マリアナ海溝ソロデビュー
いすみ 静江
夫婦デュオを解散いたします
「デュオ・
四月の今日、デュオ結成三周年記念コンサートが終わった。
アンコールが鳴り響く中、私は、夫に囁く。
天才ギタリストとも呼ばれる
「唐突だな。何か俺のギターに不満でも?
舞台の袖で、アンコール用の衣装に着替える。
二人とも真っ白なスーツになる。
雪の結晶をイメージした刺繍がほどこしてあり、とても綺麗だ。
でも……。
おしどり夫婦と呼ばれて来たけれども、雪の結晶が割れるように別れてしまいたい。
「雪弥くんのギターは、文句のない優しいつま弾きだわ」
音楽性の問題ではないのだ。
「じゃあ、自分のバイオリンと歌唱に自信がないから解散とか」
私の担当パートは、雪弥からしたら、甘いとよく指摘されて来たっけ。
「それも違うの。特にバイオリンのビブラートがトレモロかと笑われたのはショックだったけれどもね」
バイオリンを顎できっちり支えていないから、ビブラートにも余裕が持てないのかも知れない。
「はっきりしろよ。音楽性の不一致か? それとも、夫婦であることが難しいとか?」
バイオリンの調弦を改めて確かめる。
これが、最後になるかも知れないし。
「今夜でツアーが終わるわ。さよならコンサートとし、終わりとするの」
「お、俺は初雪のことを忌み嫌って、バイオリンの腕についてあれこれ話したのではないからな」
ラストソングになる。
そう決意して、ごくりと天然水を飲んだ。
いい歌を任せて貰いたい。
「私達、夫婦では仲良くやって行けると思うわ」
「離婚の件は……。俺達、まだ大丈夫だよな」
手にしていたピックが割れてしまった。
スタッフにアイコンタクトを送ると、真新しい白いピックを持って来た。
雪弥の手は、身の丈があるせいか、一回り大きい。
それに馴染むように、何度か握り直す。
「もう四年も一緒にいるのよ。デビューまで学生時代から考えたら、三年も掛かっているわ」
「やはり、俺と音楽性が合わないんだろう。初雪は、何で背筋を伸ばさないんだ。どうして、後ろ暗そうにしているんだ」
さっきから、雪弥の訴える瞳を真正面から見られない。
とうとう、背を向けてしまった。
「それは、私の身勝手だから。ファンの皆様の前で、重大発表をしてもいいかしら」
「ああ、大方の予想がついたよ」
拍手と共に、アンコールの声まで上がって来た。
もう、刻一刻とデュオ解散が迫って来る。
「分かった、初雪が俺を嫌っていないのなら。いいよ、舞台は生き物だ。好きにしたらいい」
ああ!
夫婦の間に見えないマリアナ海溝がある……。
「雪弥……。今後はどうするの」
彼の袖を掴む。
ならば、解散しなければいいのに。
私は、とんでもないことをしてしまったのか。
「俺の行方は――。このアンコールが終わってから、考えよう」
◇◇◇
会場が沸いた。
拍手が鳴り止まない。
舞台中央に雪弥と私が立った。
三階席までよく見渡せる。
「雪弥――! きゃー!」
黄色い声って、花粉みたいだと鼻で笑っちゃいたい。
けれども、ちょっと見た目がよくて小綺麗にしているだけで、私達の雪月花が支えられて来たのには、間違いない。
でも、これこそが、嫌いになる理由なのだ。
雪弥は、私のたった一人の夫だと言うのに、お尻も青い小娘達に出待ちとかをされたくない。
とにかく、呼び捨ては禁止だ。
「
私は、初雪という名前なのだが、博多から東京へデビューしに来たとはいえ、もう少し洗練された呼び名にして欲しかった。
ゆっきーとかもいいな。
まあ、少々のことだから、我慢しよう。
ファンがいなければ、収入が借金にだってなりかねない。
「ファンの皆様にご報告があります。私達が急に決めたことで驚かれることでしょう。このコンサートを雪月花のさよならコンサートにいたしたいと思います」
先程の歓声が、どよめきに変わった。
そのざわつく中、私の決意を明かす。
「私が、ソロデビューいたします!」
ぴたりと静まり返ってしまった。
もしかして、雪弥が残らなかったからかと客席の様子をうかがう。
「雪弥、やめちゃやだ!」
「何で初だけ残るの?」
半分罵声になって来たな。
ここは仕切らなければ。
そのとき、雪弥が私の前に腕を伸ばす。
「山野初雪は、ソロとなるに当たって、デビュー曲を書いてあったそうだ。俺もさっき知った所。俺はギターで応援はするが、もうデュオではない」
彼は、音楽で示せと囁いて来た。
私首を縦に振る。
そうだ、音楽は観衆の中でも生きるもの。
別れのコンサートだが、もうソロデビューが決まっている。
がんばらないと。
「では、お聴きください。『
チャチャッチャチャチャ。
新雪の音がする。
淡いまどろみの中で。
出窓を飾るポインセチア。
ホワイトクリスマスになれと揺れる。
貴方の信じるシルバーホワイト。
妄想でしかない。
街はライトアップされ過ぎている。
本当の雪の色にはスノーブーツ色。
完全な白なんてない。
桃源郷がないのと同じ。
