日本よ
鷹鷺鴛鴦
第1話
関根和子は生粋の日本人で祖父母は徳島県出身だ。五十年前にアメリカのカルフォルニア州に一家で移住をした。だから厳密には日系アメリカ人ということになる。移住自体古い昔話で、五十年前の和子は幼すぎてまったく覚えていない。着物を着て広大な広場で祖父母に抱かれている写真が残っている。が、それも思い出せない。ただ祖父母たちからは「日本人であることを誇りに思え」 と言われて大きくなった。
夫の太朗とは同じ年で、貿易会社の職場で遅い結婚をした。現在は九才になる万里がいる。彼女はジュニアスクールの三年生だ。和子たちは街の一角を占める十階建ての古いアパートの一室に住み、慎ましく暮らす。祖父母、父母はすでに鬼籍だが、徳島に親戚がいて数年に一度は日本に行ってお墓参りをするのを楽しみにしている。このアパートには、日本人以外にもアジアから来た移民が多い。特に中国人。次いで韓国人。彼らとも仲良くしているが、ここ数年政治関係のトラブルが続き、友情にヒビが入るのを心配している。その上、このコロナ禍だ。中国発祥と思われているが確定ではない。アメリカにはいろいろな人種がいるが、すべて移民だといっても差し支えないだろう。ただし、アジア人に関しては日中韓をひっくるめて同一視はされる。アジア人と見れば、中国人とみて「近寄るな」「帰れ」 と怒鳴られることも多くなった。二千二十年に出たブラック・ライヴズ・マター、通称、「BLM」は、アフリカ系アメリカ人に対する暴力や人種差別の撤廃を訴えるものだが、つい先日従兄弟の武雄が会社帰りに黒人たちに囲まれ、「国へ帰れ」と殴られそうになったという。和子は昨今の治安の悪さに不安を抱いている。
BLMよりも先に同じアジア人同士とはいえ、以前からあった微妙な問題も不安材料から消えてはいない。それは数十年前に中国と韓国から始まったものだ。日本の新聞が日本の恥部の歴史として報じ、次いで時の首相が中国と韓国に対して種々の謝罪をしてから「それ」 が始まった。世界中のあちこちで、じわじわとその影響が出てきている。残念ながら広がりこそすれ、狭まりはない。今こそアジア人は仲良くとも思うが、個人の力ではどうにもならぬ状況を哀しく思う。
そんな状況であっても、和子たちの周囲で政治的な話題が出るわけではなく、表面上は穏やかだ。マスク必須の時期でも、適切な距離を保ちつつ、親睦会、クリスマス会、イースター祭、社内でのおつきあいがそれなりにある。しかし、アジア系アメリカ人の間で政治の話題は一切出ない。
一気に変わってしまったのはやはりコロナ禍のせいもある。この困難な状況にもかかわらず、和子たちの住む市にも、例の慰安婦像が建てられた。しかも強制連行された男性像と慰安婦にされたという少女像が一対になっている……和子たちを含めた日系アメリカ人はこの建設計画を知った時点から署名運動もして抵抗した。が、市議会で可決されてしまった。
万里は普通にジュニアスクールに通学していたが、突然登校拒否になった。理由は同じアパートに住む親友のサランとリンユとのケンカらしい。が、万里がなにもいわぬのでそのままだ。サランは在米韓国人のクラスメート、リンユは在米中国人の同じくクラスメート。日本の幼稚園にあたるチャイルドクラスからの友だちだ。もちろん双方の両親とも面識がある。
しかし仲たがいをしてから万里の食欲も落ち、家でも気分が沈みがちになった。少々の熱があっても学校には行きたがる子供であったのに、ベッドから離れない。無理に行かせようとすると吐くので休学させている。そのうち学校や職場がリモートワークになったのは、ちょうどよかったともいえる。
和子は在宅ワークのあいまに万里と絵を描き日本語の音読もする。一緒に料理をする。そのうちに万里も落ち着いてきた。しかし、クラスメートの誰もが万里にメールをくれるわけではない。いつも陽気な担任の先生からもメールがない。やはり気になる。いじめの原因はどう考えてもわからない。思い切ってサランたちの両親にも電話で聞いたが彼らも「わからない」 というのみだ。
寒さも緩んでくると万里の誕生日だ。あいかわらず感染が怖いが、たまには外食でささやかなお祝いをしようと決めた。前から行きたがっていたリトルトーキョーのレストランを予約した。ホームページを見ると感染予防のため、予約必須、マスクと消毒必須とある。そういう警戒を強くしている場所なら安全だろう。予約したことを告げると万里は喜び、和子もうれしかった。
