信心と孝心
高麗楼*鶏林書笈
第1話
景徳王時代(742〜65)、新羅では浄土思想が大流行していた。
各地で善男善女たちが集まって寺院を作り、極楽往生を願って念仏の会を開いていた。
康州の地でも数十人の人が弥陀寺を建てて念仏の会を行っていて、阿干の位にあった貴珍も婢女の郁面を伴ってこれに参加していた。
郁面は、このお寺参りを密かに楽しみにしていた。遠くからだが、仏さまの尊い御姿を拝見し、お坊さまの有り難い話を聞けるからだ。この時だけ、彼女は日常の疲れも忘れられ、心も癒された。
さて、ある日、いつものように貴珍のお供として弥陀寺に来た郁面は説教を終えた僧にこっそりと近付いて訊ねた。
「お坊さま、私のような賤しい者でも浄土へ行くことが出来るのでしょうか?」
僧は笑みを浮かべて答えた。
「もちろん行けますよ。熱心に念仏をとなえれば阿弥陀如来は必ず聞き届けて下さいます」
翌日から郁面は自分の仕事を終えると弥陀寺へ行き、庭の片隅で念仏を唱え始めた。
毎日やって来ては熱心に名号を唱える彼女を見た寺僧は、中庭で自分たちと一緒に念仏を唱えさせた。
これを知った主人・貴珍は「分際をわきまえぬ生意気な奴」だと言って、彼女に二石の穀物を渡し一夜で舂くように命じた。彼女は受け取るとすぐに舂き始め宵の口には全て終えてしまった。
こうして仕事を増やされても全てやり遂げて、念仏修行を続けるのだった。
ある日、いつものように中庭で名号を唱えていると上空から声が聞こえた。
「郁面よ、堂に入って念仏なさい」
周囲にいた者たちは彼女を堂内に連れて行った。
堂に足を踏み入れた郁面は正面に安置された仏像をみて
「なんて尊い御顔をしているのだろう」
と感心した。そしてその場で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と名号を繰り返すのだった。
暫くすると、何処からか妙なる音楽が聞こえて来た。と、同時に郁面の身体は宙に舞い上がり、建物の天井を破って外に飛び出した。
郁面は西へ向かって飛んでいた。
ー浄土に行くんだわ!
彼女は確信した。それゆえ、恐怖は全く感じず、地上を見下ろす余裕さえあった。“下界”の風景は珍しく、興味深いものだった。
とある家の上空に来た時、
「下に降ろして」
と彼女は言った。
ゆっくりと地上に降り立った彼女は、井戸端にいた女性に声を掛けた。
「知恩どの!」
女性は驚いてる振り返る。
「郁面さん」
突然現れた友人に知恩は手にした桶を落としそうになった。
知恩は元は良民だったが、貧しく、母親を養えなくなったため、自ら進んで婢女になったのである。弥陀寺と貴珍の屋敷の間にある長者の家で働いていたため、二人は知り合うようになったのだった。
「いったい、これは、どうしたことなの?」
驚きのあまり知恩は言葉がうまく出なかった。
「実は浄土へ行く途中なんだ。知恩どのも一緒に行こう」
「それは出来ないわ」
郁面が何故浄土に行くようになったかはともかくとして、今の知恩に同行は無理だった。
「何故だ?」
「一人残された母の面倒を見る人がいないから」
「ならば母上も一緒に行けばいい」
郁面が答えた時上空から声がした。
「それは駄目だ」
「どうして」
郁面が応じる。
「まだ時期でないからだ。だが、孝行者の知恩よ、案ずるな。これからはよくなるだろう」
天の言葉が終わると郁面の身体は浮かび上がり、西へと去って行った。
郁面の浄土往生の話は瞬く間に世間に広まった。
弥陀寺は往生者を出したとして多くの人々が集まるようになり、貴珍はこれを機に信心が高まり、自宅を喜捨して寺にし、法王寺と名付けた。
郁面が去った後、久しぶりに家に戻った知恩を母親は泣きながら叱責した。
「いくら貧しいといっても他人様の端女になるなんて。そんなことで得た食べ物で生命を長らえたくない」
知恩は何も言えずただ涙を流すばかりだった。
その時、彼女の家の前を王族・孝宗郎が通りがかった。
家の中から女たちの泣き声がするのを不審に思った彼は隣家の老人に理由を訊ねた。
老人の話を聞き終えた孝宗郎は「なんと孝行な娘だろう」と感心し、従者に大至急、この家に百石の穀物を送るよう命じた。
その後、王も知恩のことを知り、彼女に家と食糧、衣服を贈り、生活に困らぬようにしたのだった。
信心と孝心 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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