第132話
「今日のお勉強ですが」
こうして、ゆっくり腰を据えて教育するのも、久々のように思えた。
ルイーゼは見慣れたエミールの部屋で扇子を広げる。
せっかくエミールが外に慣れてきたのだ。座学ばかりではつまらない。
ルイーゼはニマリと笑い、今日の教育内容を突きつけた。
「馬目線ですわ」
「う、うまめせん?」
ミーディアの言葉を借りてみたが、エミールにはピンときていないようだ。
ルイーゼはコホンと咳払いして、ジャンに片手を差し出す。
「よろしゅうございます、お嬢さま。お納めください」
「あら、これではなくてよ?」
ジャンがスッと渡してきたのは、長い縄だった。勿論、縄跳びではない。
ルイーゼはニコッと笑って、流れるように軽くジャンを縛りあげておいた。
「よろしゅうございますッッ! お嬢さま、大変よろしゅうございます!」
もしかして、この流れを狙っていたのだろうか。ルイーゼはジャンを睨みつけておいて、改めて、用意していた紙を取り出す。
「これですわ」
書かれている文字は「乗馬」である。
日本語で、我ながら達筆で美しい字だ。
筆がなかったので適当に動物を狩って、毛を拝借した。令嬢人生では初めてのハンティングは実に楽しく、心が躍った。ふふ。肉を斬る感覚、はやり快感ですわ。
「なんて書いてあるの?」
「乗馬ですわ」
日本語なので説明してやると、エミールの顔が蒼ざめた。
「え、え、えええ。も、勿論、ユーグと一緒に乗るんだよ、ね?」
「いいえ、おひとりです」
「じゃ、じゃ、じゃじゃじゃじゃあ、ルイーゼが一緒に乗ってくれるの?」
「いいえ、おひとりです」
「ミーディア!」
「いいえ、おひとりです」
「セザール、カゾーラン……父上!」
「いいえ、おひとりです」
エミールが久しぶりにガタガタと足を震わせて、カチカチと歯を鳴らす。目は潤んでおり、涙がこぼれそうだ。
この加虐心をくすぐるイラつく表情、久々に見た。
「相乗りはしっかり出来ておりますので、エミール様が一人で乗れるように訓練するのですわ。大丈夫。もう、厩舎の馬番様には言っております。大人しくて乗りやすい馬を見繕ってくれていますわ」
ルイーゼはサラリと笑ってみせる。
「ひ、一人なんて、む、無理だよ! う、馬は高くて、怖い……!」
「あら、どうしてですか? あんなに上手に相乗りされているではありませんか」
「それとこれは、違うよ」
エミールはジリジリと部屋の隅へと逃げ、タマの後ろに隠れた。ポチがシャーッと牙を剥いている。
「普通はライオンに乗る方が怖いと思うのですが」
「え、そ、そんなことないよ……タマは大人しいし、ちゃんと僕のこと考えて歩いてくれるもん」
エミールはタマのたてがみにボフッと顔を埋める。温かくて気持ちが良さそうだ。混ざりたい。
「タマに乗れるから、馬には乗れなくてもいいよ……!」
「タマでは旅に適しませんもの。肉食獣は短距離型なのです。今回だって、旅の間は乗れなかったでしょう? 街中だって、安易に歩けません」
「で、でもぉ……」
「建国祭のことをお忘れですか? 慣例では、エミール様くらいの歳の王子は、パレードの先頭で乗馬しなくてはなりません。今から訓練しておいても損ではありませんわ」
「だ、だって……」
「だって、ではありません。慣例ですので」
ルイーゼは逃げようとするエミールの襟首を掴んで引き摺る。
最初は軟弱すぎて荒っぽい真似が出来なかったが、最近は幾分逞しくなったし、この程度では騒がれないと知っているので、大丈夫。健全だ。
「ご安心ください。慣れれば、敵兵の首を軽く百や二百狩れるようになりますわ」
「ひっ。そ、そ、そんなことしないよ! ルイーゼ。今の顔、首狩り騎士みたいで、こ、怖いッ」
「あら、失礼しますぅ。ルイーゼぇ、品行方正、可憐で慎ましやかな深窓の令嬢ですのにぃ。傷ついちゃいますぅ。キャピッ」
「ひ、ひぃ! 気持ち悪いよ……!」
「なんですって?」
ルイーゼはニッコリ笑ったまま、ジャンを鞭打った。息をするくらい自然な鞭打ちにジャンも歓喜に染まって「よろしゅうございますッ!」と叫んでいる。
