死なせてもらえない、猫の絵描き

かずなし のなめ@「AI転生」2巻発売中

第1話


 今から、俺は死ぬ。

 ベランダの柵を乗り越える。


『にゃーお』


 乗り越えようとした右脚と反対の左脚。

 猫二すりすりされていた。

 昨日死んだ、タマとそっくりだった。


『にゃーお』


 というか、俺の猫だ。そっくりじゃない。そのものだ。

 どうして、死んだはずなのにこんなに温もりを感じるのだろう。

 だって、死んだはずなのに、タマはここにいるのだろう。


『あーお』


 渦巻く疑問はいつの間にか消えた。

 タマを抱きかかえて、部屋の中に座り、よしよしと撫でる。

 心地よさそうに、つぶらな三白眼を細めて、微睡み始めた。

 

 お前は一体、何なんだ? これは夢なのかな。

 でもこの触り心地に柔らかさ、暖かさ。夢じゃない。

 タマは、間違いなくいる。ここにいる。


 そして、気づくとタマは消えた。

 俺の腕の中にいたはずなのに、煙のように消えていた。

 ああ。やっぱり幻だったのかな。


 あと、俺の自殺願望は消えていた。

 猫の温もりは、少しだけ雨足を弱めてくれた。


「絵、描こう」


 俺はまだ金木犀すら描けていない、汚れたキャンバスに向かった。



      ■      ■

 

 

 今から、俺は死ぬ。

 椅子を足場に、首を吊る。


『にゃーお』


 括ろうとした直前の、不安定な足元。

 すりすりされていた。

 先週死んだ俺の猫、タマだった。


『ゃー』


 一瞬、重力の虜になった。

 椅子は重心を崩し、当然上にいる俺は床に転げ落ちた。

 尻から打ち付けたが、不思議と痛くなかった。


『にゃー』


 俺は……また死ねなかったのか。頭上には寂しく縄だけがぶら下がっている。

 器用に下敷きを避けたタマは、俺の膝の上に乗って正対する。

 なんか、微笑している様に見えた。


 お前は一体、何なんだ。死んだはずなのに、幽霊か?

 でも嫌な気分はしないんだ。怖くないんだ。

 野球に延長戦があるのと同じ。タマにも、まだ命があるみたいで。


 そして、やっぱりタマは消えた。

 俺の首元まで進んできたのに、瞬きしたらいなくなっていた。

 結局、幻だったのかな。


 また、俺の自殺願望は消えていた。

 絵が描けない絶望が、ちょっとだけ風速を弱めてくれた。


「絵、描けるかな」


 俺はまだ自分の手すら描けていない、汚れたキャンバスに向かった。



      ■      ■



 今から、俺は死ぬ。

 絵なんて描けなきゃよかった。手首を切ってやる。


『にゃーお』


 包丁を持っていた右手が、傷ついた。

 引っかかれた。

 半年前に死んだ、俺の猫、タマだった。


『しゃあああ!!』


 何をするんだよ。もう放っておいてくれよ。

 君は一体何なんだよ。

 どうして死んだのに、出てくるんだよ。

 

『ほあああああああっ!!』


 怒っているのは、タマも同じだった。落ちた包丁の上で、頑として動かない。

 タマへ手を伸ばしても、爪立てた猫パンチで牽制してきやがる。

 タマは、片足だけ前に伸ばした。その先で、一枚の絵が破れていた。

 

『ぐるぅ……』

 

 あの絵は、敗れた駄作なんだよ。誰も俺のこと、分かってくれないんだよ。

 猫のお前なんかに分かるかよ。死んだお前に分かるかよ。

 人として生きている事の辛さが。評価されたいと思ってしまう本能が。

 

 お前はお前の描きたい絵を書き続ければいいって!? 口で言うのは簡単だよ!

 でも理屈じゃない! 俺の絵を評価してくれない世を恨んで、醜く死ぬのがどうして悪いんだ!

 もういやだ。四六時中四苦八苦の病人生活から解放させてくれよ!


 お願いだ。

 もう辛いんだ。

 俺を、世界が拒絶するのが。

 

『……』

 

 命一杯目を瞑っていたら、タマは俺の肩に乗ってきた。

 いっぱいいっぱいだと呟いたら、俺の頬を摩ってくれた。

 命だったタマが拭った肉球は、気持ちよかった。

 

『……にゃー』

 

 どうして俺を死なせてくれないんだ。

 もう俺の事なんて忘れて、次の飼い主と仲良くやれよ。

 お前が成仏できないのは、俺も辛いんだよ。

 

『……』


 そして、タマは消えてくれない。

 ずっと俺の隣で摩り続けた。

 包丁を握ろうとしたら、すかさずその手をひっかいて。

 

 俺の手の甲は引っ掻き傷だらけで。

 君が残した傷だらけで。

 それを拭う様に、タマの優しさがぺろぺろと癒してくれた。

 