チャチャチャ……。
「初見でコード引かせて、結構、メジャーマイナーの使い方できているじゃないか。俺の出番なしかよ」
「ありがとうー! 皆さん、ソロデビューしますが、よろしくお願いいたします」
深く礼をした。
「雪弥、一緒に帰ろう」
「毎日、
ホールから自宅までは、マイカーのゆっくり運転にした。
今までは、慌ただし過ぎたのだろう。
もっと、心に余裕を持ちたい。
バイオリンだって、その持ちようによっては、上手くなれる。
狭いながらも我が家はいい。
何となく夫の香りがして、好きな所だ。
「昼間に買った草団子があるから、お茶にしましょう」
「おう」
私は、いつも通り、お団子の準備をしている。
いつもは家事をしない雪弥が一人でお湯を沸かした。
「家事のソロデビューですかね」
「何だよそれ。結婚前は、一人で家事もしたよ」
今日は、ソロデビュー宣言記念日。
特等のお茶を支度した。
「お腹空いたね」
「夜に食べると太るぞ」
私は、雪弥をポカポカと叩く。
「目標まで、後二キロだもの」
「初のソロコンサートは、俺も客席に呼べよな」
ぱっと顔を輝かせてしまった。
彼に受け入れられた。
けれども、心配ごとも表出してしまう。
「うーん。雪弥がいると、誰も私を見ないよ」
「初っちゃんファンも居るから」
「そう?」
草団子を串から外して、お箸でいただく。
あんこはたっぷり目。
頬にとろっとしたふるさとの味がする。
「はい、あんこのお裾分けよ」
「おお、いただき」
彼の甘党は、周知のことだ。
「これで、雪弥が太ったら笑っちゃうよ」
「俺、骸骨にもなれるから」
もう反射的だった。
「駄目! ちゃんと稼ぐから。今までの倍は稼ぐからね」
倍も稼ぐとは、失言だったかと反省しきりだ。
「レコード会社とはもう話を詰めてあるんだろう?」
「うん……」
舞台では、あんなにソロデビューしたいとがんばったのに、少し冷静になってみると、露わになったこともある。
仕事とプライベートまで一緒の生活が難しくなった。
私の音楽性に否定的な意見の多い夫に疲れて来た。
どちらもマイナス方向で、ソロデビューを決めたのだ。
私でしか書けない楽曲があるとかではなく。
「新曲は、あれよりももっといい曲を書いてくれよな」
「デュオ解散って言った私が悪かったわ」
今、謝罪して引き返そう。
「謝った所で、もう引き返せない所へ来た」
「じゃ、じゃあさ、雪月花はいつか再結成できる?」
それなら、ソロのときに腕を磨くとの考え方もできる。
再結成して、よりよいデュオになれる。
「それは、悪いけれども初雪次第だよ」
「雪弥も努力してよ」
何で私ばかりが努力をする話になったのか。
「俺は、再就職口を探すんだ。働きながらでは厳しいよ。先ずはどこまでがんばれるかやってみたらいい」
「もう、再結成はないんだ……」
相当のショックを受けた。
私がそうしたいと言ったが為に。
もう、戻れない。
これが、現実なのか。
「あんこ、上げてしまったら、もう私の分は少ないままね」
「それなら、今度、俺が買いに行ってやるよ。安心しな」
やり直せるものともう戻せないものがあるのか。
私は、しくじった。
◇◇◇
それから、デビューアルバム、『雪月花―
「売れ行き好調よ。多分、今までの中で一番だわ」
「まあ、これから、ソロでシングルをがんばって。アルバムからカットするなよ」
分かりましたと頷いて、新曲作りを難航しつつもがんばっていた。
思えば、準備の足りない別れだった。
――十月。
「リスナーの皆様、こんばんは。初雪ことゆっきーです」
「今日は、私の新曲ができましたので、皆様に初めてお聴き願いたいと思います。では、『僕はうさぎの涙を知らない』です」
ラジオに乗せて、私色の歌が流れる。
これが、ソロデビューしたということか。
隣には、悲喜こもごも一緒に過ごした彼が居ない。
寂しい。
この歌詞には、私達の気持ちを綴った。
「この歌詞は、ある方への想いを描きました。届くといいな」
それから、ジャンジャン電話が掛かって来る。
誰への歌なのか。
ゆっきーは雪弥さんと別れて再婚するのかとか言ったゴシップネタだ。
「身は潔白です」
それだけ言い残して、余計な連中を巻いて帰宅した。
「おかえりなさい。今日は本当のソロデビュー、お疲れ様」
雪弥が、オムライスを拵えてくれた。
爆発しているのは、味の内。
家事も上手になりました。
彼は、専業主夫になっています。
それから、私のマネージャーも引き受けてくれた。
「あなた……」
雪弥に抱きついた。
「家事で大切な指が荒れてしまってごめんなさい」
「おいおい。ご飯が冷めるぞ」
前よりも優しくなった彼に感謝です。
あんこのような甘い関係だ。
――マリアナ海溝はもう大丈夫です。
Fin.
マリアナ海溝ソロデビュー いすみ 静江 @uhi_cna
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