哀歓
「昨日はどう過ごしていたの?」
朝の出来事からしばらく時間を置いて気恥ずかしさも多少は薄れたのか、それとも沈黙を誤魔化すためなのか、濡れた髪を乾かしたメルルーシェが柔軟を行いながら話を振る。
そういえば、と机の上に置かれたままの白い布に目を向ける。昨日はあれを渡すような雰囲気でもなく、いつ渡そうかと悩んでいたのだった。
「少し買い物に出てた」
「買い物?珍しいわね」
不思議そうに顔を傾けてラミスカの視線を辿るメルルーシェ。
日課の訓練である魔力操作を切り上げて立ち上がると、卓上の白い布を手にした。
そのまま上げた足を壁に押さえつけているメルルーシェの元に持っていく。メルルーシェが少し身構えたのは、朝その唇を奪ったせいだろう。
「これはメルルーシェに」
白い布に包まれた木箱をメルルーシェに渡して椅子を示す。メルルーシェは戸惑いながらも促されるまま椅子に座って、じっと手にした白い布を見つめている。
その横顔が何故か少し寂しそうに見えて、胸が痛む。
彼女は今何を思っているのだろう。
メルルーシェは15.6歳の頃に自分を拾ったはずだ。一般的なベルへザード人と比較しても子供を育てるには早すぎる歳だ。
物心ついてからを神殿で過ごした彼女は、どんな風に生きてきたのだろう。赤子を育てることになって、自分の時間を持つことはできなかっただろう。
街で見かける少女たちのように誰かとはしゃいで遊んだり、誰かに想いを寄せたりしたことはあるのだろうか。
メルルーシェが丁寧に結び目を解いていく。現れた白い木箱の木目を長い指がそっと撫でる。小さな音を立てて開かれ、華奢な首飾りが現れる。
日の光を受けて煌めく深い青紫のベレス鉱石に、小ぶりなラミスカテス鉱石が2つ添えられていて、淡い金の細やかな鎖も相まって上品で慎ましい印象を与える。
じっくりと首飾りを見つめるメルルーシェの横顔を眺める。
「これは……ラミスカテス鉱石ね。綺麗……
この真ん中の鉱石は何かしら?似た物をアガテナ神殿の癒し手も身につけていたわ」
両端の小粒のラミスカテス鉱石を撫でて持ち上げると、真ん中のベレス鉱石を角度を変えて眺める。
「それはベレス鉱石という。慈愛の神ルフェナンレーヴェの加護を受けた魔鉱石で、癒しの魔力を高めるらしい。ほら、つけてみよう」
メルルーシェの手から繊細な金の鎖を受け取ってメルルーシェの首にあてがう。
鎖の首飾りは革紐で作った首飾りとは身につける方法が違うらしく、小さな金具の開き方が分からずあたふたとしているとメルルーシェがくすっと笑った。ラミスカは指先を使う精密な作業は苦手だった。
「貸してみて」
渡すとメルルーシェは器用に指先でつまんで、金具を開いて自分の首に回した。
「こういうものを付けたことがあるのか?」
見えない部分にもかかわらず、滑らかに金具を留めたメルルーシェの器用な手先に感心する。
「神殿には神官がたくさんいるでしょう?
神官の中でも役割が分かれているのだけど、神に直接仕える魔力の高い神官がいるのよ。うーん、分かりやすく言うと偉い神官様ね。その方の身の回りのお世話をするときにね」
「そうか」
白い滑らかな鎖骨が青い鉱石の静謐な輝きで美しく彩られている。
そっと鉱石に触れるメルルーシェの横顔が苦しそうに歪み、みるみる内に涙が溜まっていく。
「どうした?気に入らなかったか?」
嬉し泣きとも違う雰囲気に戸惑いながら尋ねると、しばらく声を押し殺していたメルルーシェだったが、顔を拭いながら絞り出すように呟く。
「わからない。とても嬉しいはずなのに、悲しくて胸が苦しいの。なぜか自分でもわからないわ。こんなにも素敵な贈り物なのに」
泣き止まないメルルーシェに途方に暮れて、しゃがみ込んでゆっくりと身体を包み込む。よくメルルーシェが自分にしてくれたように背中を優しく叩いてやる。
「昔……誰かに、何かを貰った気がする……何だったかしら」
メルルーシェは泣いている理由を誤魔化すように独り言を呟いている。
こんなによく涙を見せる人だっただろうか。そんなことを考えていると、胸の中で鼻にかかった声で面白そうに笑った。
「ラミスカ、貴方にこうして慰めてもらう日が来るなんて。
背中を叩いてあげることには慣れてないのね」
少し叩く力が強かったのかもしれない。ばつの悪さと一抹の恥ずかしさを誤魔化すように呟く。
「あぁ、こうして人を慰めたことなんてない」
「そうよね。ごめんなさい」
顔を上げたメルルーシェは照れくさそうに、くしゃくしゃに濡れた顔で笑顔を浮かべていた。
「ラミスカ…ありがとう、本当に嬉しいわ」
きらきらと濡れた瞳から留めどなく流れる涙を袖で拭ってやる。
その言葉は本心だと感じた。贈り物に喜んではくれているみたいで少し安心する。
「さぁ、魔力で満たして」
ラミスカが促すと、メルルーシェは触れた指先から滲むように魔力を流していった。こうすることで首飾りを自身の身体の一部として認識するのだ。
魔力が行き渡ってちりちりと輝いている鎖に、まるで懐かしむように指を滑らせるメルルーシェ。伏せられた睫毛に濡れて固まった埃が付いていたので手を伸ばすと、メルルーシェは反射的に身体を萎縮させた。
「すまない。何か付いていたから取ろうと思ったんだ」
「こちらこそ」
互いに気まずさと羞恥心を抱えてぎこちなく距離を取って。
「どう?似合う?」
メルルーシェの白い首元に蒼く澄んだ光を落とすふたつの石は、纏まって美しい色を映し小さいながらも存在感を発している。
