明晰夢は覚め方を知らない

Planet_Rana

★明晰夢は覚め方を知らない


 不動。情動は凍り付いて、最後に感情を発露した事例すら思い出すことができない。


「羊が68匹」


 ざしゅっ。


「羊が69匹」


 ざしゅっ。


「羊が――ああ、違う。これは蛇か。虫は92匹目」


 ざくっ。


 真黒な泥にまみれた生命体をプチプチと殺めながら進むのは、音すら死んでしまったような排水溝を行く一人の少年だ。目元にはパンダメイクさながらの隈があり(残念ながら自前だ)、手には刃こぼれした包丁が握られている。


 歩道と呼ばれる場所を歩いているとはいえ、水の流れる中から這い出る黒い羊のような犬のような猫のような鹿のようなよく分からない化け物(しょうがないから総称して羊として数えている)、もしくは蛇や蜘蛛やカエルといった化け物(しょうがないから総称して虫と数えている)、あるいは虫とも菌類とも相いれない得体のしれない化け物(しょうがないから総称して某有名なアメーバ系神話生物の名称で呼ぼうかと思ったが夢の中でそれをするとヤバそうなのでやめた)などを、さくさくと殺しながら進んでいる最中である。


 天井から降って来た目玉付きアメーバ(石油溜まりに豚の目玉を浮かべたような)を撃退して、少年は非常に居心地悪そうな顔をした。


「……排水溝、用水路、化け物退治に包丁か……どんだけ影響を受けた夢なんだか」


 ぐしゃ。


 明晰夢、という言葉はご存じだろうか。世の中には不思議なことに、夢を夢だと判断できる人間が存在する。何もない空間で寝ている間にも勉強をしたり、やりたい事を好きな様にできる人だっているらしい。彼もそのような類の人間だった。


 ぐちゃ。


「……作画に効果音に問答。能力と化け物の応酬、文句なしにかっこよかったけどさぁ。だからって、だからって夢にまで見ることはないだろ自分よ……?」


 眠い。酷く眠い。だが、目の前に現れる化け物が休息を許してくれないのである。脳味噌は既にオーバーヒート寸前、夢の中なのに頭が痛いとは何事だろうか。


 少年自身、現実世界では肉の少ない骨ばったオタクである。二次元も三次元もほどよく愛し、世間の流行とニッチな過去作のどちらも楽しむことができる部類の人間だ。問題はその運動神経の無さだ。彼が夢の中でコントロールできるのは「お約束」と「圧倒的な有利」だけである。


「口を開く努力をしないと、今にも力尽きて眠ってしまいそうだけど」


 夢の中の眠気とは、これまた意味が分からない。しかしこれはよくあることで、夢の中で眠って起きた場所がまた夢――これを、これを少年は繰り返している。


「最悪。なにが最高のシチュエーションと状況だ――1周回って悪夢だって」


 終わりの見えない、光もない用水路。現実の下水のような鼻に衝く匂いは感じない。夢の中なのだから当たり前だ。光源がない筈なのに前方数メートルの視界が確保されているのも、恐らく想像力の限界によるものだろう。見えなきゃ敵を認識できないのだ。


 ざしゅっ。


「腕も重くなってきた……今回もここらへんで終いなのか?」


 夢の中だというのに身体の自由は保障されていない。この用水路だって夢に見るのは一度や二度ではないのだ。何なら、少年はここのところ


「明晰夢なんて、誰が言ったよ」


 夢を終わらせる術を、彼は持たないのである。


「明晰でも何でもないじゃんか……先は見えない終わりはない、寝て起きたらまだ夢の中……何回目だ、この夢の中で寝て起きるの。胡蝶の夢にしても程度が無いか?」


 ……とはいえ。夢の中で長い時を過ごそうが、現実にはさほど睡眠時間をとっていなかった、寧ろいつも通りの睡眠時間だったということは、無いわけではない。

 そして、夢が醒める条件と言えば「恐怖」か「続きが気になる結末に近づく」か。この二つが確実だろう。


 と。「恐怖」の方にヤマを張って現れる化け物を切り倒すこと長時間。眠気は溜まるが終わりは見えない。「お約束」通りに行くならば、このドロドロした底なしっぽい水路に身を投げて沈んだ方が早いようにも思えてきた。夢から目覚める為に溺れるとは、自殺するのと似て狂気染みた決意と行動力が必要になりそうである。


 だがしかし、生憎少年はその類の無鉄砲さというか、猪突猛進的思考は持ち合わせていなかった。


「夢の中でも死ぬのは嫌だ。何の為に進んでるんだか、分からなくなるじゃないか」


 ざしゅっ。


 羊が71匹。数えて天井を仰ぐ。恐怖系統の作品が好きなばかりに、天上にびっしりと貼り付いた虫やらアメーバやらの目玉にも恐怖を抱く事はなかった。もっと地の底を這う様なやばい概念を知っている気がするが、想像すると現れるのが夢の常である。明晰夢として意識がしっかりあるからにはそれだけは避けねばならないと思う次第だった。


 恐ろしいのは、自分の感情がますます動かなくなっていくことである。高揚も焦燥も感じない。目覚めない自分に対して巻き起こる筈の憤りや不安も殆ど感じられない。


 夢から覚めたい。当たり前だ、これは夢なのだから。

 今すぐ寝たい。当たり前だ、眠いのだから。

 ここから逃げたい? 逃げたいとは、どうやら考えもつかなかった。


「……ん。……おぉ? 光源がうっすら……あ、そこのエリアボス枠の化け物さん邪魔。どいて」


 明晰夢の中で無意識にかかる「圧倒的な有利」のバフを利用して、目の前に立ちはだかった泥の異形を切り捌く。崩れ落ちた異形の向こう、光源はいきなりパッシングしたかと思うと、急激にその光量を引き上げた。


「っ え」


 存在が掻き消える。飲み込まれて白紙になる。

 影が失せる。色が失せる。灰色になる。白に溶ける。







「……………………」


 何という事だろう。目が覚めたら自宅であった。どうやら二段ベッドの上段から転がり落ちたらしい。全身が程なく痛い。


 普段開けることのない遮光カーテンが、本日は風に揺れている。なんてことも無いこの熱を感じる現実を、こうも尊いと思う日が来ようとは。


 部屋を出ようと身体を起こして、それから家人が扉をノックする音がした。此方の返事を待たずに開錠されたその向こうを見て、息をのんだ。


「mこんじbふvgycftxdrzせあwq???」

「……………………」


 絶句した。絶句して、手元にあの包丁がある事に気が付いた。

 呆然とする鼻先を、何処から飛んできたのか分からない蝶が霞め飛ぶ。


「……さぁて、これは第何ラウンドなんだろうか……!?」


 明晰夢は覚め方を知らない。

 目の隈は相変わらず消えそうにない。




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