通勤中 人身事故と アナウンス ダイヤの裏の 誰かの人生
空木 種
通勤中 人身事故と アナウンス ダイヤの裏の 誰かの人生
ゆり子は、居酒屋の前で、人を待っていた。時刻は午後六時をすこし過ぎたくらいで、街の人通りも、徐々に増えてきた。
『久しぶりに、会えませんか』
昨日の夜、ゆり子がベッドの上でスマホをいじっていると、一件のメッセージが届いた。画面上方に表示された送り主の名前に、ゆり子の目は吸い寄せられた。
ゆり子は仰向けに寝転がったまま、メッセージアプリをひらいた。『小林圭吾』の名前の右には、新着メッセージを表わす赤丸が表示されている。その下には小さな文字で、『久しぶりに、会えませんか』とあった。
ゆり子の指が、画面の上でピタリと止まった。
圭吾とは、中学二年生のときに初めて出会った。ゆり子も苗字が小林で、出席番号順に並ぶといつも席が前後だった。
「わたし、結婚しても苗字を変えたくないな」
夕日にきらめく川を眺めながら、ゆり子と圭吾は河川敷に腰をおろした。
「夫婦別姓ね」
圭吾は、ふわりと言った。圭吾の返答に、ゆり子は、膝を抱えて小さくなった。手に持っていた四つ葉のクローバーを回しながら、そっとささやく。
「そういう意味じゃなくてさ、圭吾くんと、結婚したい」
なんて、恥ずかしいことを。思い出しただけで、顔から火が出る。
ゆり子は思わず上体を起こし、熱くなっている顔を両手で抑えた。
「でも、なんでいまごろ」
少し落ちついてから、ゆり子は、膝の上に置いたスマホの画面に視線を落とした。
『久しぶりに、会えませんか』
その文面を、ゆり子はじっと見つめた。見つめてから、おそるおそる、圭吾とのトークルームを、ひらいた。
圭吾とのトークルームには、問題の一文以外には何もなかった。振られたあとに、ゆり子が消したのだったか。それとも機種変更やらで、データの狭間に消えていったか。なんせ十三年も前のことだ。覚えているはずがない。それどころか、お互いの連絡先がまだ残っていたことが、衝撃的だ。
これは何か、あるかもしれない。
ゆり子の中で、小さな期待が膨らんだ。
久しぶりのやり取りに、ゆり子は緊張しながら文章を打ちはじめた。『大丈夫だよ』と打ってみる。
これは少し、冷たいか。
ビックリマークを付け足して、『大丈夫だよ!!』と打ってみる。
これは、なんだかわたしが喜んでいるみたいだ。期待しているとは、思われたくない。
ゆり子は顎に手を当てて、しばらくうなって逡巡した。その挙句、『久しぶり。大丈夫だよー』と打って、送信した。
久しぶり、とつければ冷たい感じもないし、伸ばし棒であれば、喜んでいる感じもない。いたって普通に、特に何も感じていない様子を出せる。
それからしばらくして、返信があった。
ゆり子は、ベッドの上でうつらうつらしていた。ブー、というバイブレーションの振動で、我に返る。目をこすりながら、顔の横に置いてあったスマホをとった。
『よかった』『明後日の日曜とか空いてるかな?』『っていうか、いま東京にいる?』
通知画面に、立て続けに圭吾のメッセージが表示された。ゆり子は、少し間をおいて、メッセージアプリをひらく。
『空いてるよ』『いるよー。圭吾くんは?』
ゆり子が送ると、すぐに既読が付いた。
『おお、じゃあ夜の六時にここでメシ食おうよ』
メッセージとともに、地図のURLが送られてきた。それをタップして開いてみると、小さな居酒屋の情報が出てきた。駅から近い、手頃そうな居酒屋だ。
『おっけー』
地図をとじると、ゆり子はそう返信した。すぐに、彼からグッドマークのスタンプが送られてくる。
ゆり子は、アプリを閉じ、スマホをお腹のあたりにかかえて、天井を眺めた。
これは、本当に、何か、あるかもしれない。
ゆり子は急に明後日が、楽しみになった。胸のあたりがどきどきして、胃のあたりがなんだか忙しない。一度振られた人に、求められるというのは、存外うれしいものだ。
「すごい昔のことで、信じられないかもしれないけど、やっぱり、忘れられなくて」
視線をそらしながら、言う彼の姿が、頭に浮かんだ。
期待しすぎ。
ゆり子の中で、誰かが言った。
でも、他にわたしを呼ぶ理由は?
