や、それを機にバーのマスターが失踪し、彼は大借金を背負うことになるんだと……。

 さらに最悪なのは、還暦ちょっとで癌に冒され、天に召されてしまうってことだ。

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