勇者のコミュニケーション術 ~パーティから追放されないための方法~

羅仙 敬

プロローグ

 目を開けると周囲が緑色になっていた。風が吹き抜け、若草の匂いが鼻孔をくすぐる。見渡す限りの草原だ。さっきまで会社のオフィスにいたはずなのに。

 

 夢でも見ているのだろうか。状況整理が必要だ。


 俺はついさっきまで会社の決算整理をしていた。確定申告直前で深夜の残業になって、エナジードリンクを飲み進めながら会社と銀行の預金残高が違う原因を調べていた。

 帳簿とにらめっこしているうちにまぶたが重くなって、奮闘むなしく睡魔に負けた……気がする。


 とするとこれは夢だな。嫌にリアルだけど。ぼーっとしていればそのうち覚めるだろう。


 そう思って日本では到底見れないだろう広大な草原に目を向ける。ここはどこだろう。遠くには動物たちがいる。モンゴルだとかの牧草地あたりか。




 どれほど時間が経っただろうか、


「おい、兄ちゃん大丈夫か?」


 野太い声が降ってくる。振り返ると体格の良い男が立っていた。顔の彫りも深い。随分と言葉が流ちょうな外国人だ。


「あ~お気になさらず」


「気にならないわけがねぇだろ。そんなぼろぼろの格好で」


 言われて自分の風体に気が付く。粗末な麻の服には無数の穴が開き、革製らしき靴は裂け足の指が露出している。手も土だらけだ。体が痒くなってきた。


 夢でこんな感覚あるわけない。これは現実らしい。そう感じた瞬間、冷たい汗が首筋と背筋に吹き出し始めた。


「あんた流浪者か? 自分の名前とか分かるか?」


 男は俺の動揺に気が付いた。心神喪失者とでも思われたのか、気を遣ってくれているみたいだ。


「自分の名前は……え~っと」


まずい、まずい、まずい。自分の名前が思い出せなくなっている。会社は立川市、新田ビル3F、自分の名刺、名札を思い出せ……


 思い出せた。黒須くろすじょう、25歳の男……それが俺だ。


「黒須丈と言います」


 男の問いかけに答える。


「クロスジョー? 変わった名前だな」


「え~っと、姓がクロスで名前がジョーです」


「姓を先に読むってことは、ひょっとしてあんた大陸東方出身か? もしかするとカシラの知り合いかもな」


 カシラとは耳慣れない言葉だ。人名には聞こえない。そして大陸東方とはどういうことだ。ここはユーラシアかオーストラリア、アフリカあたりなのだろうか。


「カシラにあんたのことを話してくる。ちょっと待っていてくれ」


 そう言うと男はいつの間にか現れた後方の一団に向かった。伝統服のようなものを纏った男たちでおとぎ話の盗賊にも見える。


 しばらくしてその一団から馬に乗った長髪の男がやってきた。日本人のようにも見える整った顔だちだ。俺の前で馬から降り、握手を求めてきた。


「こんにちは、丈さん。私は嘉村かむられいと申します。あなたは天原あまはらの国の出身でしょうか?」


 日本風だが聞いたことのない国名だ。信じたくはないが、どうもここは地球でないらしい。それでも言葉が通じているのは妙な感覚だ。


「実は直近の記憶が曖昧で……。どこから来てどこへ行くのかも分かりません」


 正直に答えた。とりあえず帰宅する方法を知りたいが、今何をすべきか、手だてが全く思い浮かばない。記憶が吹っ飛んだせいか頭も麻痺しているみたいだ。


「それは大変だ。もしよろしければ近くの町まで案内しましょう。まずは暖かい場所で落ち着くこと。そうすれば何か思い出すかもしれません」


「ありがとうございます。ただお金もないみたいですし、町に行ってもどうにもならないのでは……」


 俺は自分の服のポケットをひっくり返してみせる。金なし、記憶なし。多少の現代知識を覚えていることだけが救いだ。


「ご安心ください。私は町にある救貧院の神父と旧知ですから。あなたもそこで保護してもらえますよ」


 救貧院は昔の社会的弱者を支援する施設……だったかな。とりあえず行先が決まってホッとした。見も知らぬ場所で野垂れ死になんてごめんこうむる。


「ありがとうございます。嘉村さんはどうしてそう親切にしてくださるのですか?」


「私は報恩連隊ほうおんれんたいという義勇軍のかしらをしています。人助けは我々の義務ですから」


 嘉村さんが微笑む。地獄に仏、渡りに船とはこのことだ。過酷な連勤が報われ……たのだろうか。


「それでは馬に乗っていきますので私の後ろへどうぞ」


 軽々とした身のこなしで嘉村さんは馬上の人となった。俺は這いずるようにその後ろに座る。


「飛ばしていくのでしっかりと掴まっていてください」


「どれくらいで着きますかね」


「魔法を使いますから、10分といったところです」


 魔法、だと……。地球どころか宇宙が違うのか。元の世界に戻れるのか怪しい。早くも絶望的な気分になってきた。嘉村さんのやや細い腰に手をまわす。


 嘉村さんが腰の細剣レイピアを抜き、掲げた。宝石をくわえた蛇の意匠がつかに施されている。


「〈来たれヴィライテ〉」


 初めて聞く、しかし意味が分かる言葉が周囲に反響する。細剣の宝石が輝き、嘉村さんの体がほのかな燐光りんこうに包まれる。


「〈風霊の襲歩フィード・ギャロル〉」


 緑の燐光がさらに広がり俺と馬まで包んでいく。僅かに体が浮き上がる感覚があった。嘉村さんが細剣を納め、手綱を掴む。


 前進の瞬間に背後から突風が吹き、急加速して馬が走り始めた。危うくバランスを崩しそうになる。周囲の景色が流れていき、やがて色くらいしか判別できないほどの速度に達した。


 矢のような速さに困惑も絶望も置き去りにされる。今はただ、ふり落とされないように必死でしがみつくしかない。


 こうして俺は異世界にやってきてしまった。


 


 






 






 

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