最強無敵、天下無双の恋する乙女
筧千里
第一部
プロローグ
レイラ・カーリーという伝説に残る英雄がいる。
ガングレイヴ帝国における武の頂点とされる八大将軍、その一角たる『銀狼将』という地位にあり、ひとたび戦場に出れば敵将首を取らないことがなく、その威容には十万の敵兵が逃げ出すとさえ言われている。僅か十六歳という若さで将軍となり、しかし将軍となってからも軍の先頭で暴れまわるという化け物だ。
あまりの強さに、「ガングレイヴにはレイラがいるから」という理由で臣従してきた国もあるし、戦場で会敵した瞬間にレイラがいることを知って全面降伏してきた軍もいる。人知を超越した強さゆえに、与えられた名は『ガングレイヴの悪魔』、『殲滅将軍』、『虐殺天使』など枚挙にいとまがなく、また失礼極まりない。
童女のような姿で、男でも持ち上げるのが難しい、とさえ言われる大剣を二振り、自在に扱い戦場を駆ける。そんな姿であるがゆえに、口さがない敵国の者からは『殺戮幼女』と称されたことさえあるのだ。
大陸最強にして人類最強、生まれる時代を間違えた大英雄。
彼女がいなければ、ガングレイヴという国はこれほどまでに大きくなっていなかっただろう。僅か五年で、その版図を十倍もの広さにしたのは、ひとえにレイラ・カーリーという大英雄が存在したからに過ぎない。
後の歴史書において、数多の伝説が語られるであろうレイラ・カーリー。
そんな彼女は。
「あー……」
絶賛、迷子であった。
煌びやかな装飾の施された壁面に、無駄に真紅の絨毯が敷かれた床。恐らく壊したら平民なら命が吹き飛ぶくらいの価値があるのであろう、と思える調度品が幾つも飾られ、中には機能性の全くない、ただ脅かすだけの目的で作られたのではなかろうか、と思える全身鎧まで飾られている。
そんな宮廷の廊下をレイラは一人歩きながら、きょろきょろと周囲を見回していた。
「……滅多に来ないからねぇ」
後ろで一つに束ねた金色の髪をぴこぴこと揺らしながら、レイラはそうぼやく。
豪華そうな扉があれば適当に開けて、誰もいなくて閉める、ということを既に五度ほど繰り返しており、自然と眉が寄る程度には不機嫌だった。
そもそも最前線で暴れてばかりのレイラが、宮廷に来ることなど滅多にない。一応、定期報告などはあるのだが、わざわざ最前線から帝都に戻って報告をして、また戻る、というのも面倒極まりないために、ほとんど副官に任せ切りなのだ。そもそもレイラがあまり物事を深く考えない人間であるために、報告なども副官が行った方がスムーズである、という悲しい現実もある。
が、現実問題として、この迷子という状況は少々拙い。
「あー、もうサボっちまうかねぇ……」
そんな滅多に宮廷に来ないレイラが、何故このように宮廷の中で迷子になっているのかというと、純粋に名指しで呼ばれたからだ。ただの報告だとか命令だとか、そういう案件ならば副官に任せてもいい。
だが今回、レイラのこれまでの功績に報いて、という名目で、勲章の授与が行われるのだ。
軍人にとって勲章とは、自分のこれまでの功績を讃える唯一のものだ。実際、レイラもこれまで幾つか授与されており、こういった公式の場では装着するように義務付けられている。もっとも、付けるだけ煩わしいので、いつも公式の場に出るときには「忘れた」と言って乗り切っているが。ちなみに今日も忘れた。
そういった事情もあって、もう面倒極まりないので勲章なんざいらない、と最前線に戻った方が早いのではないか、とさえ思えてきた。軍人としては失格だろうけれど。
「……どうせ、また面倒なことばっかなんだろうし、帰るかね」
勲章の授与があるとなれば、間違いなくその日の夜はパーティが開かれる。
ヒラヒラしたドレスなんて着たくもないし、そこで繰り広げられる貴族の自慢話も聞きたくない。せいぜい、軍人であるレイラは軍の正装で参加してもいい、と譲歩されていることだけが救いだろうか。
だが、どちらにせよ、彼らの狙いは透けて見える。
レイラは、二十一歳だ。
十二歳のときに軍に入り、そのまま猛スピードで出世の道を歩んだ。ちなみに、身長も体重も体型もその頃から全く変化していないことが目下の悩みの種である。
前例のないほどの速度で将軍となったのも、レイラの人間離れした強さゆえだ。そこにコネクションを利用したことなど何一つない。貴族の子息など、金を出して地位を買うこともあるらしいが、レイラはそもそも貴族ですらないのだ。
将軍ということで、一代限りの名誉貴族としての地位はあるが、それだけである。元々スラムの生まれだったレイラは、両親の顔すら覚えていない孤児だった。
ゆえに、お偉方からはこう思われているのだ。
レイラ・カーリーはただ生まれがガングレイヴであるだけの将軍であり、血筋は伴っていない。場合によっては敵国の調略に乗る可能性がある、と。
