尊きもの
八川克也
尊きもの
僕は『尊きもの』だ。そう、じいが言っている。
そのじいは、僕の部屋に食事のワゴンを押して入ってきた。
「お食事でございます」
その時間を知っている僕はすでにテーブルについている。いくつかのプレートや飲み物がテーブルの上に広げられる。
「今日の料理は——」
説明が始まる。取り立てて珍しいものはない。僕はナイフとフォークを手に取り、食事を始める。
少し離れたところにじいが控える。白を基調とした静かな部屋に、カトラリーの音だけが響く。
「じい、外へ出たい」
「それはなりませぬ」
いつもの問いに、いつもの答えが返ってくる。
「その御身を危険にさらすわけにはいきませぬ」
「分かった」
分からない。分からないが、それ以上僕は聞かない。明確な答えが返ってくることがないことを知っているからだ。
「我が国が国たるのは、すべて御身のためにございます」
僕の存在がこの国を国として成り立たせている、というのだ。
古くから続く血筋。残されたただ一人の純血。国を表すただ一人の人間として、僕がいるのだ。つまりは象徴だ。
しかし国の象徴と言いつつ、僕は国民の前に出ることさえ許されなかった。あらゆる危険を排除するため、僕はただ、窓さえないこの建物に閉じ込められ、日々を無為に過ごしていく。
僕は庭園ホールに行く。芝生が敷かれ、奥の方は木立や茂みが配置されている。一角は花壇になっており、季節に合わせて様々な花が咲く。
読書や就寝以外、僕は多くの時間をここで過ごしていた。
「ミーコ、おいで」
庭園の奥に向かって声をかけると、木の陰から一匹のイエネコがひょこっと姿を現す。たたた、とこちらへ走ってきて、足にまとわりつく。
「よしよし」
僕はミーコを抱え上げる。
「お前もこの建物に一匹だからなあ」
ミーコは、いつの間にかこの建物に住み着いていた。このイエネコについてはじいも知らなかったようで、僕が初めてミーコの話をすると、慌てて捜索がなされ、僕の前に連れてこられた。僕はそのときにミーコと名付け、この庭園ホールで飼うことになったのだ。
僕は物心ついた時から、この建物に一人だった。父や母は知らない。じいからあらゆる世話を受け、大きくなった。
教師もじいだ。部屋の端末とじいで、僕は世界や国を学んだ。とはいえ、いまやその習ったことが本当かどうか自信がない。何しろずうっと建物の中なのだ。だが確かめるすべもないし、僕はあきらめによってそれを現実と信じている。
ミーコは僕の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らす。本当にかわいい。軟禁されている、という現実も、同じような立場にあるミーコと過ごすことで少しはやわらげられている。
「戦争が始まります」
ある時、じいが告げた。
部屋の端末から得ることができる、制限された少ないデータから、僕はその言葉を予想していた。隣国とはかねてから一部の小さな領土をめぐって争いがあり、それがとうとう一線を越えたのだ。
「僕にできることは」
「ありませぬ」
じいは恭しく頭を下げ、部屋を出て行った。
国の象徴ではあっても、トップではない。自らの無力さを再確認したに過ぎなかった。
「何もできないという意味では、ミーコと同じか」
僕は立ち上がって、いつものように庭園ホールに向かった。
部屋の端末からアクセスできるデータは以前よりひどく制限された。もはや娯楽にはならなくなった端末をあきらめ、僕はほとんどの時間、ミーコを撫でて過ごすようになった。
ズウウン、と体全体に響く低い振動を感じると、庭園ホールの電気が消えた。
ミーコが身体を固くするのがわかり、僕は優しく体を撫でてやる。
「大丈夫」
たぶん、大丈夫じゃないんだろう。もともと国の規模が違う。
食事も少しずつ粗末になっていた。アクセスできるデータはほぼ辞書類のみにまで減った。察するのには十分だった。
この建物も攻撃されたのだ。僕は暗闇の中、その時が来るのをじっと待つ。
『尊きもの』——国の象徴として扱われた僕は、この戦争でどういう扱いがされるのか分からない。ただでは済まないだろう。覚悟だけ決めておかなくてはいけない。
やがて明かりが点く。ダッダッダッと廊下を走る音がして、庭園のドアが開く。僕はミーコを抱えて立ち上がった。
「いたぞ!」
銃を構えた兵士たちがなだれ込んできて、僕を包囲した。
隊長らしい一人の男が進み出る。
「猫を」
僕がミーコを渡すと、ミーコは意外にもその男に黙って抱かれた。
「よし、撤退だ」
男たちはくるりと回れ右をしてホールを出ていこうとする。
「待ってくれ!」
思わず僕は叫ぶ。
「僕は——どうしたらいい」
「知らん」
猫を抱えた隊長が言う。
「お前が『尊きもの』と呼ばれていたのは知っている。しかし他国が尊ぶその血筋など、我々にとって何の意味も持たない。そしてお前には権力もない。国家機関を完全に制圧した今、お前に用はない」
「猫を——ミーコをどうするつもりだ」
男はミーコを見てそれから僕を見て、少し口の端を上げた。
「知らないのか。猫がどれほど貴重なのか。我々が保護するべきはこの猫だ、世界でおそらく最後のイエネコ」
ミーコが男の腕の中でみゃ、と鳴いた。
「ああ、尊いのはお前ではなく、この猫だよ」
それだけ言うと、兵士たちはいなくなった。
踏み荒らされた芝生を前に、自らも、腕の中からも尊さを失った僕は、何をしていいのか全く分からなかった。
《了》
尊きもの 八川克也 @yatukawa
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