地獄の季節

園井麒麟

季節は、地獄

 舞台に高校が選ばれたのは、単にその方がそれらしいと思ったからだ。どうも、セーラー服というのは簡単にいかない感情を内包するのに向いている。それはやはり、田舎特有の死の匂いから来るものなのだろうか。桜の木の下、かげろうと虹色の油膜、廃屋と畦道から立ち上る、残夏。そういう全てを言外に託して舞台は始まる。緞帳のない舞台では暗闇がその限りだ。世界を内包し形容する暗闇が開けた。


 ト書きにはスポットの指示、私だけが舞台に在る。私の目には、燦々と降る桜の花の一つまでもが鮮明に見える。そうだ、卒業式に決まって桜は散る。幻想と思い込みで作り上げた卒業式は常にそうだ、そうあるべきで正しいからだ。分かりやすく誂えた記号が普遍な認識であるほどに真実、正誤は蒙昧する。

 私は上手からゆっくりと中央に立ち、名残惜しく下手から目線を客席へと寄せた。その向こうにあるのは虚無と虚構の心象風景であり、人の顔も舞台の出口も無い。だから先輩、アンタも舞台に立っていなくちゃならない。独白を一つ終えたら舞台は第一幕になる。後戻りのない出番はすぐそこだ。唯一の光源が落ちていくと舞台は頼りなく溶けた。不安と緊張を密室に沈めると、きっとあなたは歩いてくる。私は瞬く度に焼けつく、暗い下手の出捌け口を反芻している。



 全明転はいかなる時も緊張と共にやってくる。それが板付を伴うなら、暗がりを歩く行為を必要とするなら尚更だ。今は私の領分ではないけれども、あの手元ではなく舞台を睨みながら、最大の沈黙の中で許された僅かな空気の揺らぎを頼りにフェードインするのは、手を掛けた時点で進むことしか出来ないから恐ろしい。

 鳴り出した人混みの中、祈るような気持ちで上手に立って、大仰なまでに息を吸った。何度も擦り合わせた舞台の幕開けは完璧で、弱々しく踏み出した右脚から光が当たるように世界が開けている。


 「先輩、ご卒業おめでとうございます」


 少し速いフェードインで私は快活に笑って見せた。後輩はそういうあどけなさを象徴する。無邪気で無知で、これからの色に染まるような白色をしていると、定義される。

 あなたは私の声で振り返る。わざとらしく、そう思う心があることを否めないのは、そう思いこんでいたいからなのか。

 年は一つ二つしか変わらないと設定されているはずなのに、どうしてこうも隔絶されたような人間の違いがあるのだろう。仕方ない、先輩はそのように定義されている。卒業するのなら尚のことだと納得させた心のうち、はたしてどれほどが本音と言えるだろうか。嘘をつきすぎた目で対峙するあなたは眩しい。微笑みに溢れた息の音さえ恐ろしくてならない。咄嗟に視線を足元へと寄せた。


 「ああ、えっと……その……」


 いじらしく言葉を詰まらせてみる。憧れの前に立ちすくむ様子を見せてもあなたは優しく、同等に冷たく、私の言葉を待っているのだろう。うすらに微笑みを浮かべたような顔が見てもいないのに眼前に浮かぶ。それは純粋に恥であった。罰にも等しかった。

 異なる背丈、異なる顔、似たような制服、相反する位置、私とあなたは違う。最後まで思い知らされること。私の笑顔はやがて曖昧になる。

 すかさず、スイッチの入る音で舞台に半分の影が降りる。実のところそれはスポットが上がる音で、そこに私がただ一人浮き彫りになる。緊張を含んだ円の中で、世界を置いて浮き足立つ私は話し出す。


 「先輩はどこに行くんですか」

 これではダメだ。

 「忘れないでいてくれますか」

 そんなこと望んでない。

 「先輩のこと、大好きでした」

 半分嘘。

 「先輩のこと、大嫌いです」

 半分本当。

 「せんぱい、っ」


 もう言葉は出なかった。

 中途半端に手を伸ばし口を開けて呆けたまま、舌の根はとっくに乾いている。どれだけ探しても居場所は常に孤独に、この円の外にはない。気づけばずっと、この狭いスポットの中で私は一人問答を繰り返しているだけだった。

