邂逅と使命



自分の口が乾いていくのが分かる。愛想笑いを浮かべて顔を仰ぎ見るも、ラミスカの穏やかな顔には心配の色が浮かんでいる。


“ずっと一緒にいたい”と真っ直ぐに伝えてくるこの純粋な人に、どう伝えればいいのだろう。メルルーシェは口をつぐんだ。


「…驚くことがあったのだけれど、頭を整理してから貴方に相談させて」


笑顔を浮かべて。それが精一杯の言葉だった。





宿屋に戻る道中も、頭に浮かぶのはあの庭で言い渡された言葉だった。



ーーー君は死ななければならない。メルルーシェ。


『人はいつか死にます。そのいつかではいけないのでしょうか』




****


遡ってアガテナ神殿での出来事。



ラミスカと別れて癒し場への暖簾を潜るとちょうど若い癒し手と鉢合わせた。神官らしく腰を折って会釈をし、軍の癒し魔法の使い手であることと、療養中だが手伝えることが何かないかを尋ねる。


「人手が足りていないので大変助かりますが、良いのですか?」


「えぇ。大変な時はお互い様なので」


癒し魔法の使い手たちの集中を妨げないように、一度癒し場の外に出て小声で癒し場の状況を伺う。癒し手は顔色を曇らせたまま癒し場を見やって頬に手を当てた。


「第6師団の兵士様方は具合も酷く、運ばれてきた過半数以上が継続的に治療を続けている状態です。容体が急変することもありますし、やはりその…精神的な苦痛に苛まれるようで、他の患者や癒し手にも影響があります。このアガテナ神殿には別の街からも治療の目的で沢山人が訪れますが、追いついていない状況です」


メルルーシェは先の戦いで最初から戦場に投入されたとはいえ、比較的被害の少ない第2拠点で過ごしていたため、実際の被害報告を聞いた時には口元に手で覆ったほどだった。


特に最前線で防衛に当たった見張り当番の隊はほぼ壊滅、すぐに後を埋めた師団長直轄隊は戦闘時間が長かったこともあり大きな打撃を受けたという。


「兵士以外の受け入れも行っているのですね」


軍の癒し手や別の町の神殿にも振り分けられているとはいえ、第6師団の負傷者だけでもとてつもない負担のはずだ。


「えぇ。決めているのは神殿司様なのですが、正直休む時間がほとんどありません。けれど国の一大事ですし今は踏ん張りどきですね」


確実にメルルーシェよりも歳下のその癒し手は、疲れが滲みつつも爛々とした光を瞳に灯していて、自分を奮い立たせるように人懐こい笑顔を浮かべた。なんとなく幼馴染のリエナータを思い出して頬が緩む。



そこからは重度の状態から治療が進んでいない兵士の元へ案内してもらい、具合を確認して癒し魔法を施していく。


このアガテナ神殿が大きな理由が癒し場の占める面積だろう。広い空間に垂れ布で仕切られた寝台がずらりと並んでおり、癒し魔法の邪魔にならないように設置された空間魔具の影響で殆どの患者が眠るように静かに横たわっている。


メルルーシェが数人目の傷を癒しを終えて顔を上げると、他の癒し手たちが周りを取り囲んでいた。気付かなかったが、他の癒し手たちがメルルーシェの癒しの様子を見にきていたようだった。