別段裏切るつもりなどないけれど、それで彼らが勝手に勘違いしている事実は否めない。
「どうせまた、結婚しろ結婚しろって言われるだけだよねぇ……」
パーティで行われるだろう、貴族の息子紹介大会を思い出して顔をしかめる。
以前は本気で、皇帝自身から長子であり次期皇帝であるディール・ラインハルト=ドロテア・ガングレイヴ殿下の正妻に、と勧めてきたくらいなのだ。まだディールが十歳という若さで、である。
そうでなくとも、レイラという英雄を家中に入れることは大きい、とばかりに我が息子を、是非我が家に、と寄ってくる貴族が多すぎるのだ。
ゆえにそのたび、レイラは告げてきた。
あたしに勝てる男がいれば、結婚してやる――と。
まったく、人生というのは退屈極まりない。
もう少し、楽しい何かがあればいいのだけれど――。
「あん?」
「おっと!」
考え事をしながら曲がり角を曲がろうとして、そこで正面から誰かに衝突した。
勿論ながら、体幹までしっかり鍛えているレイラは、誰とぶつかろうとも全く身じろぎなどしない。そしてぶつかった方は、思わぬ衝撃にか運んでいたのであろう紙束をばら撒き、腰をつけていた。
「痛たた……あー、ええと、申し訳ない」
「いや、あたしは別に……」
瞬間――電撃が走ったような感覚に陥った。
黒髪を後ろに流し、首のあたりでまとめている男である。
繊細だが派手ではない装飾の施された片方だけの眼鏡が、整った顔立ちをより知的に見せている。加えて、まだレイラと変わらぬ程度に若いだろうに事務官の証である腕章を装着しており、ぴしっとした宮廷の正装を着こなしている。当然ながら、滅多に宮廷に来ないレイラが見たことのない相手である。
ふぅ、と小さく溜息を吐きながら、散らばった書類を集めている。
その所作も、その吐息も、その表情も。
全てに、鼓動が高鳴るのが分かった。
まるで世界が色を取り戻したかのように。
レイラの心を、まるで撃ち抜いたかのように。
その男が散らばった書類を拾っている間中、レイラは動くことができなかった。
「ああ、ええと……申し訳ない。いや、僕の不注意で」
「い、い、いや、あ、あの、あたしは……」
「どうかされたのですか……?」
「あ、うあ……!」
全く、心が落ち着いてくれない。この心の中で荒ぶるような感情は、一体何なのだろう。
一体どうしてしまったというのか、震える唇は何も発してくれない。
こんな、レイラの一撃で首の骨を折ることができそうな優男を前に、全く動けないのだ。
あまりにも異常な感情に、ただただ混乱することしかできない。
「ええと、もしかして、道に迷っているのですか?」
「あ、ああ、う、う、う、うん!?」
「そうでしたか。僕で良ければご案内しますけど、どこに行きたいのですか?」
「ご、ぎゃ、ぎょ、玉座っ!」
必死に、そう目的地を告げる。
誰かに会えば案内してもらおう、とは思っていたのだけれど、こんな相手と出会うとは思わなかった。これまでに体験したことのない感情の奔流に、心がついていかない。
鼓動が跳ねて止まらず、震えが止まってくれないのだ。
「玉座の間、ですか……」
必死に、こくこく、と頷くだけである。
何かを言おうにも、震える唇が何も発してくれない。
どうしてこんな風になっているのだろう。
この男は、レイラが恐れるに足らない。
恐らく殺せと言われれば、一瞬でその命を刈り取ることができるだろう。
つまり、これは恐怖ではない。
ならば。
「ご案内してもいいのですが、今、玉座の間はちょっと……」
「え、あ、う、う、うん!?」
「実は、あの英雄レイラ・カーリー将軍に対する勲章の授与式が行われることになっていまして」
男がレイラの名をそう告げた瞬間に、更に鼓動が跳ねる。
名前を呼んでくれた――ただそれだけで、幸福感にすら支配されそうになる。
この感情は、一体どういう昂りなのだろう。
全く想像もできない感覚に、最早混乱も絶頂に達していた。多分、これ以上混乱してしまうと問答無用に暴れてしまうのではないか、と思えるほど。
男は少し悩んで、そして僅かにレイラを見て。
「ですので、お父さんを訪ねて来たのだったら、入り口で待っていた方が……」
「……」
十二歳から何一つ変わっていない見た目。
それを、そのように誤解されたことは何度もある。慣れたものである。
だが。
慣れたとはいえ、それを許せるとは限らない。
ゆえに。
「うああああああっ!」
「ごふっ!?」
殺さないように限りなく手加減に手加減を重ねて、しかしレイラは我慢しきれなかった一撃を、男の腹へと突き刺した。
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