第240話 本能


 産婆さんとの話が終わり……昼食も終わり、その後の休憩を経てテチさん達が庭での運動を再開させる中、大量の積み重なった食器を台所で洗っていると、レイさんがふらっとやってきて隣に立って……洗い物を手伝いながら声をかけてくる。


「それじゃぁここからは、獣人の男からの助言タイムだな。

 未婚のオレじゃぁ頼りないかもしれないが、これでも結婚を目指して色々と勉強している身でね……獣人の夫、父となる際に気をつけなければならないことを伝授してしんぜよう」


「それは……ありがとうございます。

 とても助かりますが……結婚前ならまだしも、このタイミングで教わらなければならないことなんてあるものなんですか?」


 そう俺が返すとレイさんは、半笑いというか半分凍った笑みというか……少しだけ頬を引きつらせながら言葉を返してくる。


「ああ、ある。

 いやまぁ、本来なら結婚前に教えておくべきだったんだが、お前達の結婚それ事態が衝撃的だったからな……とかてちが妊娠したなんて言われるまで忘れちまってたんだよ。

 ……まぁ、今からでも間に合う話だから心して聞いておけ。

 ……良いか、獣人の女性はだな……子供が出来るとだな、とても……びっくりするほどに気が立ってしまうんだ」


「……はぁ? いや、えっと……それは人間の女性でも同じなのでは?

 マタニティブルーとか、そういうアレですよね?」


「そうじゃなくてだな……いや、もしかしたらマタニティブルーも影響しているのかもしれないが、オレがしたいのはそういう話じゃなくて……子供を守ってやろうという野生の本能が爆発すると言ったら良いのか神経質になり過ぎると言ったら良いのか……ほら、あれだ。

 カラスとかが子育ての時期に巣に近付く人間を攻撃するとか、子育て中の母熊は気が荒いとか、そういうアレだよ、そういうアレ……実椋もテレビとかでそういった話を聞いたことがあるだろう?

 もしかしたら人間の女性の心のどこかにもそういった部分はあるのかもしれないが……だけども武器を手にして戦おうとしたりだとか、顔見知りじゃない人間を威嚇したりだとかはしないだろう?

 それが獣人の女性の場合は違ってな……かなりハッキリと、豹変したんじゃないかってくらいの変化があるから……今から覚悟をしておいてくれ」


「……えぇっと……そ、その変化は出産まで続くんですか? それともまさか子育てが終わるまで……?」


「いや、そこまでは長くないそうだ。

 個人差はあるが授乳期間が終われば自然と、ゆっくりと落ち着いていく……らしい。

 最近になってとかてちが体を鍛えようとしていたり、懸命に運動していたりするのは、もちろん安産のため健康のためでもあるんだが……それ以上に母性本能というか、母性防衛本能が暴走しているからだろう。

 あるいはそうやって体力を消費することで、気を散らしているというか、本能のままに暴走しないように自分を戒めているのかもしれないな。

 ……お前たちってその、夫婦喧嘩……というか知り合ってから喧嘩したことってあるか?」


 そう言われて俺は洗い物の手を止めて虚空を見つめながら考え込む。


 喧嘩……喧嘩……。


 したことがあるような……無いような……。


 以前CMで見たのをきっかけに始まったピザの具についての論争とか……畳部屋にベッドはありなのかどうかという話とか……パジャマの材質についてとかも、結構言い合ったような……。


 でも怒鳴り合ったり貶しあったりしたことは一度もないような……。


 ああでもあの時は確か―――。

 

「―――シュウマイにかけるのはカラシ醤油が良いか、ケチャップが良いかで結構な時間言い合ったことはりましたね」


 考えて考えて、洗い物を再開させながらそう言うと、レイさんは一瞬呆れ100%の顔になってから、ホッとため息を吐き出し安堵の表情となり、手についた水気をエプロンでよく拭き取ってから、俺の両肩を掴んで真剣な声を投げかけてくる。


「大した喧嘩したことないならそれで良いんだ、夫婦仲が良いに越したことはないからな。

 そして食い物だとか映画の好みだとか、そういったことで言い合うくらいのことも、まぁ夫婦ならよくあることなんだろうから全然構わない。

 だが良いか、決して……決してだ、子供のことで言い合うなよ、子供に着せる服はこれが良いとか、ベビーベッドはこれが良いとか、オモチャはこういうのが良いとか、そういうことで争うんじゃないぞ。

 子供のことに関することはどんな小さなことでも、くだらないことでも意見するな、言い合うな、喧嘩なんて以ての外だ。

 とかてちがそうなるかは分からないが、そういった喧嘩すら自分の子育てに対する侵略と見なす場合があるそうでな……仮にそうなったら両親が出張ってきて、授乳期間が終わって落ち着くまでの別居を強制するからな。

 妊娠中、子育て中に別居なんてとんでもないと思うかもしれないが……それが一番『平和』で『安全』な解決法なんだ。

 ……先輩諸氏曰く、子供に関してはとにかく絶対服従することが家内安全のコツ、だそうだ」


 レイさんの言葉には……特に最後の方には特別力がこもっていて、レイさんが言わんとしていることを十分に理解した俺は、洗い物を続けながら大きく頷く。


「よしよし、素直でよろしい。

 ちなみにだが獣人の男にも似た部分があって、本能のせいか過剰な程に『群れ』を守ろうとするんだ。

 群れを仲間を、自分の家族を守るためなら自己犠牲を厭わなかったり、犯罪スレスレどころか犯罪にまで手を染めようとしたりする。

 ……実椋は今、犯罪はよくないが家族を守ろうとするのは良いことだと、そんなことを思ったかもしれないが……対象が必ずしも家族とは限らなくて、友人や近所の人、町内会の人なんかも守りたいと考えて本能に負けて暴走することがあるんだよ。

 そして自己犠牲をしようとして……本来優先すべき家族にまで被害を及ぼしそうになることがあって……なんとも本末転倒だよな。

 ひどい時には子供より群れを、なんてこと言い出して子供を優先しようとする母親とひどく衝突していまい……お互い視線がズレてるというか見ているものが違うというか、そういった価値観の違いで離婚にまで至ることもあるんだ。

 だからまぁ、オレ達獣人は後輩諸君……これから結婚、出産って若者達にこういった助言をするようにしているって訳さ。

 実椋は人間だからそういう心配は無いと思うが……もしとかてちといくら言い合っても、いくら喧嘩しても分かり合えないなんてことになったら、今の話を思い出してお互いに冷静になって、同じものを同じ角度から見られるように、寄り添って視線を合わせるようにするんだぞ」


「……とても参考になる助言をありがとうございます」


 俺がそう返すとレイさんはニカリと笑って、


「まぁ、結婚に関しちゃぁオレの方が後輩で、これから色々と助言をもらう立場になるかもしれないが……その時はよろしく頼むよ」


 と、そんなことを言ってから、残り少なくなった洗い物へと手を伸ばすのだった。

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