「とても」
短くも偽りのない、心からの賛美を含んだ言葉。
メルルーシェは胸元の青にそっと触れ、切なげに、心から嬉しそうに、微笑んだ。
あれ以降気持ちは伝わったようで、メルルーシェに微妙に距離を取られるようになった。自分は幼い頃から彼女を女性として意識していたが、彼女もそうだったわけではない。
唇を奪ってしまった。それが意味する急激な関係の変化に戸惑うのは当たり前だろう。後悔していないと言えば嘘になる。もしかすると彼女は自分のことを息子以上には見ることが出来ないと、拒絶することもできるのだから。
寝台を分けると言い出した彼女に、部屋が空いている宿屋はないと説得したことも記憶に新しい。
ラミスカが椅子で寝ることを提案すると、やれそれはだめだの、やれ自分が椅子で寝るだのと反抗するので、不問なやりとりになることも承知で常套句を使うことにした。
『家族だし一緒に眠っても問題ないだろう?』
ラミスカが何食わぬ顔でそう返すと、ほんのりと顔を赤く染めて口籠もるメルルーシェだった。
それよりも急を要する事態が迫っているせいで、ふたりは必要以上にお互いを意識せずに済んだ。
宵の国に向かうにあたってふたりが対策として考えたのは、死なずに宵の国に向かう方法、死んでから生き返る方法のふたつだった。荒唐無稽に聞こえる選択肢だったが、端から考慮しないよりは良いと判断した。
「やはり宵の国についての文献にも目を通すべきだ」
「私もそう思うわ」
溜息を漏らしたメルルーシェが頷いた。この数日は、運良く敵地を支配している神を祭る神殿で育ったメルルーシェの知識を頼りに、2人で憶測を立てながら計画を練っていた。しかし、文献に目を通すとなれば本の館に向かう必要がある。
「軍の籍をどうするかについても、そろそろ答えを出さなければいけないわ」
メルルーシェの言うとおりだった。
首都フォンテベルフの本の館に向かうためには転送魔具での移動が必要だと結論が出て、先延ばしにしていた問題に触れるメルルーシェ。
指令書がなければならないにしても、転送魔具を優先的に使える軍人の地位は強みになる。しかし隊に所属している身では、有事の際に集団での行動を優先する必要がある。それは今のふたりには分が悪かった。
契約書通りに退役するなら手続きが必要だし、そのまま軍に籍を置くにしても上官に話を通したり、しなければならないことは多い。
「メルルーシェの契約はどうなっているんだ?」
自分の契約についてはどちらに転んだ所で問題点は少ない。ただ、彼女がどんな契約で第6師団の癒し魔法の使い手になったのか、ラミスカは把握していなかった。
メルルーシェは数少ない手荷物の中から親指ほどの小さな小筒に入った羊皮紙を取り出してラミスカに渡す。
「癒し魔法の使い手の契約は訓練兵上がりと違って少し特殊なのよ」
「へぇ。“有事の際に招集に応じる”か」
文字に目を滑らせながら呟く。
癒し魔法の使い手は一般的な兵士とは違って常に隊と行動を共にする必要はなく、いざという時に召集に応じる形で隊に配属されるらしい。
確かに癒し魔法の使い手は、長年続いた件の戦争においても戦場に身を置くことはなく、魔具の開発が進んで重用されるようになったが、元々は町に身を置く癒し手だ。
「そうね、私は好き好んで隊と一緒に行動していたけど」
くすり、と笑うメルルーシェ。
その話は小耳に挟んでいた。
興味もなかったためあまり詳しくは知らないが、とても優秀な癒し魔法の使い手で、かつ隊に常に同行し任務地へと赴いている変わり者がいるという話だった。第6師団のゾエフに啖呵を切った命知らずな癒し魔法の使い手の話として噂されていた。
まさか目の前で頬に手を添えて穏やかに微笑んでいるメルルーシェの話だとは思いもよらなかったが。
「契約期間はノレスノリアの節を三度迎えるまでか。
同じ時期に退役は可能だな……」
羊皮紙を丸めて仕舞った小筒をメルルーシェに返す。
「そうね。私が……いえ、私たちが安穏の神を助け出すことができれば、きっと戦も収束する。だから私たちは自分のことを優先しましょう。安穏の時代がきっと訪れるわ」
「では首都の本の館に向かって調べ物を終えたら、退役の手続きを行おう」
メルルーシェが頷いた。
安穏の神を助ければすぐに戦争を収めることができるのか甚だ疑問ではあるが、メルルーシェには確信があるようだった。
「安穏の時代か」
首をすくめる。皮肉っぽい言い方になってしまったためか、メルルーシェが一瞬悲しそうに微笑んだ。
「長らく続いた戦争の最中、平和を祈り続けても祈りが届かないことで、多くの人は安穏の神への祈りをやめてしまった。仕方のないことだけれど」
戦に勝とうが負けようが人民に残る傷跡は深く、暗く重いものがのしかかる。ただ勝った国が正義となり、負けた国の民は人として扱われないことも多い。
そうならない為にこぞって必死に戦の神に祈りを捧げ、戦果を上げた者を英雄と持て囃し士気を高める。メルルーシェの言うとおり、安穏の神に祈りを捧げる者など殆どいなくなってしまったのだろう。
(争いの起こらない世界。)
「そんな時代を生きられるのは楽しみだ」
「えぇ」
発した言葉に込められた祈りに応えるように、メルルーシェも力強く頷いた。
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