第3章 - 4 本間千尋と(5)

 4 本間千尋と(5)

 



 達哉は千尋の反応を窺いながら、懸命に言葉を選んで話していった。

「で、目が覚めたらさ、俺、自分の部屋に帰ってたんだ……」

 そう告げてから、やはり千尋の顔をジッと見た。

 彼女は微動だにしないまま、視線をあらぬ方へと向けている。すでにビールジョッキはほぼ空っぽで、それでも彼女はジョッキを握り、微かに残ったビールを口の中へと流し込んだ。

 そうして「フー」と声にして、静かな声を出したのだった。

「結婚は、彼、してないの?」

「うん、していなかった、と思うよ」

 最後の最後でした結婚は、なぜか言葉にしなかった。

「と、思うよって何よ……おかしくない?」

 そこで少しだけ不満そうな顔になり、それでもすぐに真剣な表情になり、

「でもまあ、いいか……とにかく、そりゃあ本当に、災難だね……」

 やっと達哉の顔をしっかり見つめる。

「だからぜひ、協力して欲しいんだ」

「うん、協力はする。でもさ、どうしたらいいの?」

「とにかく、彼をバーのマスターから遠ざけるんだ。彼が交通事故を起こした時に、バーのマスターが彼の部屋に入ったことで、彼の生い立ちに気が付いてしまう。だからまず、そうならないようにすれば、借金地獄ってのは、なくなると思うんだ」

「本当に、あの人、山代さん……お父さんじゃないのね?」

「ないさ、断じてない! だから、なんの問題もないよ」

「あの、ね……昨日さ、わたし彼の部屋に行ったじゃない? それでさ、わたし聞いたのよ、天野さんの、小さい頃のアルバムとかないのって……でさ、小さな紙製のやつ、あるじゃない? 写真屋さんで貰うようなやつよ、あれをさ、二つ出してきて、これで全部だって言っちゃうわけね……」

 多少時代は入り乱れていたが、彼が三歳くらいになった頃から、最後に撮られたのが、母親と一緒に写る中学校の入学式の写真。

「普通ならさあ、生まれたところとか撮ったりするでしょ? いくら貧乏だったからってね、初めて撮りました、はい、三歳でしたって……そんなこと、あるのかな?」

「ああ、それはね、三歳くらいまで、お母さんと離れて暮らしていたからだよ。これってさ、あっちにいる時に、気が付いたらあった記憶からの推測だから、そうはっきりとしたもんじゃないんだけどね……」

 天野翔太は、生まれてすぐに、母方の祖母に預けられていた。

 その後、山代勇が出ていった昭和三十五年、彼が三歳になった頃、大正九年生まれの母親は四十歳になっている。

「つまりさ、もし、新しい旦那が現れたとしても、それから子供を作るのは、きっと難しいだろうしね、或いは、山代の方が彼女の子供を嫌っていたのか? まあ、もっと別の理由があったのかもしれないけど、とにかくその頃さ、いきなり彼を引き取って、一緒に暮らし始めるんだ」

「そうか、血の繋がっていない子供なんかって……いうやつか、ま、そういうことも、あるんでしょうね。でもさ、写真くらいはどう? 生まれたばかりの赤ちゃんだよ? マスターが撮らなくたってさ、そのおばあちゃんとか、ううん、天野さんのお母さんがさ、自分で撮ったっていいはずじゃない?」

 知り合いにカメラを借りるとか、その気になればどうにだってなる筈と、千尋はどうにも納得できないようだった。

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