三年目の席替え

村の子供

僕たちの関係は脆かった

「席替え、嫌だね」


 僕と溝野は学校からの帰り途中にコンビニで買ったお菓子を手に、公園のベンチに並んで座っていた。お腹が空いたからではなく、帰るのを先延ばしにするために買ったそれをちまちま口にしながら駄弁るのが僕たちの最近の日課だった。


「慣れちゃってるから今更変えなくてもいいのにね」


 溝野は一本つまんだポッキーをゆっくりと食べながら僕の反応を窺った。


「うん。今の席で三年目なのに、なんで今になって変えちゃうんだろうな」


 僕らの高校にはクラス替えがなく、担任は席替えというものにまるで興味がなかった。今になって初めての席替えを行う理由ははっきりとしていた。単に今の席が気に食わないやつらが長きにわたって席替えを訴え続けたことで、ついに担任が折れたというだけの話だ。


「僕は今の席が好きだからやってほしくないや。山口とか伏見と離れちゃうかもしれないし」


「えー。向井は私のことはどうでもいいの?」


「溝野も、まぁ入れてもいいかな」


 僕たちは入学時に連番の出席番号として席を前後に並べていたから話をするようになり、席が近くであり続けたからいつも話をする仲になった。いつの間にか溝野に惹かれている自分にやっと気が付いたのは、二年生の春。だが、自信のない臆病な僕にはすでに固まっていた友達としての関係を危うくしてまで彼女へ告白ができなかった。


 溝野への気持ちを口にして、それを拒まれるのは耐えられない。しかし、溝野とはもっと親密になりたい。そんな僕は溝野への気持ちを決して口にしないまま、徐々に距離を縮めるというズルい手段を取った。すでに男女の友達としては仲はかなり良かったから、難しいことではなかった。


 部活を引退した今ではこうして言い訳がましく公園でお菓子を食べてまで帰るのを先延ばしにするようになっている。


 それでも、なにか一手足りないような。そんな気がして溝野への気持ちは口にできていない。あるいは臆病な自分にそう言い訳しているだけかもしれない。


 とにかく、僕は溝野のことを特別好いているわけではないという振る舞いを言葉の上で続けている。本当は席替えによって一番離れたくない溝野の名前をあえて出さないのも「好きというわけではないですよ」という建前だ。


「私もみんなと離れたくないよ。向井もみんなの中に入ってるからね。そうだ、今のうちにくっついておこうよ」


 溝野はクスクス笑いながらわざとらしく体を寄せて手を重ねてきた。


 僕も「暑いんだからやめろよ」と返しつつも距離を離すことはなかった。むしろ重心をすこし彼女の方へ傾け、自分の手に重なる溝野の手と指を軽く絡め、緩い恋人繋ぎで手を繋いだ。


「ちょっと! どさくさに紛れて、やめてよ」


 溝野の方だって言葉の上では拒否する一方で手を解こうとはしない。嫌がっていないのは口調の軽さではっきりと分かった。


「暑さを分からせようと思ってね」


「そんなに手を繋ぎたいの? 私のことめっちゃ好きじゃん」


 最近になってこういった形でたまに溝野から「好きじゃん」と言われることが増えていた。彼女の言葉に乗ってすら好きだと伝えられない臆病な僕の卑怯な答えはいつも決まっている。


「嫌いじゃないよ」


 それを聞く溝野は満足そうな顔をしていた。


 片手だけでお菓子を食べるのは結構難しかった。溝野は利き手が塞がっていたからもっと難しそうにしている。それでも手を解くことはなかったし、それをいいことに僕たちはお菓子を食べるのにさらにゆっくりと時間をかけた。


 そして、ついにお菓子の最後のひとかけらを食べてしまう。公園に居続ける口実は無くなった。


「そろそろ帰るか」


「うん」


 ゆっくりと手を解いた。互いのその動作の緩慢さに名残惜しさを感じられたのが嬉しかった。互いの汗でしっとりとした手が風に吹かれて、溝野の体温が徐々に失われていくのがとても寂しく感じた。