 それもそのはず、ただそこに在るだけで私たちは交わらない捻れの点だった。言葉はおろか視線さえ噛み合わないはずのそれを無理矢理繋いだ約一年は、燃える爪痕のように痛い。目指したいものも標も分からないまま走って、無様に転んで見上げた先があなただった。そこに表情なんか無い。顔なんてない。ただただあなただったのだ。

 故に私は口を閉ざしてそれきりになるしかなかった。

 小首を傾げて愛嬌を振る舞っても、同情を引くように上目を遣っても、凡庸な言葉で気持ちを象ろうとしても、それはどれも本当にはなり得ない。本当になり得ないことを本当にしてはいけない。結局私に与えられた台詞はないのだ。私は主役だけど、主人公じゃない。物語の進行の為、与えられた感情を語る為に在るだけで、これは決して私の物語ではないのだろう。悔しさも傲りからくる怒りも感じていて、しかし変えようとする意志は舞台を見渡せどどこにも落ちてなどいなかった。


 照明はとっくに平生に戻っている。平穏な灯体が舞台を照らして、あなたの周りには他の制服が在った。俯くと穴のように深い影が睫毛を透く光線の先に見える。一歩でも違えれば二度と這い上がれない深淵に、ゆっくりと体が沈む心地がした。じっと瞬きをする。羨みはあれど、それで仕方ないのだ。語るための口を持たず触れるための手を持たず、哀れに跪く蟷螂の脚があるだけならば却って近くことは痛みであると、私は学んだと騙れるほどには繰り返している。まるで遠巻きに、跳ねる蝶のような少女たちを見ていた。同じ時を過ごしたはずなのに、よくもまあ語る思い出があるものだと感心さえしていた。


 「先輩!」

 「先輩!」

 「先輩!」


 愛らしい感情、屈託なく話しかける声になにか一つでも、優越を誇れることがあったならと考えてしまうこと。そういう内面に注がれる苛立ちを、きっとあんたもよく知ってる。これは推測でしかないけど、私たちはよく似てる。少なくとも他の同輩より。色とか在り方みたいな、人が曖昧に指定する魂の所在。私たちは同類に違いない。

 ただそれは相対的に似ているだけで、実線としての距離が決して近くないこと。私たちは所詮ねじれの場所にいる。あなたに降り注ぐ歓声を見るたびに、それを思う。私では到底届かないところにいるあなたの場所が私であったならとその努力も生き方も全て踏み躙って耽る妄想は、残虐に楽しかった。虚のなかに甘水が飲み込まれて沁みていくようなえも言われぬ欲求が満たされる心地がした。


 ……実際のところはあなたのことなんて何一つ知りはしない、全て憶測であり願望であった。隣にすら立てないくせに同じであればいいなんて浅ましく笑ったことを、観客のどれほどが気付くだろう。

 貌のない蝶々たちは思い思いに手を振って舞台から捌けていく。それからあなたは真っ直ぐに私を見た。台詞のないシーンは現実に引き戻されるような、調和を乱して垂れる黒点のような、いやらしい沈黙がある。何も不明瞭な海底の澱を掻き分けて進んでいくのは恐怖であるし滑稽でもある。ただ声を掛けるだけで終わった言葉の続きをあなたはいつまでも待っているのだと思うと、今すぐある筈もない舞台の外へ逃げ出したくなった。駆け降りるように、上手から捌ける。でもその姿は墜落という方が似合いだった。


 暗転、それから時が止まる。遠慮のないカットアウトで切られた曲の断面から奥の方へと余韻が揺らいで、舞台を何者もない地平へと還した。

 再びスポットは私に降り注ぐ。世界全てを置いて、やはり自分一人だけが在った。悲しいかな、ドセンに立てるのは孤独に満ちたこの時だけなのだ。

 灯体の焼けつく熱線の音は静寂と同義だ、無音は何もかもを越えて舞台を支配する。私たちは無音の中に圧倒されるなにがしかを聞くのだ。良く磨かれた切先はだからこそ、静かの中で佇む。だから両の手で祈りを重ねるように強く柄を握り、それを標にしてあなたをこの目で見つめた。