当日、万里は日本在住の従姉妹の中古の着物と菊のアクセサリーをつけた。サイズはぴったりだ。大ぶりの藤の花のデザインはアメリカではまず見られない。良く似合うと太朗は褒め、カメラを向けていろいろなポーズを撮らせる。レストランでも万里はいつもよりよく食べた。万理の笑顔は和子と太郎の心をなごませる。
しかし帰途で三人の酔っ払いにからまれてしまった。同じアジア系だ。彼らはまだ若く、服装はだらしなかった。マスクもしていない。まだ昼下がりとて人通りはある。かれらは万里に話しかけた。もちろん英語だ。
「それは日本の着物だな。とすると、お前は日本人だな?」
大きなぬいぐるみと仕掛け絵本を持った万里は、後ずさりをしながら「イエス」 とうなずく。酔っ払いたちは目配せをした。不穏なものを感じた和子は万里の手を引っ張ったが遅かった。彼らはいきなり表情を変え罵声を浴びせる。
「日本人は昔、中国と韓国にひどいことをしたことは知っているか?」
「アメリカに原爆を落とされたと被害者ぶるが、中国の南京大虐殺と韓国人への強制連行と慰安婦はどう思う?」
「このガキ、意味わかるか? 日本人は大勢の中国人と韓国人を殺したぞ」
「南京大虐殺ではなんと三十万人も殺したぞ」
「韓国人を拉致して、日本に連れてきて安い賃金で働かせたぞ」
「何もわからぬ韓国の少女たちを無理やり戦地に連れてきて日本人の兵隊に相手をさせたぞ」
「ちゃんとした謝罪はしてない、賠償金も払ってない」
「俺たちは日本人のしたことは永遠に忘れない」
「だから俺たちにも賠償金を払え」
「お前たち日本人を千年恨む」
「独島を返せ」
「尖閣も返せ」
「お前は俺たちに今から殺されても文句は言えぬぞ?」
彼らは万里の肩をつかみ、逃げようとした万里の袖を引き裂いた。和子も悲鳴をあげる。夫の太朗が彼らを万理から引きはがすも、顔を殴られる。二発、三発。誰かが「やめろ」 と叫ぶ。すると酔っ払いは肩を組み、周囲をながめる。眉をひそめて立ち尽くす人々をしり目に笑いながら去った。万里は太郎にしがみついて泣きじゃくる。太郎の鼻と口元から流血がある。和子もしゃくりあげながらミニタオルを出す。乱れた金髪の女性がシルバーカーを引きずりながら近寄ってきた。大きなマスクに大きな眼鏡がかかり、大きな目玉をぐりぐりさせながら話す。わかりにくいが日本語だ。
「だぁいじょうぶ。でぇすか。きぃもの。ぐぅしゃぐぅしゃ」
和子は万里を抱きよせつつ、大丈夫です、と日本語で返事をする。女性は悲しそうに「かぁわいそう。あぁなたたちは、なぁにも、しぃていないのに」 と首を振りながら去る。
次に近くにいた黒人カップルも英語で話しかけてきた。ノーマスクだ。
「彼らが本当のことを言うにしても、こんなところでわざわざ大きな声でこんな子供にいうことはないのにね?」
太朗が「それは違う」 と説明しかけたが、カップルは肩をすくめて去る。和子たちはひっかかるものを感じながら万里を抱いて車に乗せ帰途につく。帰宅後も万里はずっと泣いていた。せっかくの食事も吐いてしまう。欲しがっていたプレゼントも玄関に放り出したまま、部屋のすみでうずくまる。ペットの猫が心配そうによってきても見向きもしない。和子も楽しみにしていた万里の誕生会をめちゃくちゃにされて泣きたいぐらいだ。やがて万里は泣きはらした顔で和子たちに問う。
「お父さん、お母さん、昔の日本人はどうして中国人や韓国人にひどいことをしたの? 中国人を三十万人も殺したってひどいじゃないの。だから私がこういう目にあうのよ」
和子はびっくりする。そんな受け止めをしているとは思わなかった。今までに家庭で政治的な話題をしたことがないことに反省だ。太郎が苦渋の表情で万理に話しかける。
「違うよ。向こうのほうが間違った歴史を正しいと思い込んでいる」
万里は太朗の顔を見上げる。涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。太朗は万里を抱きしめて説明する。
「……中国側は、二十万とも三十万とも、時には四十万人を虐殺されたと主張するが、本当は一万二千人だ。日本側の記録ではそうなっている」