ゆり子の中で、もう一人の誰かが言う。ゆり子は後者に、軍配をあげた。
次の日、ゆり子は行きつけの美容院で髪を整え、デパートに新しい下着を買いに行った。
ゆり子から思いを告げたのは、圭吾が最初で最後だった。
図工の授業をきっかけに意気投合した二人は、いろいろなところに遊びに行った。デパートにファミレス、遊園地に動物園。親にもらった少ないお小遣いを、ほとんどデートにつぎ込んだ。そしてその毎回毎回で、二人は接近し、様子を見合った。それがどれだけかわいい「かけひき」だったことか。歩きながら手をぶつけてみたり、同じクラスに好きな人がいるとほのめかしてみたり。今となってはいい笑い話だ。でも、中学生のデートには、大人になってからのベッドイン以上の意味があった。これ以上の人はいない。ゆり子は、本気でそう思っていた。圭吾こそが、少女ゆり子の、運命の人だった。
二年生が終わり、新三年生となる三月下旬のこと。ゆり子は、勝利を確信していた。
「そういう意味じゃなくてさ、圭吾くんと、結婚したい」
ゆり子が言うと、圭吾は、「え」と短く言って、言葉を詰まらせた。ゆり子は、手に持っているクローバーを見つめながら、圭吾の言葉を待った。
俺もだよ。
圭吾の声が、聞こえてきたような気がした。
「ごめん」
しかし、現実に聞こえてきた声は、予想だにしない言葉だった。手に持っていたクローバーが、雑草の上に落ちた。
「え」
「ごめん。付き合えない」
「なんで」
ゆり子は、取り乱した。圭吾の腕をぐっとつかむ。
「受験が」
圭吾の口から発せられた言葉に、ゆり子は唖然とした。非の打ち所がない、忌々しい言い訳だ。
「おれ、中学受験落ちてるんだ。それで、どうしてもリベンジしたくてさ」
ゆり子は、唇をかみしめた。散々期待させておいて、そんな逃げ方するなんて。
「もういい」
ゆり子はそう吐き捨てると、立ち上がって、その場から駆け出した。涙が、あふれ出してきた。通行人に見られないように、袖で涙をぬぐいながら、走り続けた。
「きゃ」
小石に、つまずいた。ズサァと音を立てながら、ゆり子は道に倒れこんだ。膝がじんじん痛む。とっさについた手も、擦りむいた。みじめで、涙がさらにあふれてきた。
「大丈夫?」
後ろから、圭吾の声がした。振り向くと、圭吾はゆり子に手を差し伸べていた。
「ごめん。でも、受験が終わったら――」
「もういいってば!」
ゆり子は、圭吾の手をパシンと払って立ち上がり、再び走り出した。
それ以来、圭吾とは一切口を利かなかった。
中学生とは、ゲンキンなものだ。クラスが違えば、仲のいい人も変わってしまう。
クラス替えをして、ゆり子と圭吾は別々のクラスになった。ゆり子は新しいクラスに圭吾がいないことを知ったとき、内心ほっとしていた。あんな別れ方をして、顔なんて合わせられるもんか。まあ、付き合ってもなかったのだけれど。
ゆり子はやがて、新しいクラスで気の合う男子を見つけた。その男子とは、調理実習の班が同じだった。男子の方もゆり子を気に入ってくれたみたいで、二人はよく「お似合い」とはやされた。それで、とうとうゆり子は告白された。まだ新学期はじまって間もない、六月くらいのことだった。もちろん返事はイエスで、ゆり子はその男子と付き合うことになったのだ。
ゆり子はその男の子と、卒業まで付き合っていた。二人とも中堅の公立高校に無事に合格して、遠距離恋愛を覚悟していた。通う学校が異なるというのは、国境をまたぐようなものだった。
一方、圭吾も、第一志望の高校に受かっていた。全国でも三本の指に入るほどの名門校で、校内ではちょっとしたニュースになった。
卒業式のあと、ゆり子は、話したことのない男子から、ふいに声をかけられた。
「あの、小林さん」
「え」
知らない顔に、ゆり子は目を丸くした。遠慮がちに、男子は続ける。