「そんなにも早く意識を集中させられるものなのですか?」


ひとりが興味深そうにメルルーシェを眺めてそう呟いた。


「えぇ。訓練次第で喧騒の中でも魔法を使えるようになりますよ」


額を拭ってそう答えると、癒し手から口々に感嘆のため息が漏れる。


「慈愛の神の寵愛を受けたような瞳の色といい、その卓越した癒しの力。…メルルーシェさんはまるで聖女様のようですね」


小声で呟いた若い女性の癒し魔法の使い手は、人懐っこそうな笑顔に尊敬の念を浮かべてメルルーシェを見つめた。


「ふふ、光栄です。ありがとう。けれどあなたよりも少し長く癒し魔法を使っているだけよ」


聖女とは、慈愛の神ルフェナンレーヴェに愛された癒し魔法の使い手。

特に優れた癒し魔法の使い手を揶揄する最上の褒め言葉だ。


「謙遜なさるな。それだけの癒しをそんな間隔で行うなんて、魔力は、身体の調子は問題ありませんか?」


隣から年配の男性の癒し手がメルルーシェの顔色を伺う。


「少し疲労感はありますが問題ありません」


微笑みを浮かべて気遣いに感謝する。


「…どこで癒し魔法を学ばれたのですか?」


“どこで学んだのか”という問いに答えようと口を開いて躊躇った。そういえば自分は誰かから癒し魔法を教わったという記憶がない。


「最初は同じく神官だった母から学んだと思います。南のモナティという町の神殿で癒し魔法の使い手として育ちました」


幼い頃のことなので記憶が曖昧だと告げると、疑問を投げかけてきた年配の癒し手は納得した。


「幼い頃から癒し手として働いておられたとはご立派です。

神官でいらっしゃったとは」


周りの癒し手たちも親近感を感じたのか、口々にモナティ神殿のことを質問し始めた。しばらく受け答えしていたメルルーシェだったが、誰かの一声が喧騒を裂いた。


「ほら、治療に戻りますよ。まだまだやるべきことは残っているでしょう」


女性がぱんぱんと手を叩くと、癒し手たちが返事をしながらメルルーシェに会釈をして離れていった。


メルルーシェも皆に倣って、重度の傷を負っている患者の列を順番に覗いて癒しを施していく。あっという間に時間は過ぎ、休憩してくださいね、と声をかけられる。神殿の色ガラスは黄色と橙色を床に映していた。


ふっと一息ついて身体を伸ばしながら礼拝堂を覗く。遠方から訪れる礼拝者がすでに帰路についているため全体数は減ってきたものの、まだ礼拝者がちらちらと入ってきているのが見えた。


隣に人の気配を感じて振り返ると、癒し場の責任者らしき癒し魔法の使い手の女性が手を拭きながら立っていた。場を取り仕切っていた女性だ。


「メルルーシェさん、本日は大変助かりました。戦場から戻ったばかりだというのにご好意に甘えてしまって面目ありません」


はきはきとした通りの良い声とは裏腹に、顔には疲れが刻み込まれている。


「助けになれたなら幸いです。2列の重度の患者ですが、数日で回復していくと思います。経過を見ながら、歩けるようになれば軍に送り返してください」


メルルーシェの言葉に目を瞬いた女性は困惑した様子で頷いた。


(本当は薬草も併用すればもっと効率が良いのだけれど。)


癒し魔法の使い手は薬師の領域を犯さない。暗黙の了解的なものが存在するせいか、メルルーシェよりも上の世代の癒し魔法の使い手たちは、薬草についての知識をもっている者は殆どいない。


最近の軍では魔具の開発が進み、癒し魔法の使い手の採用が進んで、元々いた薬類管理の癒し手と組む機会が設けられたため、今後癒しの分野は進化するだろう、とメルルーシェは考えていた。


「もしかすると出陣の命令が来るかもしれないのでしょう?

もしよろしければアガテナの清め湯をお使いください」


唐突な提案に数秒固まった。


「よろしいのですか?」


清め湯は神官しか足を踏み入れることができない決まりだ。今のメルルーシェは軍人であり神官ではない。


「えぇ。本日の報告を神殿司に申し上げた結果、そうしてもらうようにと」


神殿司の許可を得ているのであれば確かに問題はない。正直ぎりぎりまで魔力を使ったのでありがたい申し出だった。


「ではありがたく。そうさせていただきます」


ここは癒し手の数も多ければ神官の数も多い。清め湯に向かう男女を分けて順番を決めるだけでも大変だろうに、余所者の自分を組み込んでくれるのは本当にありがたかった。


女性の案内で着替え部屋に着くと、乾燥した花の入った瓶を手渡される。清め湯の準備に礼を述べて、邪魔にならないように急いで支度を整えて神の庭に向かう。


清め湯が沸く神の庭。

そこに足を踏み入れるのはモナティを出て以来で、鼻をくすぐる懐かしいモルフリドの花の匂いに胸が躍った。薄着でしばらく道に沿って庭を歩いていくと、淡い光を放つ清め湯が現れた。


乾燥した花を清め湯に散らして、儀式的な祈りを捧げ足を浸ける。清め湯に身を浸したのは何年ぶりだろう。心地の良い魔力の流れに身を委ね目を瞑る。



身に沁み渡っていく魔力を感じていると、何かの気配を感じた。


ーーーメルルーシェ。


名前を呼ばれて周りを見渡すも誰もいない。不思議と焦りや警戒心は沸かなかった。水面に視線を移すと、自分が写っているはずの場所に違う何かが写っていた。


思わず立ち上がると、水面が揺れて人影がかき消される。


ーーー逢いたかった。


水面が落ち着きを取り戻す前に、また言葉が伝わってくる。言葉だけではなく暖かな眼差しや優しい吐息を感じる。声を聞いているわけでもないのに伝わってくる言葉、前にも同じことがあった。


