第7話

 手紙には、私は陛下の命が惜しい、どうか、ご決断を。と将軍の字で書かれていました。

 王は天を仰ぎました。つまり、将軍の心は、アレクシスに傾いているということです。忠実な男ですから、自分の身を心から案じていることは王にはよくわかっていました。しかし、将軍は敬虔な信徒でもありましたから、神の奇跡を見せられては、アレクシスこそが正当な王なのかもしれないと、心を動かされてしまったのでしょう。

 しかし、神はどこまで自分を嫌うのでしょうか。アイーシャを神嫁として差し出さなかった、その報いがこれほど大きいものだとは。

 王は斥候に対して、結論を出すまで一週間待てと将軍に伝えるように言って、彼を下がらせました。

 敵国側に、神に選ばれし正当な王位継承者がいる……その噂はあっという間に国中に広まりました。王はもちろん、斥候に固く口止めをしていましたが、いつの世も人の口に蓋はできないものです。砂と黄金の国の王妃は一切政治には関わらないものですが、この噂はサラの耳にも入りました。

 夜空に青く細長い月が浮かぶ夜。どうするのかと、サラは王に尋ねました。王は、この数日間に、王宮から使用人や衛兵が何人も逃げ出していることを知っていました。民の間にも不安が広がり、敵国陣営に逃げていく者も出始めていることを知っていました。ですから、サラも逃げたいのだろうと思いました。なんせ、サラはアイーシャとは違って、互いに恋焦がれて夫婦になったわけではありません。形ばかりの夫に巻き込まれて死にたくは無かろうと思いましたから、王は言いました。

「サラ、私が離縁状を書いてやる。荒地と太陽の国に逃げるがいい。先方も悪いようにはしないだろう」

「あたしは、陛下はどうなさるんですかと訊いているんですよ」

 王の気遣いなど耳に入らなかった様子で、サラは王をじっと見て訊ねました。

「神に見放された王など、民を不幸にするだけだ。先方の言う通り、神の加護を受けられなかった己の非力を詫びながら投降することが定石だ……だが、私はどうしても納得いかない」

 神の意思に歯向かおうとするなど、あり得ないことです。ましてや、砂と黄金の国の王ならば尚のことであります。

 しかし、王は拳を握りしめて続けました。

「荒地と太陽の国の野蛮ぶりを私はよく知っている。奴らはこれまで占領してきた領地の男を殺し、女を犯し、その地の文化も財産もすべて食い潰してきた野蛮人だ。そんな連中をこの国に入れるわけにはいかん。奴らの抱える修道士なんぞに、王位をくれてやるつもりもない。かの国に担ぎ上げられて良しとしているのなら、奴らと同じ野蛮人か、よほどの愚か者だ。そんな輩を王にするなぞ、これまで私に尽力してくれた家臣たち、私を次期国王として育ててくれた先の両陛下、我が前妃アイーシャをはじめ、私のために犠牲になってしまった人々、そして我が国民に対する侮辱だ。私は、たとえアレクシスがどれほど神の加護を受けていようが、易々と玉座をくれてやるわけにはいかん」

 恐れ多くも、この王は、神の御意志に逆らうことになろうとも、王位を譲る気はないと言うのです。なんと不遜で、不信心な王でしょう。彼自身も、それはよくわかっていました。しかし、アイーシャがその身を神に奪われかけ、抗うために自殺したこと、神の怒りを鎮めるために、罪のない百人の乙女が犠牲になったことを思うと、彼は、もうとてもこれ以上、神の言いなりになって何かを喪うことには耐えられないと思いました。

 気がふれた王だと、皆が非難することでしょう。実際、本当に自分は気が触れてしまったのかもしれない、と王自身も思いました。このような、狂ったとしか思えない自分の振る舞いに、他人を巻き込むわけにはいきません。サラも呆れて、自分の元を離れるでしょう。それでも構わない、自分一人になってしまっても戦おう……王は、そう思って改めてサラに向き直ったのですが……。

「……どうして、笑っているんだ、サラ」

 サラは、どこか安心したように、口元に笑みを浮かべていました。嘲笑でもなく、自暴自棄になっているわけでもありません。この場ではどう考えても似つかわしくない、穏やかな笑みに、王は困惑しました。まさかサラはすでに狂っているのでしょうか。

「陛下」

 サラは、じっと王を見つめて言いました。

「あたしは、神様をありがたいと思えたことなんて、この人生で一度もなかった。家族は火事で死んでしまって、伯父夫婦にも、周りの人々にも、気味悪がられて嫌われて。きちんと御祈りして神様を信じていれば、必ず救われると教えてくれたのは、町に来た神官さんだったと思うけど。どんなに祈っても願っても、神様はあたしを助けてくれませんでした。……いや、クミンだけが心の支えだったけど、ともかく、神様に祈って救われたと思えたことは一度もなかったんです。もう神様に祈ることすらやめてしまった、そんな時に出会ったのがあなたなんです。あたしは、神様に助けられたなんて思えない。神託だかなんだか知りませんけどね、現にあたしの目の前に現れてくれたのは、陛下なんですから」

 サラは王の白い手に、自分の火傷だらけのそれを重ねます。自分が王に抱く気持ちが、果たして恋や愛と呼べるのか、サラにはわかりかねました。しかし、愛する妃を差し出さなかったというだけで、散々神に嫌われたこの人と、共に戦いたいと思いました。

「陛下。あたしは、あなたの側にいます。傲慢な神の力になんか、負けちゃ嫌ですよ」

「……サラ。お前は不遜な女だな。お前の言葉は、まるで悪魔のささやきだ」

「悪魔だってなんだっていいでしょう。神様はどうせ、あたしたちを助ける気なんか無いんだから」

 その夜、砂と黄金の国の夜空に、白く輝く彗星が流れました。これを見た神官たちは、凶兆だ、神の怒りだと震え上がりました。

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