ソロ・ロペロサ

絵空こそら

rhopalocera

 片割れを失うことが、なぜ完成と呼ばれるのか、キキラにはわからなかった。

 成虫となった今でも、彼女の脳裏には弟の面影がちらついて片時も離れない。そっと背中の羽に意識を集中させても、それは物言わぬただの大きな物体だった。あと10年。ただやり過ごすには、あまりにも長い。

 

 ロペロサは、雌雄一対で生まれる。少年~青年期にどちらか一方の養分を吸収し、変態が完了することで、羽と触角が生える。その時に新しい門出を祝福して、名前を与えられる。彼女の場合はキキラと。それまでは片割れと共に、名前のないただの幼虫だった。しかし、彼女は片割れのことを弟と呼んでいた。自分たちと似た姿をした古代生物は、個別で生まれ、その後先で兄と弟、姉と妹など区別して呼んでいたという。その例に沿って、弟もまた彼女のことを姉と呼んだ。本来幼虫を特定の名前で区別してはいけないことになっていたが、彼女たちはこっそりその掟を破った。

 少年期を過ぎても、変態の時期はなかなかやってこなかった。もうそんな時期は、一生やってこないのではないかと思われた。ある理由で変態に失敗し、羽も触角も持たないロペロサ達はアンテニスといって差別され、ろくろく良い職にはつけないことになっていた。それでもいいかもしれないと思った。弟と一緒なら、どんなに過酷な一生となっても、耐えられる気がした。弟も同じ気持ちだったようで、たった今彼女が考えていたことをそのまま口にした。別の個体として存在していても、通じている、と感じることがよくあった。彼女は笑った。異変が現れたのは、その時だった。

 彼女はおもむろに弟の首に手を伸ばすと、そのまま力を込めた。勢いのまま地面に彼の背を押し付け、馬乗りになって細い首を締めあげる。手足をばたばたさせていた彼の身体は、やがてぱったりと動かなくなった。驚いたように見開かれたグリーンの瞳が、空を仰いでいた。

 彼女が意識を取り戻した時、弟の姿はもうなかった。彼女の指は、弟の形に窪んだ土をただ掴んでいた。代わりに、背中と頭に、確かな重みがあり、振り返ると大輪の芍薬のような、白い羽根が目に入った。その時から彼女の胸の内にはぽっかりと、ひとりぶんの穴が空いている。

 

 他のロペロサ達は変態した後、それまでの片割れの記憶がほとんどなくなるらしかった。というより、もともと一つの個体であったことを実感するらしい。キキラには訪れなかった感覚だ。

 細々と賃金引き上げの申請をしているアンテニスたちを横目に見ながら、彼女は彼らを羨ましく思った。もっとも、彼らからすれば、羨ましいのはキキラのほうだろう。ロペロサは、羽が大きいほど魅力的であり、キキラの白い羽は、突然変異したかのように巨大だからだ。移動する際は邪魔だからと折りたたんでも尚、その存在は見る者の目を引く。

 彼女が向かっているのは診療所だ。彼女が、片割れの存在を引き摺っているのは異常と判断された。心療内科には同じような症状のロペロサたちが通い、ケアを受けている。

「キキラ」

 振り向くと、青い瞳と目が合った。黄色い髪を後ろで括り、水色の透き通る羽を揺らしながら近づいてきたのは、同じ心療内科に通うヒワだ。

「君も診察だったんだ。どう?調子は」

 キキラが黙っていると、勝手に「そっかそっか」と頷いた。

「僕は調子いいんだ。マリの声もよく聞こえる。でもそれをお医者さんに言ったら、いよいよよくないって言うんだ。変だよね」

 彼は雄だが、雌に支給される上下繋ぎの服を着ており、自身の羽のことをマリと呼ぶ。本当の名前はヒマワリというのだが、片割れと半分ずつ分けたという話だ。彼らは変態期よりも前に自分たちの運命を儚み、海に入った。片割れのほうが岩に頭を打ち付けるなどして先に死に、折よく彼に吸収されたらしい。成虫になった彼を家族は喜んだそうだが、どうやら様子がおかしいと気づいた。まだ片割れがいるかのように、羽に向かって話しかけるのだ。彼には羽から片割れの声が聞こえているらしい。それが真実でも、ただのまやかしでも、キキラは羨ましいと思ってしまう。自分はもう、弟の声すらよく覚えていない。

 診療所に着くと、真っ白な、だだっ広い部屋に通された。担当は、ミロという名前の総合医だ。小さい身体、小さい褐色の羽と触角、同じ色の睫毛で縁どられた赤い目だけが不釣り合いに大きい。白い服を着た彼女は、キキラが部屋に現れると笑顔を見せた。

