7:見えざる敵 2

 ヴェエエエー!


 響いたのはラクダの声だ。痛みに混乱した悲鳴に、その場の全員が身をすくめた。

「矢が、ラクダに当たって……やぁやぁ、落ち着け!」

 若いラクダ使いが手綱を引く。みんなも手を貸そうとしたが、二射目が駆け抜ける風音に一斉に動きを止めた。

 今度は人にもラクダにも当たらなかったが、それでも空気は張り詰める。それを無理やり壊すように、ザナバクが威勢よく立ち上がった。

「ええい、怯えていても仕方ない。私の弓矢で射返します」

 しかしその手をマルヤムが抑える。

「やめろザナバク。風向きを考えろ。下手をすれば風にあおられた矢が返ってくるぞ」

 言われて、ザナバクは悔しげに弓矢をマントの下に戻す。

「だが確かに、このまま怯えていていいものかどうか」

「大丈夫です」

 マルヤムのつぶやきに、アイラは砂塵をにらみながら答えた。「と言うと?」とマルヤムがアイラを振り向く。

「矢と矢の間隔が長いですよね。相手はきっと一人です。それにこの風の中で、本気で当てようとはしてないでしょう」

「それはそうでしょうが、ではなぜわざわざ矢を射かけてくるのかが分かりません」

「こちらを怯えさせて、パニックを誘おうとしてるとか……」

 ふむ、とマルヤムがうなずいた。

「それならば、ここで動かず矢が尽きるのを待つのが最善手ですね」

 言って、主人であるワルダートの判断を仰ぐ。

「そうね。全員その場に伏せるように。マルヤムとザナバクは引き続き警戒を」

 緊張は解けないものの、ひとまずの対応が決まって、怯えていたラクダ使いたちからも安堵の吐息が聞こえた。そのときだ。

「うっ!」

 三度目の風切り音に続いて、うめき声が上がった。今度こそは人の悲鳴。先ほどラクダをなだめていた青年だ。

「どうしたの、フィド!」

「飛んできた矢が、腕をかすって……」

 フィドと呼ばれた青年は、ラクダを落ち着かせようと一人だけ伏せずにいたらしい。

 かすった、という割に、矢じりは肉を深くえぐっている。黒い血が大きくふくらみボタボタと砂を濡らすのが見えた。ラクダ使いの仲間が慌ててスカーフを外し、止血しようとする。

「傷口が砂まみれです。どこかで洗ってやった方が」

「そんな場所、ないでしょう。大丈夫、深い傷じゃ……」

 フィドは遠慮するが、手当てはした方がいい。できるなら風をさえぎるもののある、砂まみれにならない場所で。

 そんな場所がどこにあるだろうかと、アイラは自分自身に舌打ちしそうになった。この砂嵐の中で――。

「……!」

 ふと、風音の異変に気づいたアイラは、舌打ちをやめて耳を澄ませた。

 左手前方に、風音の弱い場所がある。

「ワルダートさん!」

 ルムスの言っていた大岩とやらが近くにあるのかもしれない。いや、こうなってはその細い糸を頼るしかない。方角を教えると、ワルダートも音を確認してうなずいた。

「全員、ついてきなさい。なるべく身を低くして」

 隊商長の声が砂を割って命じる。人とラクダの一行は、矢の飛んでくる方向を気にしながら、アイラの指した方角へと進んでいった。


          ***


「しめた。中が洞窟になっています」

 辿り着いた大岩を確かめて、マルヤムとザナバクがうなずき合った。中には入れば落ち着いて手当てできる。暗くなっていた空気が少し和らぐ。

「怪我人が最初よ。あとの人はラクダも連れて入ってちょうだい、逃げるといけないわ」

 ワルダートがテキパキと指示を出す。みんなは手を貸し合って砂嵐から避難した。岩の壁にはばまれて、風音が遠くなる。アイラはフードを外し、頭を振って砂を払い落とした。

 幸い中は広々としていた。人が九人、ラクダが七頭入っても奥にぶつからない。足元にはしっかりした地盤があり、沈む砂とのギャップで一瞬足がふらついた。壁に手をつくと、岩の感触がひやりと冷たい。

