第1章  -  5 天野翔太(藤木達哉)

 5 天野翔太(藤木達哉)

  

 

 ――とうとう俺は……死んだのか?

 そうなんだろうと素直に思えるくらいの感覚が、その瞬間の彼には間違いなくあった。

 フワフワ浮かんでいる気持ちの良さで、ずっとこのままでいたいと思ったことを、今でもしっかり覚えているのだ。

 ところがいきなり変わってしまった。

 心地良さなど瞬時に消え去り、感じるすべてが一気に現実感を伴ってくる。

 手足の感覚が舞い戻り、呼吸する自分を突然知った。

 ところがどうにも動かないのだ。小指どころか瞼さえも微動だにせず、まるで泥沼に沈み込んでいるように、何から何まで自由が効かない。

 目覚めようとするのだが、何かが必死に邪魔をする。

 そんな感じがけっこう長く、二、三時間は続いたと思う。

 そうして微かに声が聞こえて、そこで一気に現実の世界に呼び戻された。

「天野さん! 天野さん!」

 そう聞こえる度に、彼は心に何度も思うのだ。

 ――俺は、藤木達哉なんだって!

 気付けば微かに瞼が動き、視界が急に明るくなった。

 そこからは、まさに最悪の目覚めとしか言いようがない。まるで十年ぶりに目覚めたように瞼が重く、目の奥までがキリキリ痛んだ。吐きそうなくらいに眩しくて、なのにいつまで経ってもシャキッとしない。

 それでも医者や看護婦から色々聞かれて、何とかうまい具合には答えられた。

 藤木達哉という名は口走らなかったし、思い付く答えをただただ素直に声にする。

 その度に、そこそこ強い衝撃を受け、声にしながら記憶の意味を必死に追った。

 ――俺はどうして? こんなことを知っている?

 次から次へと思い出すのは、天野翔太としての記憶ばかり……なのだ。

 藤木達哉としての十七年間が霞んでしまい、驚くような記憶がいきなり刻み込まれていた。

 確かあの時、突然、警察官に声を掛けられ、逃げようとして転んでしまった。

 それで顔から突っ込んで、頭を強打……三日間も眠り続けていたらしい。

 警察の方も、特段何をしたってわけじゃないから、身元が判明した時点でさっさと帰っていったということだった。

 翔太がアパートにいないと知って、慌てて吉崎涼が彼のスマホに電話を掛けた。

その時すでに病院にいて、検査に向かうストレッチャーの上。その途中でスマホが鳴り出し、翔太のポケットから看護婦がスマホを取り出した。

 ――数日前に頭を強打し、彼はかなりの記憶を失っている。

 だから何か変なことをしたとしても、そのせいだから許して欲しい……そんなデタラメを大真面目に説明し、もちろん身分についても保証してくれた。

 ところが翔太の方が目覚めない。脳震盪を起こしていたが、脳損傷など、重篤な初見は見られなかった。なのに一向に目覚めずに、病院の個室で三日三晩寝続けてしまう。

 そうして四日目の朝だった。

 たまたま様子を見に来た看護婦の前で、彼は突然目を開ける。看護婦の呼び掛けにもしっかり反応し、十分もした頃には話せるくらいになっていた。

 そしてきっと、病院から連絡が入ったのだろう。

 一時間もしないうちに吉崎涼が現れて、そこには――藤木達哉としては、だが――初めて目にする涼の父親の姿もあった。

 吉崎弥(ワタル)六十七歳。

 翔太より六つ年上で、一代で吉崎工業を作り上げた人物だった。

 さらにこの父親の方も、翔太のことをずいぶん気に入っているらしいのだ。

「入院費のことは心配いらないから、この際、徹底的に検査してもらって、悪いところはとことん治してしまったらいいよ。これからも、まだまだ息子を助けてもらわんといけないからな〜」

 などと言って、吉崎弥は驚くくらいの大笑いを見せた。

 実際、天野翔太が何をどうして……社長の息子の手助けをするのか?

 多少の疑問があるにはあったが、ただ少なくとも、翔太は会社にとって重要であり、社長は会社をそろそろ息子の手に委ねたいと考えている。

「だから、何か困ったことがあれば、何でもこいつに言い付けてくれよ」

 吉崎弥はそう声にして、息子を残してさっさと病室からいなくなった。

 そこから涼からの質問攻めで、どうしてあんなところに行ったのか? 

「車に飛び込もうとしてたって、いったいどういうことなんですか?」

 などと、彼は次から次へと当然の疑問を投げ掛けてくる。

 だからと言って、藤木達哉に戻ろうと思ったなどと言えやしないから、適当な嘘を返しつつ、達哉は必死に話題を変えようとした。

「そう言えば、あれからずいぶんと記憶が戻ってきたんだよ。だからきっと、もう大丈夫だから……」

 何が大丈夫か……なんてのは知らないが、とにかく記憶については嘘ではなかった。

 天野翔太が生きてきた人生を、今は自分のことのように思い出せた。それも驚くような思い出ばかりで、記憶をたどる度に、

 ――こんなことって……あるのかよ?

 まるでドラマか映画のような出来事ばかりで、心が一気に重くなった。

 母親が亡くなって、苦労しながら孤児院で育った。それだけだって達哉にとっては驚きなのに……だ。

 ――殺人犯……だなんて、いったい、どういうことだよ!

 彼は人を殺した罪で、少年刑務所に服役していた。

 ――警察は、ちゃんと調べてくれたのか?

 しかし記憶によれば、それは大きな間違いであり、

 ――それに、山代って……なんちゅうクソ野郎なんだ?

 すべては、父親のせいだった。

 ――こんなの、最悪じゃねえか……。

 母子を捨てたなんてことなら、この世の中掃いて捨てるほどあるだろう。酷い話には違いないが、借金のことだって、特段珍しいとは思わなかった。

 しかしその上、こいつは金に困って息子の家に押し入った。

さらに挙げ句の果てに……息子をよりにもよって殺人犯にしてしまうのだ。

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