姫の微笑み

樹 亜希 (いつき あき)

交差する!

 今時の若い女性がコンタクトではなくて、眼鏡をかけているのはありや、なしや。

 僕はいつも隣に座る斎藤絃子(いとこ)さんがとても気になる。黙々と仕事をこなす優秀な彼女は昨年僕の隣の席に座っている。産休で休んでいる清水さんの代わりに、人材派遣の会社からやってきた女性はまだ馴染んでいない職場で緊張が伝わってくる。


 斎藤さん、と声をかけるだけで少しだけ椅子からおしりを浮かす感じでこちらを向くのだ。仕事を頼むとき、もしくは書類を渡すときなどはまだ彼女は緊張しているように見受けられた。時節柄、歓迎会などの飲み会がないもので、マスクの下の顔は知らないし、眼鏡もあるので彼女の顔はほぼどんなだかわからない。その逆もしかりで、僕の顔なんて彼女は興味などないだろうが、マスクに眼鏡は同じで細い目の僕の顔などどうでもいいのだろうと思っていた。


 斎藤さんが仕事についてから三か月過ぎたころに、この三月末がきて期末の仕事でばたばたと忙しくしており、周りを見ると斎藤さんと自分だけで、みんなはかえってしまったようだ。

「おや? あ、ごめん。もう9時過ぎているね。帰って、帰って!」

「でも、もう閉めて帰らないとダメじゃないですか」

「ああ、僕が閉めてかえるから、いいよ」

 僕はPCをキルして、彼女に立つようにと手で促した。

 でも彼女は座ったまま、引き出しから私物を出して笑っているように見える。

 はっきりはわからないが目だけが何となく……。

「あ、ごめん。僕は気がきかないな。こういうときは食事をと誘うべきかな」

「いえいえ、じゃあ。お先に」

 斎藤さんは立ち上がってバッグをもって歩きだそうとしたときに、僕は彼女の行動を制止した。

「一緒に、どこかで食事でも……」

「主任、もう店はやっていませんよ」

 (あ、そうだ)

 僕は9時過ぎていることを忘れていた。今は自粛要請で飲食店はもうやっていない。まさか、コンビニで買った弁当を公園で食べるだなんて真似ができるはずもない。僕はこれでも28歳で主任になったばかりだ。さすがにこんな安上がりの男だとは思われたくない、しかし、店が閉まっているとなると……。まさか、ホテルのラウンジで食事をだなんて言えばそれはそれでゲス野郎だと思われる、モラハラでアウトじゃないかと諸々頭の中を駆け巡る。

 二人でフロアのドアのカギを閉めて、会社の外へ出ると、墨色の空に青ざめた月が雲の間から出たり入ったりしている。

「主任、おいしい喜多方ラーメン食べませんか?」

「ラーメン屋さん、やってるところあるの?」

「ええ、あるんですよ」

 おなかが減りすぎて何が何だかわからないままに、会社の前の歩道へ出ると斎藤さんと僕はタクシーを止めた。

 彼女は高田馬場と告げた、そうだ、あのあたりなのか。

 秘密裡に営業しているうまいラーメン屋さんを知っているに違いない、仕事もそつなくこなすし、できる女の子だなと思っていた。



 タクシーが15分ほど走ると坂道の途中で車は止まる。

 (ええ? ここはどこだ。店など見当たらない)

 僕は驚いて彼女を見た。

「ここ、私のマンションです。母がこの前ラーメンをたくさん送ってくれたんですよ。お店よりも家のほうが安心できると思って。どうぞ、いつもお世話になっていますし」


 そういい終わると、斎藤さんはマスクと眼鏡を取ってコートのポケットに入れた。

 月明りの下で初めて見る斎藤さんは、絃子という女性に変身した。

 

 まるでかぐや姫のような古典的な美人で、色が白くて細面の顔を見て僕は思う。

 いいのだろうか、この時期に女性の部屋に上がり込んでも。

「いいですよ、主任なら」


 ココロの中をも読まれていた。

 清い心でラーメンだけを頂きたいと思って僕は笑ってマスクを外した。

 尊いまでの夜は過ぎていくが、ラーメンを食べ終わるともう終電の時間も過ぎてしまっている。だが、今までに私的な話などしたことはないけれど、絃子さんはよく笑い、よく話す。

「今までの派遣は結構ブラックだったんですよ。でもこのKMホールディングスは一番いいかもです。半年、もう少しいられたらいいなと思います」

「そうさね、清水さんという女性が産休なので一年から二年と聞いているよ。だけど、彼女の旦那が同じ部署なんでどちらかが他のカンパニーに移動しなければならないんだ。規則でね」

 僕は希望的観測を盛り込んで返事をした。絃子さんがこのまま僕のアシスタントとして隣にいてくれたほうが仕事はしやすい。

「じゃ、帰ります。もう終電ないしスマホでタクシーを呼ぶから。ごちそうさま。おいしかったよ」

「これ、まだまだあるし、どうぞ」

 喜多方ラーメンを、小さい紙袋に入れて持たせてくれる時に彼女の細い指が少し触れた。

「あ」

 視線が絡み合う。急に僕はドキドキして彼女を直視できないまま玄関のドアだけをガチャガチャとしてうろたえている。


「泊まっていきますか?」

 こんなことあるはずないよなと思いながらも僕は頷いて子供のように座ってうなずいた。月は煌々と窓の隙間から差し込むけれど、絃子さんの背中の白さには叶わない。


                   

 



         

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