ムーンタワー

小夜 鳴子

空蝉

1

 ぱちり、ぱちり。カメラのシャッターを切る、という行為は、まばたきに少し似ている。

 姉にもらった一眼レフは、少し重たい。僕にはもったいないくらい上等なこのカメラは、姉が病気になる前、バイト代でプレゼントしてくれたものだった。

 少し歲の離れた姉は、僕にとっては姉というよりも母のような感じで、本当の母に嫌われていた僕にとって、唯一打ち解けられる人だった。

 ぱちり、と道路に横たわったアゲハ蝶を撮って、平日の真っ昼間、僕は歩いてゆく。絶賛、不登校中であった。

 歩く度に、首にぶら下げたカメラが揺れる。最近膨らみかけてきた胸に当たって少し痛かったけれど、あまり気にしない。僕が僕であるための、痛みのような感じがしていたから。

 家を飛び出して、商店街を突っ切って、この現実からの逃避行の最終地点である公園に今日も辿り着く。過疎っていて誰もいない公園のベンチに座り、リュックサックの中から水筒を取り出した。幼稚園の頃から使っているコップつきの水筒は、僕のお気に入りだった。

 こぽこぽこぽ、と小さなコップにお茶を注いでいくと、水面にムーンタワーが浮かび上がった。この街の中心にある、小さなタワー。遠い昔に建てられて、今は捨てられたタワー。何処かの県に、錆び付いて動かなくなった観覧車があったと聞いた。観覧車は、今は解体されて外国にあるらしい。このタワーもそうすればいいのに、と思った。

 ゆうらり、と揺れるタワー。僕はそれを飲み干した。ムーンタワーは僕のお腹の中で消化される。

 10分遅れの公園の時計は、13時を指していた。商店街の駄菓子屋さんのお婆ちゃんはこの間死んだ。僕のお昼ご飯はいつも、お婆ちゃんのくれるおにぎりだった。母もそれを知っていて、わざと昼食を作らない。お婆ちゃんは熱中症で死んだ。

 夏は、死が多い。活力に満ち溢れたような季節であるのにも関わらず、あちこちに蝉の死骸が落ちている。今も、ミーンミーン、と、死んでいった仲間たちを悼むように鳴いている。そんなこと、あるはずもないけれど。

 死骸よりも多いのが、蝉の抜け殻だ。僕はこれを空蝉、と呼ぶことを好む。まるで、名前の中に「蝉」が生きている、僕みたいだと思うからだ。

 ベンチから立ち上がって、茶色い空蝉を近くの木から取り上げて、ぐしゃりと潰す。先程まで確かに蝉の形を保っていたものは、一瞬で粉になった。見た目だけは立派で、中身は空っぽ。

 せみる。お前のことだよ。

 汚れてしまった手をぱらぱらと振って軽く綺麗にする。帰ろうと思った。母は、お婆ちゃんが亡くなったことを知っている。きっと病院へ行く前に、おにぎりを作ってくれているはずだ。僕のことが嫌いな母は、しかしそういう人だった。

 歩き始めようとしたとき、ふと目に入ったムーンタワーに気を取られて、草むらの中に何かがあるのに気づいた。この公園は、普段から僕以外に誰もいないし、遊具以外のところは雑草が生えていて、なかなか近づかない。それをいいことに、不法投棄でもしているのだろうか。

 この周辺だけ何故かものすごい長さに伸びた草むらを掻き分けると、そこには色褪せた青いベンチがあった。ひっそりと佇むその様は、まるで秘密基地のようで、ずっと昔から、誰かの逢瀬を見守ってきたかのようだった。今まで何度も訪れていたこの公園に、こんなものがあるだなんて、知らなかった。

 そして、春になれば桜が咲くであろう木の下の地面が何故か露出していた。野良犬か何かが掘り出したのだろう。丸くて薄汚れた、ネットで何度も検索したような、僕のうつくしいものがそこにはあった。


「桜の樹の下には屍体が埋まっている、か」


 一歩後ろに下がって、首にぶら下げたカメラを構え、ぱちり、ぱちり。闇色の眼窩が、真っ暗闇の中から、僕を見つめている。ムーンタワーと、青いベンチと、誰かさんの骨。僕の一眼レフは静かにまばたきをした。

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