「あの、圭吾が呼んでるんだけど」
圭吾の名前に、ゆり子は、一緒に写真を撮っていた彼氏と、顔を見合わせた。
「あ」
しばらくすると、その男子ははっと口を開けて、何かを察したような表情をした。
ゆり子はすかさず、若干の笑みを浮かべながらうなずいた。
「やっぱり、なんでもない」
男子はそう言って、校舎の裏のほうに消えていった。
そのころには、ゆり子は圭吾との恋愛を、達観できるようになっていた。受験が忙しいのは、仕方ない。けれど、そういうことばかり優先していると、大切なものを見失う。もしくは、取り逃がす。ゆり子は圭吾に、人生の教訓を、身をもって教えたような気分になっていた。
日曜日。ゆり子は指定された居酒屋の前で、圭吾を待った。サラリーマンや学生が、だんだんと道に増えてきた。スマホの時計を見ると、時刻は午後六時を少し過ぎていた。
『もしかして、今、店の前にいる?』
圭吾から、メッセージが届いた。ゆり子は、顔を上げ、あたりを見まわした。すると、一人のサラリーマンが、こちらを向いて立っていた。ぴたりと目が合うと、向こうは会釈をした。ゆり子も笑って、会釈を返す。
サラリーマンは、ゆり子に駆け寄った。
「ごめん、仕事が長引いて」
その声を聞いた途端、圭吾だと分かった。顔もよく見れば、昔の面影が残っている。
「ぜんぜん、だいじょうぶ」
ゆり子は、圭吾の顔を見上げながら、言葉を返した。圭吾は、かなり身長が伸びていた。
「じゃあ、入ろうか」
圭吾は言って、居酒屋の暖簾を押した。
酒を飲みながら、二人は絶え間なく会話を続けた。同級生の進路から、なつかしい先生方の今の姿。仕事の話に、健康のこと。二人は、ころころと、会話を転がした。
やがて、圭吾が言った。
「いま付き合ってる人とかいるの」
「いなーい」
いなーい。ゆり子は、そう伸ばした。何の抑揚もつけずに、ひたすら平板に。
「そっか。いないか」
「うん」
そうかそうか、今はいないのか。圭吾は口の中でつぶやきながら、刺身を醤油につけて、口に運んだ。
ゆり子は、内心、身構えた。はっきり言ってくれるなら、考えてあげてもいい。
「そういえば、西野って覚えてる?Ⅽ組の」
しかし、圭吾は話を戻した。ゆり子は、拍子抜けたが、表には出さずに、「覚えてるよ」と自然に会話を続けた。
「ちょっと、歩こうよ」
二時間ほど飲んで、店を出ると、圭吾は言った。
「別に、いいよ」
ゆり子は相変わらず平板に、返事をした。
二人は夜の街を、ぶらぶらと歩いた。圭吾の口から、酒の匂いが漂っていた。
「座ろうか」
住宅街の中にある公園の前で、圭吾は言った。ブランコと滑り台だけしかない、小さな公園。
「うん」
平板に、ゆり子はこたえる。
一本の街灯が、公園のベンチを照らし出していた。二人はそのベンチに、腰を下ろした。
そろそろ、くるか。
ゆり子は、再び、身構えた。
考えさせてください。来週までに、返事します。
返事の言葉を、ゆり子は頭の中で反芻した。彼氏は欲しいが、告白されてみないと、気持ちの動きはわからない。告白されたとたんに、急に拒絶反応がおこることだってある。多くの恋愛経験から、ゆり子が学んだことだった。
「おれさ、会社辞めたいんだ」
短い沈黙のあと、圭吾の口から発せられた言葉は、実に意外なものだった。
「え」
ゆり子は、聞き返す。圭吾は、超大企業に勤めている。さっき居酒屋で、教えてくれた。
「起業するとか?」
「いや」
「趣味に没頭するとか」
「いや」
圭吾は、首を横に振った。それから、大きくため息をついた。
「特に、やりたいこともない。ただ、やめたいんだ」
「そんな、もったいな――」
「もったいないってなんだよ」
突然、圭吾はゆり子の言葉を遮った。ゆり子は、驚きのあまり、固まった。圭吾の声には、怒気が色濃く滲み出ていたのだ。それから圭吾は、念仏を唱えるみたいにぶつぶつと言葉を続けた。