『……にゃー』


 タマは、ビリビリになっちまった絵をいつまでも見てくれた。

 なあタマ、俺は見せたかったよ。

 ちゃんとした芸術家としての絵を、お前に見せたかったんだ。

 

 まだ、間に合うかな。

 お前が本当にいなくなるまで、まだ夢は間に合うかな。

 

『にゃーお』

 

 タマは消えた。

 破けた絵の中に帰ったように、キャンバスの向こう側で俺を見ていた。

 結局、あのタマが幽霊なのか、幻覚なのか最後までわからなかった。

 

 そして、俺の自殺願望は消えていた。

 絵を誰も見てくれなかったけど、まだ、見てくれる友がいる。

 

「絵、描いてやる」


 俺は破けた絵を拾って、真っ白なキャンバスを探しに行った。

 

 

              ■         ■

 

 

 今から、俺は語る。

 

「本日はお時間を取っていただき、ありがとうございます。こちらから伺えず、上京させてしまい申し訳ないです」


「いえ。お時間が取れずすみません。月刊芸術さんには、私の絵に最初に注目して頂いた恩があるのに」


 ヒーローインタビューは、初めてだった。

 レコーダーが起動する。

 俺は緊張して、記者さんのインタビューに答える。


「改めまして、今回は日本絵画コンクール金賞、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 記者さんは準備体操がてら、簡単な質問から入ってくれた。

 テンプレートの様な、受賞時の感情。その後一日の感想。

 妻には何て報告したか。もうすぐ生まれる子供の話もした。

 

 次第に話は、絵の内容にも触れていた。


「そういえば、この金木犀は一体なぜ書こうと思ったのですか?」


「タマはよく、隣の公園に咲く金木犀をよく見てたからです」


「タマ……。この絵で、主人の手に絡みつく三毛猫の事ですね」


「はい」


「あなたが書いた絵、私はここが好きでしてね。包丁を握る手が、どこか脱力している様に思える」


「おぉ……実は審査員の方は、あまりここは評価されなかったんですよね。迫力がない。それが金賞との差だと」


「でも、私はここからあなたの魂を感じます」


「はい。俺もここに魂をかけました」


「この包丁を握る手は……あなたの、ものですか?」


 俺は、少しだけ黙った。

 流石に記者さんも罪悪感を感じたのか「失礼」と話を戻そうとした。

 でも俺は、タマの事を話したくなった。


「あまりここから先は記事には載せていただきたくないのですが」


 記者さんは、レコーダーをこれ見よがしに切ってくれた。

 もしかしたら記者という仕事としては有るまじき行為だったのかもしれないけれど、俺個人はとても嬉しかった。


「……分かりました。ここからは、個人として聞く事とします」


「もう10年前になりますか。大学生なのに恥ずかしながら、鬱病を患っておりましてね」


「なんと鬱病を。そうでしたか」


「医者にアニマルセラピーを勧められまして。タマを引き取ったのは、その時です」


「効果は聞くまでも無いようですね」


「タマは、俺に魔法をかけてくれました。でも、結構荒っぽい方法で」


 俺は失礼にも、重要な所を省略していた。

 一緒に過ごしたと言えるのは、たったの一年である事。

 けれど、死んだはずのタマが半年間現れた事。

 今はもう、会えなかった事。

 結局絵でも表現できない不思議が何だったのか、分からない事。

 

 ただ多分。

 大事なのは、次の事だけだ。


「俺が死のうとした時、必ず近くに寄るんです。俺が死のうとした時に限って」


「……」


「夢も命も諦めるな。そんな事、私が許さないぞ、って簡単に言ってくれました」


「……」


「だけど、俺はあの子を踏み越えて、死ぬ事は出来なかった」


「……大事に、想ってたんですね」


 暖かい気持ちになってきた一方で、俺は自然と顔を上げる事が出来なくなっていた。

 こみ上げてくる感情が、抑えられない。

 でもそれは死にたいという感情ではなく、純粋な悲しさだった。


「俺が絵を描くと、あの子は喜んだ。だからあの子の絵を、もっと描いて見せてあげたかった」


「……」


「あの小さな体には、もっと未来があった筈なんだ。あの小さな体には、尊い価値があったんだ」


「……」


「でもあの子は、それを自分の為には使わなかった」


「……」


「あの子は俺の命に、ずっと寄り添って、すりすりしてくれてた。俺の命を大事にして、価値を認めてくれていた」


「……」


「あの子がいたから、俺は俺の命を、少しは大事に出来た……」


 記者さんはハンカチを無言差し出してくれた。

 礼を言いながら、涙を拭う。

 

「この絵は、恩返しだったんですなぁ」


「はい」


 テーブルの上に置かれた、一枚の絵。

 そのタイトルに、俺は一つのメッセージを残した。



『命の尊さを教えてくれた友へ』

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