第1話 甘い夢を魅る 1
そういえば、昔は妹と二人で近くの山に秘密基地を作ってそこで遊んだものだった。
ゴミ捨て場から持ってきた、カビの生えたマットの上に平気で寝転がって
どうして今になってそんなことを思い出してしまったのだろう。ああ、そうか。あれもこんな秋のことだったからか。
そんなことを考えながら私はイチョウの木の下のベンチに座る女性に声をかけた。
「マナさんですか?」
恐らく偽名である依頼人の名前を問うと、長い髪をきつく
事前に受け取っていたプロフィールに嘘はなかったらしい。歳は二十代後半くらいで、ブラウンのロングヘア。身長も高めだ。
マスクはついているが、
「ずいぶんお疲れですね。どうしましょう。ホテル入る前に、一度喫茶店にでも入ります?」
「え。……えっと、それは……」
「サービスになるので、別にいいですよ。どうしますか?」
「じゃあ、それで……」
小さな声。だからといって自分に自信がないとは言い切れないのはわかっている。大声で話す人でも自分に自信を持っているとは限らないように。けれど、今はその限りではないだろう。この人は何かに怯えているようだった。
*
厚手のコートを脱いで、席に座る。向かいのマナさんは物音一つなく、静かに椅子に腰を下ろした。
「一晩ご一緒するわけですから、そんな緊張してたらもちませんよ」
「あ……はい」
「私は一応、相手の方のプライバシーには触れないようにしているので、そちらが何か聞きたいことがあれば答えますよ。答えられる範囲で、ですけど」
「……」
彼女は黙り込んでしまう。私よりも十歳くらい年上だろうに、随分慎重な人だ。こんなサービスに登録するとは思えないくらい。
これは、本番まで行かないで解散する流れかもしれないな。と私は思った。その場合は収入にならないから困ると言えば困るが、仕方ないことだ。
「あの……」
「はい」
「ミナト、さんは、社会人ですか?」
「違いますよ。学生です。学校の名前は流石にいえませんけど」
嘘だった。大学に通えるくらいだったら、こんな仕事していない。
「学生? じゃあ、バイトみたいな感じで、こういう仕事を?」
「ええ。個人でですけどね」
「そう、なんですね」
「ちょっと前に親が死んじゃいまして。私がやらないと生きてけないので」
「……」
「そんなしんみりしないでくださいよ。死んだのはうちの親なんですから」
「今の子は、
「そんなに変わらないでしょ。私たち」
「私なんかおばさんですよ。ミナトさんたちに比べたら」
前髪を撫でながら彼女は言った。
旦那がいるのか。そういう人が依頼してくることは決して珍しいわけではないけれど、少し意外だった。
「念のため聞きますけど、わかってますよね? この後のこと」
「……おかしいって思いますよね。夫も子どももいるのに、こんな……」
彼女は
一方の私も、
「それでもここにきたってことは、きっとどうしようもなかったんでしょう?」
「……」
「安心してください。聞きませんよ」
「いや、いっそ聞いてくれた方が、楽かもしれないです」
「はあ。いや、それでもこちらから聞くのはやめておきます。医者でも相談員でもないし、後々面倒ごとに巻き込まれても嫌ですからね」
そう言うと一瞬私を見つめた彼女は小さく息を吐いた。
相手のことを不用意に聞かないというのは私のポリシーだ。それは今言ったように、知ってしまうことで何に巻き込まれるかわかったものではないから。
それと、これは決して依頼者に言わないけれど、その人が何を抱えて、何に悩んでいるかなんてことに興味はない。おさえておくのは結果だけでいい。
何かに苦しんでいるから
「慎重な人なんですね」
「まあ。あなたに言われたくないところですけど」
思ったままを言うと、彼女はくすりと苦笑した。やけに大人びた……と思ったが、歳相応の笑みか。
「私は慎重なんかじゃないですよ。慎重に生きてこれていたなら、こんなことには……」
思わせぶりなことを言って私に事情を
おそらく彼女の期待に反してココアを口に
「本当に、聞いてくれないんですね」
「聞きませんよ」
「
「お互い様だと思いますけど」
「……いいです。口で言わずとも、どうせ……」
最後の方は小声で良く聞こえなかった。
互いのカップにはもう頼んだ飲み物はなくなっていた。
「これから行きますけれど、やめるなら、言ってください。続けるなら、携帯電話を預かります」
「はい」
ほぼ即答で彼女は携帯電話をテーブルに置いた。時代遅れのガラケー、私にはその使い方はわからない。しかし、これも用心の一つだ。万が一、通報でもされたら困るから。
「バッグの中も見せてもらえますか?」
「バッグは、ないです。お財布だけ」
「そうですか。じゃあいいです。さ、行きますか」
もう脱いだままでもいいのだが、一応コートを身にまとう。
お金を払い、外に出ると不意に左手に冷たい手のひらの感触が伝ってきた。
「いいですか?」
「事後で言われても。まあ、いいですけど」
他人からどう見られているのだろう。女子高生が友だち同士で手をつなぐのとは違うだろうし、母娘がスキンシップで手を握るのとも違う。不思議な関係に見られているかもしれない。
けれど、それでいいのだ。ぐうの音もでないくらいその通りだから。
手汗が
五分ほど歩き、駅近くに素知らぬ顔で
ギュッと握られた手に力が入る。
「入りますけど」
最終確認をすると、彼女は頬を赤くしながら「はい」と頷いた。
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