 視線は遠い水平へ行く。目を焼く光のなかで、それでも笑っていた。高鳴る拍動に私は己の死さえも予感し、その高揚で頭がいっぱいになってそのどうしようもない被虐と嗜虐の連続に目を回して、なおも笑っていた。まるで花々しく舞台を飾る演者のように私は声を張り上げた。狂乱だけが私を支えていた。


 「あなたの前に言葉は意味をなさない。だから私はこうやって、この場所に立っているのです。認められなくて良い独白に私は意義を与えたかった、与えてあげたかった。あわよくば、あなたがどこか遠くへ行くのだから一つくらい石を投げても構わないと思ったのです」


 投げ捨てた思い出たちは全て制服の中に隠されている。その言葉はたった一人に向けられていてなお、外界までの壁を破るものではない。あなたの顔を知っているのは私だけなのだから。それに蛹の中がどれほどの汚濁であろうと、生まれ出るものは美しくなければならない。だからこそ芸術は生きることを許されているのだから。

 深く息を吸った、その声は震えていた。私の所在を見失いながら、落ちゆく感覚に叫びは止められなかった。


 「どんな暴虐も、哀れみも、愛おしさも、尊敬も、同一願望も、それは全て私のものでありあなたのものではないのです。あなたに同情してもらいたいわけでも、ましてや傷付いたり喜んだりして欲しいわけではないのです! 願わくば忘れ去り、過去をやり直して何もかもを無かったことにしてほしいだけなのです! だって、だってそうでしょう! あなたは私では無かった、私はあなたになり得なかった。それだけがここにあった全てで、他には何も残らなかった」


 舞台にあるまじき仕草で、祈る。その姿はそれ以外に形容し難い嗚咽に満ちていて、誰かの息を呑む音が鮮明に浮き上がる。顔を伏せたまま言葉は続けられた。擦り切れかけた糸にも似て、暗澹に吊るされたその先に縋る人さえいない声は果たして最善の観客にさえ届いたかどうか怪しい。初めから届く必要性のない言葉でも、舞台の上で発された以上届かなければならないけれども、糸は剥がれた爪であるように絶え絶えに揺らいでいた。

「誰のものでもないはずの地獄に形を与え居場所を与え、あなたは自分のものにしてみせた。それが恐ろしくてたまらなかった。けれどそれこそがあなたの輝きであるということを私は知っている。……なんて形容するのは、おこがましいですかね」

 一瞬の余白。息を吸う僅かな間隔にも似て、天を仰いだ喉は引き攣った。ただ私だけの舞台に悲鳴は木霊する。その悲しみだけが生きることの全てと思うと人生なんてものがひどく歪んでいて、私は生まれてきたことの全てを憎まずにはいられなかった。


 「尊敬していました。あなたの世界に酔い痴れ、なお今も私は縋ることをやめられない。あなたは正しく天才だった。それだけで全てが許されるあなたを、私はひどく敬愛し、嫉み恨み憎んで、……あこがれていました」


 ああ、それが全てだった。捻れの位置を愛すくらいなら出会わない方がずっとずっとマシだったに違いない。やり直せない過去に怒りで震える拳を握った。邂逅を呪い、その先のあなたも呪い、ここから一歩も動けずにいる私自身の愚かさに地べたを這いつくばり続けるしかないのだ。

 世界は変えられると言う。人は、そのように言う。恐らくそうなのだろう。研鑽を積み上げ、諦めることなく星を目指して手を伸ばしていれば、やがて何かが手の内に、踏み締めた足元に道が出来ることを、誰もが心の底では信じている。けれども、そこまで強くあるには私たちは脆いのだ。そしてその脆さを、どうか許して欲しい。


 「あなたを許したくない、簡単に許せてしまうから。あなたを認めたくない、私よりずっとずっと正しいから」


 刃があなたに届かないのは、むしろ嬉しいことでさえあった。血を流し恨み、誰に理解されなくともあなたを思う私の心はたった一人が手にしていればそれで良い。私たちにもうこれからはない。