「キキラさん、こんにちは」

 キキラは挨拶を返さない代わりに少しだけ微笑んだ。弟を失ってから、種族に対して不信感を募らせていた彼女が唯一、心を開いている同胞がミロだった。

 初めて診療に来たキキラが、どんな問診にも口を閉ざしていると、彼女は怒った。

「あのね、あなたがちゃんと生きなければ、もう一人のあなたも可哀想でしょう」

 キキラは驚いた。周りの者は弟の存在を抹消しようとするばかりで、形あるものとして認めてくれたのは、彼女が初めてだった。

 ミロは、幼い時に片割れを亡くしている。事故だったそうだ。生まれた時から彼女のほうが小さかったため、彼女は自分が吸収されるものだと、漠然と思い込んでいた。落石により半分体の千切れた片割れの手を取った瞬間、変態が始まった。触角と羽が小さいのはそのためだ。アンテニスほどではないが、羽の小さい者は虐げられる。幼少期に片割れを吸収した証だからだ。どんな理由があろうとも、大多数の者は目に見えることだけを真実と思い込む。

 そんなミロが医者になるのは、並大抵でない努力を要したはずだった。それでも、目の前にいる彼女は柔らかく微笑んでいる。そして、その心の中に折れない芯があるのを、キキラは知っている。

 彼女の夢は、アンテニスと、羽の小さな者が差別されず、また、片割れを殺さずに共存していける社会の実現だ。その為の研究をしている。

  何事にも消極的なキキラが何度もカウンセリングに足を運んでいるのは、ミロの研究のためだ。それともう一つ。それを言ったら、彼女は怒り出すに違いないので黙っている。

 ロペロサの寿命は、取り込んだ片割れの生きた年数がそのまま保障される。どんなに自死を試みたところで、その数年間は死ぬことはできない。それでも自傷行為を止めなかったキキラだが、ミロとの出会いがきっかけで我慢するようになった。ミロは幼い頃に変態を行っているから、保証された寿命は残り少ない。寿命が切れた瞬間、死んでしまうこともあり得る。もちろん彼女自身そのことを理解しており、それまでにできることをと、膨大な量のデータやレポートをまとめたり、次代の育成に心血を注いでいる。そんな彼女のためにできること。キキラは目を閉じた。


 ミロが動けなくなったという知らせをきいたキキラは、巣を飛び出した。ロペロサの羽はほぼ飾りであり、飛翔能力は極めて低かったが、彼女の巨大な羽はそれを可能にした。羽が生えてからというもの、飛んだのはその日が初めてだった。道行く者たちは皆、大きな白い羽が空を舞うのを仰いだ。

 診療所の小さな部屋に、ミロは寝かされていた。あの大きな瞳は閉じられ、触角と羽はくたびれており、微かな呼吸だけが、彼女の生きていることを示していた。キキラが近づくと、ミロは少しだけ目を開けた。

「ああ、キキラさん……。ごめんなさいね、診療の途中なのに、私、もう長くないみたい」

 引継ぎは済んでいるから、と言うミロの寝台に腰かけると、キキラは長い指で彼女の頬に触れた。

「あなたには感謝してる」

 ミロは驚いたようだった。そして少しだけ笑う気配。

「やっと声を聞かせてくれたのね」

「私が、死ぬまでの日々をただ淡々と過ごす間、あなたは全力で生きていた。私たちみたいなロペロサがもう生まれないように。なぜ私が生き延びたのか、ずっと不思議だった。きっと、あなたに出会うため」

 キキラはグリーンの瞳で微笑んだ。ミロはそれに応えると、微睡むように目を閉じた。指の触れた頬が温かく、心地よかった。


 ミロが再び目を覚ましたとき、そこにキキラの姿はなかった。代わりに、体の中に生命力が溢れていることに気づいた。息をするだけで精一杯だった昨日の状態から、一変していた。身体の調子とは裏腹に不安がよぎる。キキラはどこへいったのだろう。部屋からとび出して探したものの、彼女はどこにもいなかった。


 それから十年後、診療所近くの公園には、仲良く遊ぶ双子の姿があった。診療所の窓から見つめるのは、年を重ねたミロだ。

「いい時代になったねえ。キキラが見たら喜びそうだ」

 後ろから声をかけたのは、

「ヒワ」

 黄色い髪を短く切り、成虫の雄に支給される服を着た彼は、手を振って苦笑した。

「よしてくれよ。僕はもう、ヒマワリだ」

「ごめんなさい、つい癖で」

「あの頃のことは恥ずかしいなあ。あんな嘘ついてさ、認めたくなかったんだよね、もうひとりの僕がいなくなったってことを」

 ミロは小さく頷いて、数年前自分に命をくれた、彼女のことを思い出していた。

 あの時、ミロは怒った。彼女は自分の生を全うしたと思っていた。何も思い残すことはなかった。後は次世代の者たちに託したのだ。それなのに、キキラは自分の命を投げうって、自分を延命させることを選んだ。それは逃げだ、と彼女は思った。孤独で苦しくても、キキラには生きてほしかった。でも、同じ思いを弟へ抱きながら、彼女は生きてきたのだ。

「ねえ、ヒマワリ。本当にキキラさんは異常だったのかしら。私はあの人だけが正しかったように思えてならない」

「僕もだよ。でもじきに、彼女が正しかったってことが証明される時代がくるさ」

 誰かと共にいたからこその孤独は、痛みにも似ている。それでも、思い出を糧にして、自分たちは生きていく。彼らは公園の子供たちが遊ぶのを、飽かずにいつまでも眺めていた。


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ソロ・ロペロサ 絵空こそら @hiidurutokorono

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