午前の後影

花色 木綿

午前の後影

 世界は単純な記号と決定で出来上がっている――。



 これは、三島由紀夫の小説『午後の曳航』の中に出て来る一節だ。十三歳の少年である主人公・登が属しているグループの首領が、登率いる仲間たちに向かって発した台詞である。


 世界は単純な記号と決定によって――、確かに首領の言う通り、この世はとても単純だ。善か悪かで簡単に分けることができるのだから。


 その枠組みで人類を分類したならば、僕は間違いなく悪である。いや、ほとんどの人間がきっと悪に分類されてしまうことだろう。何故なら人間は罪深い生き物であり、悪に魅入られ、惹かれているからだ。


 僕がこの小説と出会ったのはおそらく運命であり、宿命であり。必然的なできごとであったのだ。


 いつの時代にも、登達のような少年はいる。大人はそのことに気付いていないだけだ。いや、子供は純粋無垢で真っ白で、一滴の混じり気もない綺麗な生き物だと、そう信じたいだけなのだ。そう信じていたいだけなのだ。かつての自分達がそうであったんだと、思い込みたいだけなのである。





 僕の父は不倫している。しかも、相手はあろうことか、僕の担任の教師であった。


 母はこのことを知らない。母にとって父は、自慢の夫であった。


 もしこの事実を母が知ったならば、彼女はどうなってしまうだろうか。発狂するだろうか。ヒステリーを起こすだろうか。泣き叫ぶだろうか。それとも、父や愛人である教師を殺してしまうだろうか。


 かつての僕自身も、父のことは誇りに思っていた。働き者で子供思いで、世間からは理想的な父親像そのものだと。僕はそう思っていた過去の僕を、僕自身の手で葬り去った。


 僕は心の中で、空想の中で、何度も二人を処刑していた。何度も、何度も、二人の心臓にナイフを突き立て、その首を撥ね。その死体を太陽の下に晒し、天罰だと世間に知らしめる――。


 なんて恍惚とした景色なのだろうか! きっとこの風景以上に美しい絵は、世界中探したってありはしない。


 そんな時だ。僕が三島由紀夫の書いた、『午後の曳航』と出会ったのは。僕と同じような年頃の少年達。彼等は自らの手で、自分達を裏切った竜二を処刑することに決めた。


 僕はこの瞬間、運命だと思わずにはいられなかった。しかし、同時に僕は絶望した。失望した。なんせ物語は、処刑される竜二が眠りへと堕ちる最中で終わってしまっているのだから。


 僕が一番知りたかったのは、その後の登達の処遇である。登達は、本当に竜二を処刑したのだろうか。その後、死体をどう処理したのだろうか。死体は、太陽の光を浴びられたのだろうか。彼等の栄光は、世間に持て囃されたのだろうか。


 いや、違う。僕が本当に見たかったのは、房子の、登の母親であり、また竜二を、英雄を貶めた悪女の絶望した姿であった――!


 曳航とは、船が他の船や荷物を引いて航行すること――。


 曳航、曳航、そうだ、後へと続け。そう、殺してしまえばいいのだ。処刑だ、罪人は罰を受けるべきだ。


 父の罪――、それは僕と母を裏切り、騙していたこと。罪人は罰を――……、父が受けるべき罰は、死刑である。決して許してはいけないのだ。





 この日から僕は、どうやって父と、それから父の不倫相手である教師を殺してやろうかと計画を練り出した。


 本当の殺意ほど、心の奥底に隠しているものだ。


 僕がこの計画を実行した後、僕の部屋から計画書と名の付いたノートが見つかり。僕の異様に映るだろう殺意は、その時になってより鮮やかな色彩を持つ。おそらくマスコミ達によって、同級生達は、『真面目で頭が良くて、とてもそんなことをする子には見えませんでした……』と、戸惑いを含んだ声で僕のことを語るだろう。


 だが、殺意は誰もが持っているものだ。なのに、どうして世間は、そんなにも不思議がっているのだろうか。それは人間の本能で、生物が生き残る為には必要なものであるというのに。


 父が服用している睡眠薬を気付かれない程度にくすね続け、今では十錠ほど貯まっている。この睡眠薬で父を眠らせ……。その後、どうやって息の根を止めてやろうか。やはり彼等と同様、その死体を丁寧に解剖してやろうか。


 心臓は握り潰し、腸は丁寧に取り出して猫に食べさせ。肺は、どうしようか。海にでも投げ捨てようか。


 僕の胸は、異様に高まった。血が、真っ赤な鮮血が、僕の手を、あの青空を、僕の世界を色鮮やかに降り注いで塗り替えるのだ――……!


 僕のこの殺意は、世界で一番純粋で美しい殺意だ。一片の混じり気のない、透明な真水のように透き通っていて淀みのない。


 僕の瞳からは、涙一滴さえ流れはしないのだから。





 そして、とうとう裁きの日は来た。


 その日は朝からどくどくと、心臓の音が耳元で聞こえ続け。一日中、背筋に冷やかな熱が迸る。


 僕は息を呑んで、その瞬間をただひたすらに待ち続けた。


 だが、しかし――……。


 その日、殺すべく父親を家で待っていた僕の元に、一本の電話がかかってきた。父が、車に轢かれて即死したと。


 僕は永遠に父を葬る機会を失った。あの女教師を社会的に罰することもできない。教師は大粒の涙を流しているが、僕は知っている。彼女は直ぐにも父のことなんて忘れ、別な男に抱かれることを。登達の嘲笑が、いつまでも耳元から離れず鳴り止まない。


 神様は残酷だ。せっかくの玩具を僕から取り上げてしまったのだから。僕はその機会を永久に失ってしまったのだ。


 それは、処刑よりも厳しい罰だ。夢にまで見た栄光の味を、僕は一生知り得ないのである。


 そう、空っぽになった僕の手元に残されたのは、枯れ果てた花束だけであった。

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