「どなたですか?」


この神殿の神の庭に現れる者の正体に、憶測を立てつつも尋ねることしかできなかった。


ーーー私はルフェナンレーヴェ。


落ち着いた水面に映ったのは自分ではない者のぼやけた輪郭だった。整った目鼻立ちと閉じられた瞳、光の細い筋が束となって揺らめくような美しい髪。ルフェナンレーヴェの一本の髪を掴んで生まれてきた赤子は癒し魔法の力を得る、と言い伝えられているその髪だ。


ーーー彼の神に見張られている君とずっと話すことができなかった。


彼の神が誰を指しているのかは分からなかったが、メルルーシェに語りかけてきた神といえば死の神イクフェスである。


死の神とは違って圧迫感の感じない慈愛の神に、慌てて敬愛を示す仕草を行う。跪くべきだろうが、そうすると水面に映るルフェナンレーヴェに近づいてしまうので一定の距離を保つためにそうせざるを得なかった。



なぜこの場に突然慈愛の神が現れたのかは、ルフェナンレーヴェの紡ぐ言葉で明らかになっていった。


ーーー急いで伝えることをよくお聞きなさい。


ルフェナンレーヴェの言葉はそう前置きして始まった。


ーーー我らの同志、安穏の神テンシアは戦の神テオヴァーレと死の神イクフェスによって、宵の国に閉じ込められて眠りについています。


ルフェナンレーヴェの感情が胸に流れ込んでくるようだった。同じ神に対しての深い悲しみと理解、諦め。


ーーー宵の国は我らの力の及ばぬ場所。このまま安穏の神テンシアが目覚めなければ、ヴェレが目覚める。人の世の時間がありません。



災の神ヴェレ。ルフェナンレーヴェが封じる厄災。


人間の自分などになぜそんな話を聞かせるのだろう。メルルーシェの心細い気持ちを察したかのように、頬に優しい風が触れた。


ーーー我が娘メルルーシェ。恐れることはありません。話しかけることは出来ずとも私はずっと側にいる。


我が娘、と呼ぶのは彼の一本の髪を手にした赤子のひとり故か。


脳裏に過ったのは、自分の身が危険に晒された時に身体を包む光だった。もしかしてこれまでも慈愛の神が自分を守ってくれていたのだろうか。


ーーー君が人として生まれたのは宵の国へと向かうためです。

宵の国へと向かい、テンシアを目覚めさせ連れ帰るのです。

君は死ななければならない。メルルーシェ。


突然突きつけられた話に、言葉を失う。

死ななければならないと、死ねと言われて混乱しない者がいるだろうか。

メルルーシェは固唾を飲み込んで震える声で返す。


「人はいつか死にます。そのいつかではいけないのでしょうか」


ルフェナンレーヴェが悲しげに俯いた気配がした。


ーーーもうすぐテオヴァーレが仕掛けた戦が花開くだろう。そうなったとき沢山の子らが失われる。イクフェスが君を迎えようとすることは止められない。



いずれにしても次の戦いで私は死ぬと、そう告げられているのだと気がついた。



ーーー君は我が血を引く娘。レーシェの面影を残す愛しい子。宵の国からテンシアと共に神の国に迎え入れられるだろう。死の苦痛はない。安心しておくれ。



我が血を引く娘ーーールフェナンレーヴェはメルルーシェをそう呼び、神官であった母の名を口にした。メルルーシェには父がいた記憶はない。


心から嬉しそうにルフェナンレーヴェはメルルーシェの帰還の予定を喜んでいるようだった。その言葉に、癒しの魔力を持つことを“娘”と揶揄していたわけではなく、ルフェナンレーヴェが自身の父であるのだと理解した。


すんなりと受け入れられるのは、神の庭で慈愛の神の神威を受けているせいなのだろうか。


(ラミスカは、一体どうなるのだろう。)


その戦いで私は彼を守れるのだろうか。守ってから死ぬことができるのだろうか。果たして彼を置いていった先に、彼には何が残されるのだろう。


「死んでもあの子を見守ることはできますか?」


“あの子”とメルルーシェがラミスカを指したとき、ルフェナンレーヴェから漏れ出た感情は、哀れな人間への憐憫と慈愛だった。


君は我が血を引く娘。あれは宵の国に入ることも叶わぬ、まつろわぬ者。



深い沈黙の後、ルフェナンレーヴェが考え込むメルルーシェの頬を包み込んだ気配がした。


ーーー君が人だった頃の記憶を留めておくことができるのであれば。


ルフェナンレーヴェの言葉が意味することを感覚的に理解し、頬に涙が伝う。

神は人に嘘をつくことはできない。この世界の理だ。


「もしも私が記憶を失っても、必ず私にあの子のことを教えると誓ってください」


ーーー誓おう。


重い口を開いて震える声を抑え込む。


「宵の国に迎え入れられたら、一体どうテンシア様を起こせば良いのか、どうぞお教えください」



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