第1章 - 5 天野翔太(藤木達哉)(5)
5 天野翔太(藤木達哉)(5)
すると彼女は
「あの!」
と、いきなり大声を出し、
「わたしがこうして来ること、天野さん、困ってますか? というか、わたしのこと、本当は嫌いですか? もしそうなら、そうだって、おっしゃってください!」
そう言ってから、扉の隙間を睨み付けるような顔をする。
だから閉じようとしていた扉を再び開き、彼は静かに、それでもしっかりした口調で告げたのだった。
「嫌いだなんて、そんなことはありませんよ……けっして、ないですから……」
するといきなり、
「じゃあ、どうして……?」
とだけ口にして、彼女はすぐに下を向いてしまうのだ。
この瞬間、やっと気持ちが固まった。
「もしかして、これからお仕事ですか?」
そう尋ねると、やはりこれから朝まで夜勤で、明日、明後日は休みなんだと答えが返った。
「じゃあ、明日、またここに寄ってください。この間のお返しに、夕食を作って待ってますから……」
「天野さん、無理してません?」
「無理なんか、全然してませんよ……大丈夫です」
それから世間話を少しだけして、彼女は笑顔になって帰っていった。
どうせこんなことは続かないのだ。
いずれ天野翔太にも飽きてしまうか、どこか気に入らないところが見つかって、彼女の方からさっさと離れていくだろう。
彼女の年齢は知らないが、きっとそんなに違わない。還暦ってことはないとしても、四十代ってことはないと思う。そんな年齢の彼女であれば、これ迄の人生すべてを話し聞かせるだけで引いてしまうだろうし、
――なんなら、病気のことを、打ち明けてしまえば……。
それで、何もかもがなかったことになる筈だ。
人生の終盤に差し掛かって、こんな面倒な男と関わるなんてかわいそうだし、彼女ほどの美人なら、もっといい男がいくらだっているだろう。
そう思っていたのだが、人生ってのは、トコトン思うようにはいかないらしい。
「天野さん! 天野さん! どうしたんですか? 天野さん! 返事をしてください!」
そんな声が聞こえても、どうにも唸ることしかできなかった。
精一杯のカレー料理を作り終え、そろそろかな?……などと思いながら、台所からいろいろ運ぼうとした時だった。
「ガツン!」と、後頭部を叩かれたような痛みが走った。
え? と思った時には目の前が畳で、それで自分が倒れたんだと理解する。
そしてちょうど同じ頃、彼女は天野翔太のアパートに到着し、とにかく何かしら物音を聞いたのだ。それで彼の異常を察知して、いきなり大声を出したのだった。
後から聞いた話では、部屋中にカレーのルーが散乱し、二、三日は香ばしい匂いが取れなかったらしい。
彼女はすぐに扉を開けるのを諦めて、アパートの反対側に回り込んだ。それから鍵のかかっていた窓ガラスを石か何かで叩き割る。
もしも住んでいたアパートが今時のものだったなら、窓は絶対サッシだろうし、小石くらいじゃ叩き割れない。
ところがこのオンボロアパートは、雨戸を開ければいまだに全室、滅多に見られなくなった昔ながらのすりガラスだった。
お陰で女性の力でも簡単に割れて、彼女は倒れ込む翔太を発見できた。
さらに幸いだったのが、〝くも膜下出血〟ではなく、後頭部辺りで起きた〝脳梗塞〟だったということ。手術する必要もなくて、点滴と飲み薬だけで治療できるということだった。
そしてその入院中、綾野という女性は毎日顔を見せにくる。
早番であれば夕刻の頃、遅番であればその出勤前にちょこっと病室に姿を見せた。
休みであれば面会時刻ずっといて、彼は何度か似たような言葉を声にしたのだ。
「せっかくのお休みなんですから、こんなところにいないで、好きなことをなさってください」
「いいんです……ここにいることが、わたしのしたいことですから」
「でも、こんなジイさんと話をしていて、楽しいですか?」
「楽しいですよ。それに、天野さんがオジイさんなら、わたしもおばあさんだしね、ちょうどいいじゃないですか?」
いつもこんな感じを返されて、結局退院までの二週間、彼女は一日も欠かさず現れたのだった。
そして退院の日に、さらに驚くような展開が天野翔太を待ち受けている。
彼女が車で迎えに現れ、連れ行かれた先がアパートじゃなかった。
「え? ここは……」
百坪近くありそうな土地に、そこそこ古いが、かなり立派な家が建っている。見れば表札が「綾野」とあって、となればきっと、忘れ物でも取りに寄ったか?
そう思ったが、事実は推測よりも、ずっとずっと驚きの展開だった。
「本調子が戻るまで、しばらくここに居てください。わたし施設の仕事、昨日で辞めちゃいましたから、これからずっと、チョー暇ですし……」
などとシラッと言って来て、
「明日にでも、必要なものをアパートに取りに行きましょうね」
そう続けたと思ったら、病院からの荷物をさっさと運び始めてしまうのだ。
翔太は慌てて彼女の後ろを付いていき、すぐにやんわりとだが声にする。
「そんな、綾野さん、困りますって、本当に、大丈夫ですから……」
「困らないでください。本当に、こっちこそ、大丈夫ですから……」
翔太の方を向きもせず、そんな返しを平然として、彼女は靴を脱ごうとし始める。そうしてとうとう、彼は言ってしまおうと心に決めた。
「あの、実は、お話ししなければいけないことがあって……実はわたし、今回の入院とは関係なく、ですが……身体の方に、ちょっと問題を抱えていまして……」
その時すでに、彼女は玄関で靴を脱ぎ、長い廊下の上にいた。そして翔太の声で立ち止まり、そのまま振り返ることなく動こうともしない。
彼はそんな彼女の背中に向けて、思ったままを声にした。
「きっとこれから、そう遠くないうちに、深刻な状況になるっていうか、こういうのは、きっとご迷惑をかけることに、なってしまうので……」
だから、アパートに帰ります。
そう続けようとした時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます