予感

伽奈

予感

 十歳のカオリは憂鬱な気分だった。


 五時間目の授業が始まったばかりの四年一組の教室で、カツコツと小気味よい音をさせながら板書する教師の背中を見つめる。振り向いた教師が朗らかに言った。


「テーマは、未来の自分へ、です。五年後でも十年後でも、二十年後でもいいです。未来の自分へ手紙を書いてみましょう」

「先生、これ未来に届くの?」

「そうです。封筒におうちの住所と、届けてほしい日を書いてね」


 「すげー」「何年後にしようかなぁ」などと教室がざわめいた後、クラスメートたちは一人また一人とおしゃべりをやめて書き始めた。作文が苦手なカオリが考えあぐねた末に鉛筆を走らせ始めたのは、教室からおしゃべりが完全に消え、未来へ向けて文字を書く音に包まれた頃である。


『 三十歳のカオリへ

元気にしていますか? 

十歳の私は、あまり元気じゃありません。

よくわからないけれど、毎日ゆううつです。


先生は五年後でも十年後でもいいと言っていたけれど、

私は二十年後にしました。


なぜかというと、

五年後はまだ中学生だし、

十年後でもまだ大学生です。

学校へ通っているなら、

まだ子どもだと思うからです。


二十年後なら三十歳で、大人です。


もう結婚して、子どもがいますか?

どんな仕事をしていますか?


私は、結婚して子どもがいる自分も、

仕事をしている自分も、あまり想像できません。


いまは、学校に行きたくないけれど、

お母さんに怒られるので毎日学校に行っています。

大人になったら大変なことがたくさんあるので、

子どもの時にちゃんと学校へ行かないと、

大人になってから苦労するのだそうです。

ちゃんとした大人になれないのだそうです。


三十歳の私は、ちゃんとした大人になれていますか?


十歳のカオリより 』




* * *



 三十歳になったばかりのカオリは、絶望的な気分だった。


 窓もカーテンも閉め切って、布団をかぶってうずくまっている。もう何日も涙がとまらない。はらはらと音もなく、その勢いは増すでもなく減じるでもなく、毎分何mlと決められた排出量をきっちり守るかのように一定だった。


 どうしてこうなってしまったのか。決定的な一撃をくらったわけではない。ただ、カオリを取り巻くすべての物事が、どれも少しずつうまくいかなくなって、思うように流れていかなくなった。心に溜まりすぎた澱の中で窒息しかかっていたところに、あの手紙が届いたのだ。


 手紙を書いたこと自体はおぼろげに記憶していたが、内容に関しては全くと言っていいほど覚えていなかった。時を超えて新鮮な気持ちで読んだそれは、まるで予言書のように思えた。


 手紙に書かれているすべての問いに対する答えはノーである。あの頃の自分は、もしかしたらこうなることを予感していたのではないか。だから子ども心にも、毎日あんなに憂鬱だったのではないか。そして、とめどなく流れ続ける現在のこの涙も、未来の悲劇を予感してのものなのではないか。もしもそうだとしたら、カオリはもう一歩たりとも人生を前に進めたくはなかった。泣きすぎて重くなった頭でそんなことを思いながら、便箋を元通り折りたたみ封筒に戻した。


 そういえば、と一緒に届いたもう一通の手紙に手を伸ばした。封筒の表にはカオリの名前が、どこか見覚えのある筆跡で記されている。住所は書かれていない。切手も貼られていなかった。直接郵便受けに入れられたもののようだ。裏返して送り主の名前を確認したカオリはぎょっとした。こちらにもカオリの名前が書かれているのだ。表と同じく名前のみで、住所はない。


 自分から自分へ宛てた手紙が二通。身に覚えがなく気味が悪かったが、そのまま捨ててしまうこともできない。カオリは封を開けて、おそるおそる手紙を読み始めた。いつの間にか涙は止まっていた。



* * *



 六十歳のカオリは、穏やかな気分だった。


 行きつけの喫茶店で、ブレンドコーヒーを飲んでいる。来月から入院することになる緩和ケア病棟での面談と、入院手続きを済ませた帰り道である。


 半月ほど前、余命半年であることを告げられた。末期のガンだそうだ。自覚症状がほとんどなかったため発見が遅れた。


 知らされたときは、もちろんショックだった。しかし、悲壮感を伴うものではなく、もっと純粋な驚きに近いものであった。日本の女性の平均寿命は九十歳に迫る勢いだ。いままで特段大きな病気をしてこなかったカオリにとって、還暦を迎えたばかりで人生に終止符を打たれるとは思ってもみなかったのだ。


 コーヒーのお替わりを注文し、脇に置いたバッグの中から一枚のクリアファイルを取り出した。中身は、真新しい便箋と封筒である。病棟で交わした会話を思い出す。





「あの……それは、つまり、遺書のようなものでしょうか」

 