 すぐ近くの駅までゆっくりと歩いた。僕らが乗る電車は方向が違っていたので先に電車に乗った溝野に向かって控えめに手を振り見送って、そこで彼女と別れた。


 僕自身が家に着いたらすぐに溝野に「帰宅!」とLINEを送り、そこから寝るまで何往復もメッセージを交わす。


 僕の生活はほとんど溝野を中心に回っていた。




 翌日の席替えは放課後にくじ引きで行われ、溝野とは席が離れてしまった。大概のクラスメイト達が新鮮さに湧く中で、僕は溝野と離れたことで覚悟していた以上に気持ちが沈んでいた。傍から見てもすぐに分かる程度だったようで、新たに隣になった女子である梶原から「元気ないね。ごめんね! 溝野さんじゃなくって!」と耳打ちで揶揄われすらした。


「別に。そんなんじゃないよ」


 新たに席を近くにしたクラスメイト達との交流をそこそこに切り上げて、普段の通りにやや前方へ席を離した溝野に「帰ろう」と声をかけようとして改めて気が付いた。


 僕たちの関係は友達で、席が近いから成立できていることに。


 今まではただ、すぐそばにいる彼女に軽く声をかけるだけで良かった。今、席替えで開いた数メートルの距離を詰めるだけの権利が無いように思えて溝野に声をかけることができない。自分の席で立ちすくんだまま、しばらく迷ってから同じ部活だった伏見に「たまには一緒に帰ろう」と声をかけて逃げるように教室を出た。


 その晩も普段のように「帰宅!」と送ったところ、「なんで今日先に行っちゃったの」と返ってきて誤魔化すのに難儀するはめになった。



「昨日はごめん。伏見と帰りたくなってさ」


 休み時間に溝野の元へ行く口実に、昨日の出来事を使った。


「もう。言ってくれればよかったじゃん。教室で一人で待ってたんだからね」


「ほんとに悪かったよ」とやりとりしているところに、溝野の前の席になった男子、石井が体を捻って会話に割って入ってきた。


「え、なに? お前ら一緒に帰る仲なの?」


 石井とは関係が薄めの友達だった。単なるクラスメイト程度の関係の梶原ですら僕と溝野の関係を見抜いていたくらいだから、石井が知らないわけがないんじゃないかと思いつつも「まぁね」と返事をした。溝野も「いつの間にかそうなってた」と続く。


「付き合ってんの?」


 目の端で溝野の目がこちらに向いたのを感じ、視線を返した。一拍置いて「付き合ってはないよ」と返事をした。


「ふーん」まるで興味がないですよと言っているような調子で放たれた言葉と違って、彼はずいぶん嬉しそうだった。


 その時から僕と溝野の関係は変質した。


 僕自身は伏見と帰った件で溝野に怒られたことを反省し、努めて今まで通りに振る舞おうとした。だけど溝野との間に石井が入ってくるようになった。


 僕と溝野は友達のままだ。邪険に扱うだけの正当な理由がない以上、石井の存在は許すしかなかった。本格的に溝野に告白しなかったことを後悔したのはこれが初めてかもしれない。そう感じてはいても「何か一手足りない」感覚は無くならなくて未だに告白ができなかった。石井の存在のせいでそういう雰囲気にならなかったというのも、ある。


 石井は意図して空気を読まないやつだった。少なくとも僕はそう感じた。それでいて、僕たちの日課である公園にまで「俺も行くわ」の一言で付いてくるのだから始末に負えない。僕が好きだった甘い砂糖菓子のような雰囲気やお約束のやりとりは完全に死滅していた。


 石井は強かなやつだった。「俺、他に友達いないからさ」の一言で溝野と昼を摂るようになった。これは僕もあまりやれなかったことだった。山口や伏見と弁当を食べている間、視界に入る二人の姿が胸をかきむしった。


 そのうち、休み時間に溝野の席へ行くとたまに石井から「溝野さんと良い感じの話しようとしてたんだから来んなよ」だとか「向井わざわざこっち来ないでお前の席で仲良くしろって」と冗談の体裁で言われるようになった。「そんなこというなよ!」とツッコんでみるも、勢いは向こうにあった。


 席が近いからできていた僕の行動は、今や席が近い石井がやっていた。


 徐々に僕の居た場所が浸食されていくようだった。


 もう、どうしようもなかった。


 ある日、彼らの席へ行ったときに石井からこっち来るなよと言われたのに加えて、溝野からも「いつもこっち来るとか、私のことめっちゃ好きじゃん」と言われた。今まで言われたのと同じ言葉でも僕に与えた刺激はまったくの逆方向だった。


「悪い。邪魔したわ」


 僕は初めて自分の席へと逃げ帰った。


 浸食された居場所の片隅、最後の僕の陣地。


 そこから見る彼らの世界は、まるで白黒のようだった。

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