生活の中にある、僕の掟。
@yatumi
本文
僕は弱冠17歳の自他ともに認める”ガキ”である。
そんな僕には生活の中で掟として、いくつか縛っている行動がある。
例えば、舌打ちをすることや歩きスマホをすること、自転車でながら運転をすることだとか、ニュースを見たりするときは、自分限定で見繕われたもの、いわゆる”おすすめ”は見ないだとか、自分の機嫌の良し悪しを相手に出してはならないだとか、まぁ結構ある。
舌打ちは中学時代に、社会科の先生が生徒に対してやっていたのを見た。そしてこう思った。
こうはなりたくない。と。
歩きスマホは、言うまでもなく危ない。
それにスマホを操作する時間がなぜ捻出できないの?
そんな危険を冒してまで時間を捻出しなければいけないほど、あなたは忙しいの?
そこまでして見たいコンテンツがあるの?
と、してる人に問いかけたくなるからというのもある。
自転車でながら運転をすることも言うまでもなく危ないからだけど、僕が歩道を自転車で走っているときに同年代の子が二人組で、スマホを操作しながら自転車で向かってきたことがある。
その子は直前まで、というか最後まで僕に気が付かなくてギリギリのところで僕がブレーキをかけて限界まで歩道の縁に寄ることで避けた、という経験がある。
すれ違った後、自転車を止めて振り返ると
”あ、危ねぇー。何かにぶつかりかけたわ~”
とかほざいていた。ぶつかりかけたのが人間だったことにすら気が付いていない。腹が立つよりも先に、
こいつはそう遠くないうちに身を滅ぼすな。と呆れながらに思った記憶が今も鮮明だ。
”おすすめ”されたコンテンツを見ないのは、インターネットで利用者が好ましいと思う情報が選択的に提示されることにより、世界がそこだけになって孤立してしまう、フィルターバブルという殻の中に閉じこもって考え方が偏って、凝り固まってしまうのを防止するためだ。
おすすめ、とかいうものはその権化で、かくいう自分も、もっと幼いころに陥ってしまったことがある。止めてくれる人がおらず、当時の自分はどんどんのめり込んでしまっていた。
しかしある時、あれ?これなんかおかしくない?流石にそれはないんじゃない?と思ってそれが嘘であると、真実に気がついたからよかったが、その瞬間がなければ、今では危険思想に傾倒していたかもしれないと思うと恐ろしい。
最後の自分の機嫌の良し悪しを相手に出してはならない、というのはいわゆる確証バイアスというものなのかもしれないが、周りにそういう人間が多かったのである。
簡潔に言うと気分屋が多かった、ということだ。そんな人が自分に対して理不尽に冷たかった。自分は関係ないのに、自分がとばっちりを食らう。それで嫌な思いをした経験があった。そしてそれを反面教師にしたという事の次第だ。
そんなわけで何かと、人の振り見て我が振り直せ、と教訓としたものが多いのだが、その縛りの中でも一番身近にあって、不思議な内容のものがある。
それは暇つぶしとしてスマホを構うことを縛るものである。
この教訓が僕の胸に刻まれるようになったのは、現代文で読まされた評論文がきっかけだ。
僕は現代文と言うものには理念にあるような綺麗事は浮華でしかなくて、あんなものは問題文に対する秋波であり、追従でしかないと卑下しているので常にやる気がないが、読まされた文章の中で印象に残っているものがある。
その文章にはまとめると”若者が電車などでの暇な時間に意味もなく携帯を触り、意味もなく友達にメッセージを送るのは、携帯を触るという行為自体が目的になっているコンサマトリーである。”というものだ。
実際には暇な時間を潰すこと、という目的があるのだからインストゥルメンタルで、それ自体は手段に過ぎないような気がしないこともないが、言わんとしていることは最もだと思う。
メッセージを送るということだけに限らず、意味もなく携帯を触る行為、そしてその行為自体が目的の様になっていることはおかしいんじゃないか、ということが言いたかったのだろう。
僕は評論文の筆者、ひいては世間一般が現代の若者全般に対して、暇な時には意味もなくスマホを構って、アルゴリズムから提供されるコンテンツを無批判に受け止めることしかできない愚かな生き物だと、そう思っているのだと解釈した。
僕は悔しかった。
若者だというだけでレッテルを貼られて、愚かな行為に勤しんでいる存在だと思われることが。
あるいはその思いは、自分が他とは違う何か特別なものでありたい、という低俗な願いだったのかもしれないが。
確かに僕も愚かだとは思う。
意味もなく、必要もなくニュースを見て、自分には関係のない人間のスキャンダルだとか、どうでもいい情報を収集することばかりしたり、SNSを見たり、別に特段興味があるわけでもない調べ事をしたり、どうしようもなく退屈なコンテンツを消費したりして時間をつぶす人達。
僕はニーチェの”読書する暇つぶし屋を私は憎む”と言う言葉にある通り、暇つぶし程度の読書態度で書かれたものの真髄を理解しようなどという舐めた考えが嫌いなので、エンタメコンテンツを楽しむときにはリラックスしてそれだけに集中して全力で楽しんでいる。
なので中でも暇つぶしとして誰かが血をもって、全身全霊で書いたのであろうコンテンツを、そんな態度で消費している人を見るとこう言いたくなるのだ。
もし仮にそれが本当に面白いコンテンツだったならばそれだけのために時間を割いて見たくなるのが本当なんじゃないの?
そんなときじゃなくてリラックスしてみたいと思うのが本当なんじゃないの?
あなたはその消費が追い付かないくらいに面白いものを知ってて、消費するのが追い付かないからその暇な時間をそれに充てているの?
そうじゃ、ないでしょう?
そしてそれ以外の退屈な手段で暇つぶしをする人も含めて全員に向けて、こう言いたいのだ。
そんな退屈なことして、何が楽しいの?
そんなことするくらいなら周りの風景を見た方がよっぽど楽しいよ?
ほら見てごらんよ。人の営みだとか、景色からさ、この世の摂理、仕組み、趨勢とか、いろんなものが見えるよ?
僕が暇な時にスマホを暇つぶしに触らないのは、ささやかな抵抗だ。
対するは評論文の筆者、レッテルを貼る世の中、そして退屈そうにコンテンツを消費する人達。
でもやっぱり一番強く思うのは評論文の著者と、レッテルを貼る世の中に、
こういう例外的な、お前らから見たら特異的な存在だって、ちゃんといるんだぞ!と目にもの見せてやりたい。そうすれば、彼らにその目にもの見せてやった行為を、冷笑されるまでの一瞬だけ、本当に一瞬だけ、僕は燦然と輝けるのかも知れない。
でもきっと、彼らの鼻を明かすには、きっとその一瞬で十分だ。
僕がこんな縛りを生活の中に組み込んで、こんなことを思っているのは、自分が特異な存在でありたいという差異化願望なのか、自己顕示欲なのか、何かを認めてほしい承認欲求なのか、あるいはもっと低俗で、醜くて、救いようのない物なのか僕にはわからない。
でもこの反骨心において間違いなく言えることが、一つある。
そうこれは、どうしようもなく愚かで、世間知らずで、捻くれてて、救いようのない若者の、
若気の至りだと、いうことだ。
生活の中にある、僕の掟。 @yatumi
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