 「せめて変わらずあり続けてください、どうかどうか、その手の擦り傷に気づかないで」


 絞られていく光。泣けもしない役者の演技なんて二度と日の目を見る必要なんてない。あれが星ならば、確かに遠ざかってこの手は届かないだろう。

 舞台はやがて蛹を終える。フェードインする照明の音、徐々に靡く雑踏は、人の目に映る世界を切り替えていくはずだ。先程の衝撃が如何程であれど、舞台は一つの終末に向かうものであり、誰かを慮って歩みを止めることはない。


 世界明暗の区切りが消えたその時、私の顔は喜びに変わる。初めからそうであったと証明するように、暗転の中で立ち上がって埃を払い、舞台の上ではあなたと私が在る。入り混じる愛憎と似た心象と現実はきっと観客を混乱させる。だけど例え不親切であったとしても私たちみたいな生き物は自分を優先させてしまうのだ。どれだけ間違っていると知っても、後悔することを分かっていても、それでも尚与えられた閃きの歓喜に逆らえない。まるで上手から吹き上げるような風が吹いた気がした。聞こえてくるのは最後の予鈴。あなたの手には卒業証書。あなたは相変わらず下手にいて、大人っぽく微笑んでいる。最後のシーンまで来てしまえばもう誰も抗えない大きな渦の中で、皆人が歩みを揃えて舞台を閉じるしか無いのだ。

 私が俯いていた顔をあげて、ようやっとあなたに向き直る。一幕とは別人のような姿を成長とは呼んで欲しくない。セーラー服の内側に慨嘆の全てを隠し、あなたにもわたしにも無関心であろうとしている心をわざわざ掘り返しては欲しくないのだ。


 「先輩、お体には気をつけてくださいね」


 嘘をついていることを見透かされているような居心地の悪さに、やはり私たちは捻れの位置にあるのだた知る。よくもまあ、いけしゃあしゃあと笑えるものだと思いながら、けれどもその半分は本当のことなのだ。その半分がずっと悲しかった。

 私が別れを告げると、あなたは安心したように目を細めた。それは多分、発言権が自分へと移ったことを確認した表情だ。



 「ありがとう、██も元気でね。きっと美しいものを作ってね」



 息が詰まる。

 あなたは本当にそう言ったのだろうか。果たして本当に、私の名前を呼んだだろうか。照明の見せる浮かれた熱さの中で言葉は何回も溶解して、その度に掬い上げるのだけど、どこからどこまで希望的観測に基づいた物なのか分からなくなってしまった。驚きに言葉を失ってもさよならにあなたは振り向かない。下手から姿が見えなくなっていく。風は一等強く吹いた。もう、同じ道は二度とない。舞台もない。けれど瞬間的に世界を越えたことを現実と呼ぶのかそうでないのか、私は分からなくなる。境界線が引かれるのはいつだってここで、ここ以外にあり得ない。呆然として舞台さえ忘れ立ち尽くしていると最後の曲が流れて、ああこんな綺麗な終わりはあんまりだと私は鼻で笑った。そんなにも、あなたを思う私の気持ちが一度でも穏やかだったことがあるだろうか。


 手を伸ばすことのない横顔で舞台は落日に沈むように暗転していく。暗転の中で爆音が流れるのはやはりどうにも珍妙だ。糸が切れたように絶えた光を横顔で感じて、私は一度だけ上を向いた。そしてほんの数秒目を瞑る。強く。転換を追ってカーテンコールがやってくれば、拍手喝采に迎えられて白々しくも世界は終わる。これで本当に今日の日はおしまいなのだ。安堵のような、残虐な無関心と達成感に私は自然と笑みを溢した。自己満足でかき回した舞台が直線に回帰していく最中、私の頭を占めるのはやはりあなたの手の擦り傷だった。例え照明が消えて舞台が無くなっても、いつかは紛れてくれるはずのあなたの擦り傷は消えやしない。その目に止まった傷が私だと気づいたら、それだけが不安だった。降り止むことのない桜の中で、顔さえ見えないあなたがそれに気づかないことだけを祈り、私はただ、祝福されるべきエンディングの中でなお舞台の外側のように続く際限ない地獄の季節の、その終わりを願っている。

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