 ひとつ困ったのは、真っ暗で何も見えないことだ。

「うわっ、誰だ。踏むんじゃない」

「そんなところに座っている方が」

「だっておまえ、フィドの手当てをしなければ」

 自分の鼻先も見えない暗さだ。視覚が役に立たない分、怪我人の血が、濃く匂う。

「こんな状態で、どう手当てするんです」

 洞窟の壁に反響してか、声はやけに震えて聞こえた。ラクダ使いたちの混乱を聞いて、ワルダートが重くつぶやいた。

「失敗したわ。私たちの班は商品を運ぶ担当なの。宝石や衣装なんかの高価な品ばかり。だから、日常使いの道具は別の班に預けているのよ」

「え、じゃあランタンとかも?」

「ないわ」

 そんな、と思わずこぼすアイラにしても、荷物はほとんどハジャルに貸したラクダの上だ。マントを振ったところで、火打石のひとつも転がり出ない。

 日用品を持っていそうなのは、あとはギュンツだけ。何かないかと尋ねると、すぐそばから声が答えた。

携帯焜炉ブレイザーならあるぜ」

「いいね、じゃあそれを――」

「ただし火種がねえ」

 じゃあなんで焜炉なんて持ってるのか。

「仕方ねえな、これ使えよ」

「えっ、何?」

 突然腕を引っ張られた。ギュンツが掌に握らせてきたのは、小石みたいな固いもの。

 いや、小石じゃない。真ん中でパカリと開く。二枚貝だ。貝の身の代わりに入っているのは、冷たいクリーム状の何かだった。

「暗視目薬だ。小指の腹に半すくいずつ、まぶたに塗れ」

「塗り薬? ねえこれ、副作用とか……」

 少しひるんだのは、目に塗る薬だという点だ。ギュンツが肩をすくめるのが気配で分かった。

「そんなにはねえよ」

「少しはあるのか」

「瞳孔ガン開きになるから、明るいところでは視えなくなる。あとは痛覚が馬鹿になるくらいだな」

「結構な害じゃないかな」

「四、五時間もすりゃ効果は切れる。いいから使えって。オレにはそのクスリ、弱すぎて効かねえんだ」

 そういえばギュンツは毒慣らしをした影響で、毒も薬も効きづらいと言っていた。自分で作った薬も自分では使えないなんて、皮肉な話だ。

「仕方ないか、灯りの当てがないんだから……」

 アイラは閉じかけた貝のふたをもう一度開いた。

 小指の腹に半すくい。そんなもんで効くのか、と首を傾げたくなる量だ。半信半疑ながらまぶたに塗って、ゆっくり目を開ける。そして、

「うわーあ!」

 開けた光景に、アイラは思わず歓声を上げた。

 太陽の欠片を暗闇に引っ張って来たみたいだ。薄暗いランプ程度の効果があればいいと思っていたのに、岩の一片一片まで数えられる。

 洞窟の中というのは、砂嵐の中や夜でなくても薄暗い。ランプのほのかな灯りや揺れる炎では見えない部分も多い。洞窟の中の様子をこんなにくっきり目に映したのは、考えてみれば生まれて初めてだ。

「おい、壁ばっか見入ってんなよ。怪我人の手当てするんじゃなかったのか」

 そうため息をつくギュンツの顔も、はっきりと見える。アイラは慌てて座り込む人々に目を向けた。

 アイラたちがいるのは、九人全員で車座になれそうな開けた空間だった。奥はすぼまり、さらに向こうへ続いているようだ。そんな空間の真ん中でラクダ使いの三人が額を寄せ合い、怪我人を心配そうに囲んでいる。しかし見えないのでは手が出せないらしく、怪我人が自分で袖をまくり、傷口を洗っているところだった。

「ギュンツ、傷薬持ってたよね」

「ああ。勝手に使え」

 押しつけられた背の低い瓶には見覚えがある。ふたを開けて黄色い軟膏を確かめながら、アイラはラクダ使いたちを手伝いに駆け寄った。

「ところでだ、ワルダート」

 アイラの背を見送って、ギュンツは洞窟の入り口側にいるワルダートたちを振り返った。

 ワルダートと二人の従者は、ラクダの手綱を岩壁に結びつけたところだった。ギュンツが振り向いたことは衣擦れの音で分かったのだろう。「何かしら」と、壁際に座ったワルダートが答えた。

「襲撃者を返り討ちにして、避難場所を見つけ、今は怪我人を手当てしてる。水の借りを返して釣りが来ると思うんだが」

「待ってよギュンツ。借りを返すも何も、私たちが巻き込んだかもしれないのに」

 何気なく耳を傾けていたアイラは、薬瓶を落としそうになった。

 敵襲だ、と叫んだときから、敵の正体については考えていた。ギュンツを狙う手の者、それがいちばんありそうなことじゃないか。確かに数に任せて攻めてきたこれまでとはやり方が違うけど。

「やり方が違う、だけじゃねえ。昨日は何も起こらなかった。オレを殺したいならおまえが一瞬いなくなった昨日が絶好の機会だったはずだ。それを逃しておいて、今動くか?」

「あ……それもそうか」

 しかしそれなら。

 ギュンツを狙ったものでないなら、襲撃の目的は何だ?

「それにワルダートは、戦える奴を二人も連れてた。分かってたんだろ、こういうことが起こるって」

 手当てを進めながら黙り込むアイラをよそに、ギュンツが言葉を続ける。ワルダートのそばに控える二人のうち、マルヤムが、色墨で縁取った鋭い目をギュンツに向けた。

「答える義理はないが、ひとつ訂正させてもらおう。我らは幼き頃よりワルダート様にお仕えしている。急場しのぎの護衛と同じにされてはかなわん」

 マルヤムの淡々とした言葉を、ザナバクが「いかにも」と力強く受ける。

「ワルダート様の商談相手に大物が増え、以来お命を狙われるようになったこととは関りがない!」

「今のは聞かなかったことにしてくれ」

「そうは行かねえけど」

 この馬鹿、とマルヤムが肩をいからせる。ザナバクが慌ててワルダートに謝る。従者たちのそんなやり取りにワルダートは肩をすくめ、髪を包むベールを軽く揺らした。

「隠すようなことではないわ。こちらにやましいことはないのだし」

「じゃ、やっぱり心当たりがあるわけだ」

 ギュンツが「思った通り」と軽く笑った。軽く手を上げる動作にローブが揺れる。

「傷薬をカネで売る気はねえが、襲ってきた奴らの情報を対価にってんなら、短剣で吐かせる手間が省けていい。どうする?」

「何を言うか」

 物騒な物言いに、二人の従者が、色墨を塗った両目を光らせる。先ほどまでとは違う緊張感が、洞窟にじわりと広がった。

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