 意味を図りかねたカオリは尋ねた。

 現在の病状について担当医との面談が済むと、別室へと案内され、事務の女性から入院後の具体的な生活について説明があった。そして最後に、これは希望者の方にのみ提供しているサービスなのですが、という前置きをしたうえで彼女から紹介されたのが、過去の自分への手紙のことだった。


「いえ。遺書ではなく、あくまでも手紙です。実際に過去のご自身のもとへ届けることができます」

 彼女はさらに続けた。

「最初にご説明したとおり、未来の具体的な出来事を伝えることはできません。未来を変えてしまう恐れがあるからです。余命を伝えることもできません。遺書ではなく、あくまでも普通の手紙という形で、過去のご自身に伝えたいことをお書きになってください」


「……もしも、未来の具体的な出来事を書いてしまったら?」


「手紙が未来へと転送される過程で、自動的にその部分のみが抹消されます。罰則などはございません。私どもが中身を確認することもありませんので、あまり気負わずに書いていただいて大丈夫ですよ」



 


 ペンを持っていないことに気がつき、お替わりのコーヒーを運んできてくれた店員に声をかけた。


「すみません。何か書くものを貸していただけますか」


 カオリがクリアファイルから取り出した便箋をテーブルの上へのせるのを見た店員は、店の奥へ行きしばらく戻ってこなかった。マスターと話をしているようだ。


 待つ間、カオリは考えた。いつの自分に、何を伝えたいか。今の自分の言葉を必要としている過去の自分を探した。


 店員が小走りで戻ってくる。「古くて書きづらいかもしれないですけど」と言いながら差し出したのは、年季が入った万年筆だった。


「素敵ね。ありがとう」


 カオリは書き始めた。三十歳の自分に届けたい言葉を。




『 三十歳のカオリへ


元気にしていますか、と聞きたいところだけれど、

今のあなたが元気でないことは知っています。

だから、こうやって手紙を書くことにしました。


私は、未来のあなたです。

信じられないかもしれないし、無理に信じる必要もないけれど、

どうか最後まで読んでもらえたら嬉しいです。


いまのあなたは現実に疲れ切っていて、

未来にも希望が持てなくなっているのじゃないかしら。


私から一つアドバイスをさせてもらうならば、

いま、未来のことを考えるのはよしなさい。


いまは、いまのことだけ考えなさい。


私がこれから書くことは、

もしかしたら全部は届かないかもしれない。

(いろいろと制約があってね)

でも、届くことを祈って、伝えます。


あなたは、ちゃんと幸せになれます。

なぜなら、私が幸せだから。


あなたのこの先の人生には、

素敵な人や、楽しい出来事との出会いがちゃんとあります。


なんだか占い師みたいなことしか言えなくてごめんなさい。


あなたはずっと憂鬱を引きずってきてしまったから、

未来もこのまま変わらないと思っているかもしれません。


でも、それは間違いです。


過去と現在が真っ黒だとしても、

未来が白になることはあります。

白にすることはできるの。


あなたの人生は、ハッピーエンドなのよ。

だから、未来のことまで考えて、勝手に絶望するのはやめなさい。


部屋の窓を開けて、栄養のあるものを食べて、

心と身体を立て直すの。


心身が整ったら、全力で生きなさい。

やるべきことと、やりたいことに向かって全力を出すの。


あなたはきっと、人生の本当の美しさを知ることになる。



そして、最後にもう一つ。

これが、この手紙で一番あなたに伝えたかったことです。


誕生日おめでとう。

あなたがこの世に生まれてきたことを、心から誇りに思います。


未来でお会いしましょう。



未来のカオリより 』






 ハッピーエンドだなんて人生の大いなるネタバレよね、と六十歳のカオリは苦笑した。


 抹消されてしまうかもしれない。でも、具体的な何かを示唆する言葉ではないようにも思えた。その可能性に賭けたのだ。


 三十歳という年齢は、いま思えば人生の折り返し地点であり、転換点でもあった。そこからカオリの人生は目まぐるしく変化したのだ。本当に楽しかった。もちろん大変なこともあったけれど、それ以上に楽しくて充実した日々だった。


 こんな手紙を書かなくても、当時の自分がちゃんと立ち直れることは知っている。だが、今後の人生の予告編として、ほんの少しでも伝えたかったのだ。誕生日に一人ぼっちで絶望している若い頃の自分に。ほんの少しの言葉が、大きな救いとなって心を照らすこともあるのだから。


(全部、届くといいわねぇ)


 冷めてしまった二杯目のコーヒーを飲みながら、カオリは目を閉じて遠い過去へと祈った。




* * *



 手紙を読み終えた三十歳のカオリは、再び泣いていた。しかし、今度は無音で流れ続ける機械的な涙ではなく、嗚咽にまみれた激しい涙である。獣のような呻き声が時折漏れる。


 今日はカオリの三十歳の誕生日だ。


 手紙に書かれたことを、信じているのか、信じていないのか、カオリ自身にもよくわかっていない。


 ただ、ハッピーエンドに向かって全力疾走する自分を、全身で予感していた。



(了)




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

予感 伽奈 @furukoto23

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