第182話 真空パック
ホテル備え付けのキッチンは、上等過ぎる程に上等なシステムキッチンだった。
流し台が大きく、調理スペースが広く、コンロは大きく火力が強く……これ程のキッチンがホテルに備え付けられているとはと驚いてしまう。
そもそもホテルにキッチンがあること自体がおかしいことのように思えるのだけども……まぁ、うん、このホテルのこの部屋は色々と例外的存在なのだろう。
そんなキッチンに到着したならまずは、布巾を用意して水で濡らして、軽く全体を拭き取っていく。
掃除はもちろんホテルの職員さん達がやってくれているのだろうけども、それでも自分でしっかりとやっておかないとどうにも落ち着かないからだ。
そうやってキッチン全体を拭き掃除したなら、キッチンスペースに用意してあったエプロンをし、手をしっかり洗い……そうしてから流し台の上や下にある収納スペースに手を伸ばし、中にある調理器具を確認していく。
「……本格的な中華鍋に、ホットサンドメーカー……電動チョッパーに電動ミキサーに、ミンサーまであるぞ……。
え!? あ! 包丁がダマスカス包丁だ! コレって確か1本で数万円するやつ……。
うぉぉぉぉ、よく見たらフライパンも鍋も、おたままでが高級ブランドのやつじゃん!」
確認していくうちに自然とそんな言葉が漏れて、どんどんテンションが上がってきて、それらの道具を引っ張り出して、やれ何を作ろうかあれを作ろうかと頭の中でレシピが次々と現れていく。
そうして各レシピの材料が頭の中で高速回転し始めて……そんな俺をすぐ側で見ていたらしいテチさんが、すっと真空パック入りのソーセージを差し出してくる。
「あ、うん、はい……ソーセージでしたね……」
一気にテンションを下げて、ノーマルに戻しながらそれを受け取り……ちょうど良い大きさのフライパンを引っ張り出したなら、真空パックを開封し、フライパンの中にソーセージを入れる。
そうしてからフライパンに水を注ぎ……多すぎない程度に水を入れたなら、そのフライパンをコンロに移動させて強火にかけていく。
「……珍しい茹で方をするんだな? というか茹でるのなら鍋で良いだろうに」
その様子を見ていたテチさんがそんな事を言ってきて……俺は「まぁ見ていてよ」と返してから、菜箸を手に取り、フライパンの中でソーセージを転がしていく。
強火にかけたのもあってフライパンの中の水はあっという間に沸騰し、沸騰した水があっという間に蒸発していって……水がだんだんと減っていき、そのうちに無くなり、茹でから炒めへと調理が自然と変化することになる。
「まずは茹でて、それからさっと炒めて。
皮が破けないうちにさっとお皿に盛り付ける。
ただ焼くのも良いし、炒めるのも良いし、茹でるのも良いんだけど……こうやって組み合わせると特別美味しくなる……らしいんだよ。
後は穴をあけないように箸やトングで挟んで食べるって感じだね。
味付けは……まぁ、良いソーセージっぽいからいらないでしょ」
と、そう言ってソーセージを盛り付けたお皿をテチさんの方に差し出すと、テチさんは「なるほど」とそう言って頷き……そうしてからさっと手掴みでもってソーセージを食べてしまう。
「ま、まさかの素手とは……」
その行為に驚き思わずそんな声を上げていると、匂いを嗅ぎつけたらしいコン君とさよりちゃんがキッチンへと駆けてきて……そして二人が流し台の上に駆け上ってくるのを待ってから、二人の分の調理を開始する。
「真空パックは現代の保存食の代表だよね。
今じゃぁ家庭用の真空パック機なんかもあって気軽に作れて……それでいて保存性はかなり高い。
もちろん欠点もあって、過去には食中毒事件なんかも起きているから十分に注意する必要があるんだけどね」
調理をしながらそんなことを口にすると、興味津々といった感じのコン君達が同時に首を傾げながら『どんな食中毒?』との問いを投げかけてくる。
「コン君には前にも説明したけど、ボツリヌス菌って菌がいてね。
土の中とかに当たり前にいる菌で……土を使ってつくる蜂の巣から採れるハチミツの中にも多く入っているとされていて、ボツリヌス菌は嫌気状態……つまりは空気の無い状態になると毒を出す菌なんだよ。
空気がある所では毒を出さないから、普通にしていたら中毒にはならなくて、それどころか健康に良い部分もあるとかで美容なんかにも利用されているんだけど……空気を抜く保存法の真空パックの中にもしこの菌が入っちゃうと、それはもうこれでもかと毒を出しまくっちゃうんだよ。
そうやって真空パックの中に毒が溜まりこんじゃって、それを知らずに食べちゃったりすると……場合によっては命を落としちゃうって訳だね。
昔、レンコンの料理を真空パック販売しているとこがあって、レンコンってほら土っていうか泥の中に埋まっている野菜だから、ボツリヌス菌がたっぷりついちゃっていて、それが真空パックに封じ込められちゃったものだから……まぁ、うん、そういうことになっちゃったんだね」
赤ん坊にハチミツを舐めさせていけないというのもこの菌が危険だからで、赤ん坊の弱い胃酸では胃の中に入り込んだ菌を殺しきれず、胃や腸の中で空気が少なくなった所で毒を吐き出してしまうからで……ソーセージの中で似たようなことになって毒を出すこともあるし、嫌気状態なんてそうそう起こらないだろうなんて油断をしていると、そこを狙ったかのように猛威を奮ってくるのがボツリヌス菌だ。
対策はとてもシンプルで嫌気状態にしないか……100度以上の温度で1~2分加熱することで、菌を不活化させるかのどちらか。
真空パックを自分でする場合には、ここらへんのことをしっかりと気をつける必要があるだろう。
「まー……真空パック機は、うん、今では通販で当たり前に売っていて、お安い値段で簡単に手に入るんだけど……真空にしたからそれで安全とは思い込まないようにするのが大切って感じかな。
しっかり加熱して、当然しっかり真空パックされているのかも確認して……冷蔵庫なり冷凍庫なりに入れるようにして。
そして賞味期限以内に食べてしまう……美味しく食べるのも大事なことだからね」
なんて説明をしながらソーセージを炒めたなら盛り付けて、盛り付けたものを流し台の上のコン君達の方へと差し出すと……コン君とテチさんがいかにも思うところがありますというような笑顔をこちらへと向けてくる。
「え、何? 何か俺、変なこと言った?」
その笑顔がどうにも不気味で、そんな言葉を口にすると……テチさんとコン君は同時に似たような言葉を口にしてくる。
「いや、実椋は旅行中でも保存食のことを話すんだなって」
「ミクラにーちゃんはホテルでも保存食なんだねぇ」
そうしてテチさんとコン君と、それとさよりちゃんは、それぞれの顔を見合って笑顔を大きくしてから、なんとも楽しそうにからからと笑い声を上げるのだった。
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