万里は驚いて泣きやむ。
「私が聞いた話と全然違う。じゃあ、向こうのほうが間違っているの? ほんと? でも数がぐっと少なくなったけど虐殺があったのは本当なのね? だから日本人が嫌われるのね?」
和子はこの問題をそのままにはしておけないと感じた。これは今、話し合うべき話題だ。いや、もっと早くに教えるべきだった。今日の出来事を思えば説明が遅すぎた。万里は眉を寄せて質問を重ねる。
「中国や韓国の人たちのいうことが間違っているなら、どうして強制連行の男の人や慰安婦にされたという女の人の銅像がこの国のあちこちで立っているの?」
「私たちも反対したけれど、銅像を建ててしまうのよ」
「そこまでするの? 最近アジア人の私たちはアメリカ人から、帰れって言われるよね。でも、同じアジア人同士でも中国人や韓国人は、日本人が嫌い? 学校のお友達もパパやママの会社の人たちも。私はアメリカ人だけど日系だから日本人とみなされる。それで嫌われるのね。日本人は、世界中の嫌われ者なのね?」
「私たちは昔から仲良しよ。そんなことを言われたのは一度もないでしょう」
「本当のことをいうにしても子供にいうことはないって、言った……ということは、みんなが日本人を残酷で野蛮な人だと思っているのでしょ?」
和子は太朗と顔を見合わせて絶句する。まだ幼いと思っていた万里がこんなに周囲の状況を理解しているとは思わなかった。万里は泣きながら訴えた。
「……教えてあげる。サランとリンユがこういったの。漢字もひらがなも全部中国と韓国から来ているというのに、日本人は恩知らずって。校庭のソメイヨシノの桜の木も本当は日本のものではなく、韓国から奪ったものだって。その上侵略して、何もしていない人間は赤ちゃんまで殺したって。南京大虐殺もうそばかりついて、やってないというくせに日本人はいばるなって。学校中の中国人や韓国人のコたちも怒って私にそういうの。それでもう友だちをやめようって」
「不登校の原因はそれだったのね。でもそれも違うのよ。間違っているのは向こうよ。日本の文化は中国や韓国から来ているのもあるけど全部がそうじゃないわ。サランが間違っているのよ」
「じゃあ、なぜ間違っているのがわからないの? どうして私の方が恩知らずと言われるの? 私はどうしたらいいの?」
「間違っているのに、中国と韓国にひどいことをして、ごめんなさいといった政治家がいたの。それ以来困ったことになったの。新聞も間違ったことを報道してそれがそのまま世界中に広まっちゃったの」
「間違ったことで政治家が謝って、間違ったことを新聞が広めたの? どうしてそんなことをするの? その人たちは日本人なの? それで平気なの? それで私が責められるの? どうしてなの?」
万里は体を震わせてもっと大声で泣いた。
「冬の寒い日に私は先生に呼ばれて体を触られたの。昔の日本人はこういうことを韓国人の女に無理やりやらせるために拉致をしたから覚えておきなさいと」
和子は体中が震えてきた。
「なんですって」
「先生が笑いながら言ったの。慰安婦はこういうお仕事だったよって」
万里は大きく目を見開いて和子に訴える。
「私だけじゃない。小夜や明美……日本人の女の子はみんなやられた。みんなこれからもっと復讐される。中国と韓国の慰安婦になれって。日本人の男の子たちは殴ったり蹴ったりされる。お前らは中国人と韓国人に何をされても文句は言えないぞって。サランたちは、さわられている私を見て笑った。助けてくれなかった。私は二度と学校へ行きたくない!」
「ジュニアスクールでそんなことが……うそでしょ……どうしてもっと早く教えてくれなかったの」
「これがはじまったのは、コロナウイルスがはやりだしてからよ。最初は中国人がいじめられていた。コロナウイルスを最初に広めた国が大きな顔をするなって。でも、いつのまにか日本人がいじめられるようになった。お母さん、私たちは口止めされていたの、親に教えたら親の仕事もなくなるぞ、ここで暮らせなくなるぞって。俺たちに追い出されるぞって」
和子はあまりの話に声をあげて泣いた。万里は再び顔を伏せてそれきり話さない。太朗はこぶしを握ったままだ。
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