黒いカステラ(裏アトリエセレクション)

崇期

🦢

一羽(卵糖パンを手で潰したあなたはきっと後悔する)

 煮菜子になこは焼き立ての卵糖らんとうパンをトレイに載せると、とうもとへと急いだ。


(かすていらが卵でできていることも知らなかったほど無知蒙昧な小娘だった私が、ここまでの物を作りあげることができた。これはチャンスよ……たったひと焼きの菓子が私の未来を切り開くとしたら──)


「君は、じゃあ、かすていらはなんで出来ていると思っていたんだ?」


 鬼教官・糖間とうま卵蔵らんぞうにそう訊かれたとき、煮菜子は「牛乳とか……」とうつむいてつぶやき、同じ4期生の者たちに大笑いされた。「かまとと」を地で行くタイプか、と言われ──。


 あの日々はあの日々で、あれで良かったと思うべき。人は恥をかかずに生きてはいけない……。



 鏡張りのダンスフロアの手すりにもたれ、鬼教官は待ち構えていた。糖間は、教え子が持ってきた卵糖パンを見るなり、手に火傷を負うこともいとわず


「かっ!」と両の手に挟んで押し潰した。


「な、なにを…………」


【十年後の回想シーンから抜粋】(私はそれはそれは驚きました。(中略)鬼教官ともっぱらの噂でしたが、彼は世間様にはその噂どおりに思わせておきたいと考えたのか、教え子の無様な卵糖パンをそうやって一息に押し潰すために密かにトレーニングを積んでいたのだと思います。私にしてみても、あれから階段の上り下りが随分楽になったっていうか、友達からも『あなた、押し潰される前より、随分明るくなったね』と言われ……

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 糖間は5ミリの厚さと化した「それ」を、床にぽいっと棄てた。

 

「リチャード!」と煮菜子は叫んだ。


「ロミオ」と糖間は同じ部屋にいたロミオを呼んだ。


 グランドピアノの脚にロープを巻きつけて、それを汗まみれ状態で『アンダルシアの犬』風味にグイグイ引っ張っていたロミオは顔をあげる。


「君は、煮菜子の卵糖パンになにを感じる? ぜひとも率直に言いたまえ。この卵糖パンにフランス料理のディナーをごちそうしてやりたいと思うかね? 彼女の作品に愛や官能、終わりなきファイティング・スピリットを感じるか? どうだ……」


「へい、官能大臣」とロミオは答える。「あっしは旦那さんの言うとおりだと思いますですだ。神父さんがなんと言おうと、神様はすべてをお見通しでげす」


「みろ」糖間は吐き捨てるように言った。「このザマだ。……煮菜子、君はもっと『魂の越境』を覚えることだ。君の中にはまったくもって存在しないらしいね。よろしい! 私が君の体にプログラムを叩き込んでやろうじゃないか。なあに、大人な作品にはよく登場する展開さ。鬼教官と教え子のみだりがましい関係。誰も今さら驚きゃしない……



int main(void) {


 int h ; // 変態の型の定義


 h = 0 ; // 常に変態を初期化する

  

 printf ( "この……、変態! " ) ; // 変態であることを表示する


 return 0 ;


 }

 

 どうだ? これが君の人生を変えるプログラム(運命)だよ」



 煮菜子の体の中でなにかが音を立てどうにかなっていくのを、幾千もの守護天使たち(コンパイラ)は…………結論から言って、闇雲に実行した。メモリに刻まれるおびただしい数の鄙陋ひろうな単語たち。そのとき、電動アシスト四輪車に跨り偶然通りかかったと言い伝えられる悪魔が、その四十九対もの目と手で潰れ果てた痛ましい卵糖パンの残骸を拾いあげた(もちろん、この怪物の姿は誰にも視えていない)。


「おおっ、これは……。かの有名な、16世紀にはすでに、日本人によってこねくり回され原型を留めぬほどの姿に変えられてしまうことが運命づけられていた菓子『かすていら』ではないか! ここまで変形させるとは愚かな……」



 悪夢のプロペラが回りだす! 煮菜子の頭上で、彼女に美徳の葉洩れ日を投げかけていたステンドグラスが割れちぎれ飛び散り、そこから唐突にスライドインしてきたオカピの死骸。オカピはロミオのピアノの上に落下し、前脚の蹄で不協和音を鳴らす。


 悪魔の影は、粘着テープとなり煮菜子に貼りついた。


 


 


 

 

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