「もったいないってなんだよ。無責任に言いやがって。俺の人生だぞ」
「そんなつもりで――」
「うるさい」
圭吾は、再び声を荒げ、また念仏に戻った。
「みんなが、そういうから。はやし立てるから、がんばってきたんじゃないか。なのに、気が付いたら一人でさ。遊びも趣味も、捨ててやってきたのに。こんなに頑張って、これかよちくしょう。俺より馬鹿で、努力してないやつのほうが、よっぽど楽しそうじゃねえか。社会に騙された。みんなに騙された。もうやってられるか!」
圭吾は叫んで、こぶし振り上げ、ベンチを殴りつけた。
ゆり子は、青ざめた。恐怖で、身体が小刻みに震えている。
――逃げなきゃ。
ゆり子は、しずかに、腰を浮かせた。圭吾は、自分の足元を見つめながら、まだぶつぶつと何か言っている。完全に、ゆり子の動きには気が付いていない。
――いまだ。
ゆり子は、瞬時に、駆け出した。
「きゃ」
駆け出した途端、ヒールでバランスを崩した。持ちこたえようと、体幹にぐっと力を込めるが、間に合わない。ゆり子は、ズサァと音を立てて、盛大に転んだ。
「まって」
圭吾は立ち上がって、ゆり子に手を伸ばした。
反射的に、ゆり子はヒールを脱いで、圭吾の顔面に投げつけた。ひるんだすきに、ゆり子は、ストッキングのまま、駆けだした。足がすくんで、転びそうにもなったが、なんとか持ち直して走り続けた。
住宅街を抜け、駅前に出たところで、ゆり子はやっと足を緩めた。まだ十時前なので、人もたくさんいた。ゆり子は、駅前の電話ボックスに、寄りかかった。肩で息をして、手で胸をおさえる。
通行人の視線を、ゆり子は感じた。靴も履かずに、息切れしている女がいたら、誰もが不審に思うのは、無理ない。
息を整えてから、ふと顔を上げると、交番が見えた。一瞬、ゆり子はそちらに足を向けたが、すぐにやめた。
警察になんて言えばいいか、わからなかったのだ。圭吾は、何もしていない。ゆり子が一方的にヒールを投げつけ、逃げ出したのだ。もし、圭吾が怪我をしていたら、こちらが不利になるかもしれない。それよりなにより、もう圭吾の顔は見たくなかった。あのとき、圭吾から発せられた異様な雰囲気。思い出すだけで、身体の震えが戻ってきた。
ゆり子は、ストッキングのまま、電車に乗った。周りの目が、痛かった。
家に帰ると、ゆり子は、鍵に加えてチェーンもかけて、せっせとシャワーを浴びた。
バスタオル姿で、ゆり子はバッグの中のスマホを取り出した。圭吾からは、着信も、メッセージも届いていなかった。
もう、関わらないほうがいい。
ゆり子は、圭吾からのメッセージと着信をブロックして、履歴も削除した。それからアラームをセットして、そのままベッドに倒れこんだ。間もなく、ゆり子は意識を失った。
次の日の朝、ゆり子はいつも通りに家を出た。昨日のことはなかったことにして、今日から日常に戻ろうと決心したのだ。
最寄り駅に到着すると、心なしか、いつもより人が多い気がした。電光掲示板に目をやると、次の電車の出発時間が、三十分前のものでとまっていた。
遅延か。
ゆり子は、スマホを取り出し、リストの中から、職場の連絡先を探した。
『ただいま、一部ダイヤに遅延が生じております』
駅員によるアナウンスが、流れはじめた。
『……駅で発生しました人身事故により……』
――あった。
ゆり子は、連絡先を見つけると、スマホを耳に当て、通話をはじめた。
生暖かいそよ風が、呼出音を聞いているゆり子の身体をかすめていく。整えられたボブヘアーが、さらさらと揺れた。
「あ、お疲れ様です。小林です。実は、いま電車が……」
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