エミールを引き摺るように歩いて厩舎へと向かう。
最初こそは抵抗していたエミールだが、大人しく自分で歩いている。もう目隠しも手錠も要らないし、日光だって平気だ。
ルイーゼが教育係になった頃よりもマシになっている。成長していると表現するには早い気がするが、最初に比べると見違えるようだ。
今ではルイーゼ以外に懐く人間も多い。初対面の人に挨拶も出来るし、夜会へ連れて行っても以前のように珍妙な動きなどしないだろう。
剣術はミーディアが教えているようだが、そのうち、他の分野も別の教育係をつけるべきだろう。
やはり、ルイーゼにも得意不得意があるし、知識が深い専門分野の人間が教えた方が良いこともある。
フランセールでは教育係を雇って一流の紳士淑女を育てるのが慣例だ。だが、礼儀作法や一般教養を一通り学んだあとは、専門家を招くことが多い。そうなれば、ルイーゼはお役御免である。
「ねえ、ルイーゼ」
「なんですか?」
エミールが急に不安そうな顔をする。よく見ると、サファイアの瞳が波打つように蒼く光っていた。ルイーゼはハッと気づいて、エミールの手を払う。
ルイーゼは
今、宝珠の力で心を覗き見されていた?
ルイーゼは思わず、エミールをキッと睨んだ。
「エミール様、その力は無暗に使わないというお約束でしたわよね?」
ルイーゼはつい口調をキツくしてしまう。
すると、エミールは戸惑うように視線を逸らした。
「ご、ごめん……悪気はなくて……気がついたら……」
完全に制御出来ない。そう言いたげに、エミールはルイーゼから一歩離れた。
ルイーゼは唇を引き結びながらも、息をつく。迂闊に手を繋いだ自分にも非がある。
「ただ、その……ルイーゼは、僕のお友達……だから、ずっと一緒にいても、いいんだよ?」
エミールはたどたどしく言葉を紡いで、俯いてしまう。とても悲しそうだ。
怖がって涙目になっていた表情とは違う。辛くて、痛そうだった。
「エミール様」
今度は、ルイーゼがどうすればいいのかわからなくなってしまう。
「ごめん、ルイーゼ。でも、僕はルイーゼがしたいようにしてくれるのが、一番だと思ってるよ」
ルイーゼが言葉を選んでいると、エミールは弱々しく笑った。そして、自分から歩いて厩舎の方へ向かう。
ルイーゼも渋々歩き出した。
「あら?」
厩舎へと着くと、異変に気づく。
今朝来たときとは違う……なにかがない。
厩舎がえらく風通しが良さそうになっていた。そう。壁が一枚抜けていた。
どうしてしまったのだろう。下手糞な乗り手が突っ込んだのだろうか。まるで、戦車にでも突っ込まれたようだ。
「ね、ねえ、ルイーゼ……」
先に歩いていたエミールが不安そうな声をあげる。
見ると、厩舎の傍に人が転がっていた。深紅のドレスがヒラヒラと風に揺れている様は、なんとなく不気味で一瞬、血染めなのではないかと疑ってしまう。
「セザール様?」
どうして、こんなところにセザールが転がっているのだ。
まさか、この非常識なオッサン、こんなところで昼寝でもしているのだろうか。しかし、絵面が全然美しくないので、あり得ない気がした。
「セザール!」
エミールがパッと駆け出す。
「エミール様、勝手に走らないでくださいませ!」
エミールを追ってルイーゼも走った。
どうして、こんなところにセザールが倒れているのかわからない。オッサンなので持病や体力切れも考えられるが、セザールにそんな心配はないはず。
もしかすると、誰かに襲われた?
厩舎の壁が壊れているし、少し離れたところにセザールの剣も転がっていた。
「しっかりしてくださいませ。どうしましたか?」
「ね、ねえ。ルイーゼ、セザールは大丈夫!?」
「……安心してください。気絶しているだけですわ」
呼吸はしている。手首の動脈も触知出来た。
ルイーゼは辺りを見回すが、セザールを襲ったと思われる人影は見えない。
いったい誰が?
セザールは女装家の変人だが、剣の腕前は一級だ。ドレスを着ているハンデはあっただろうが、易々と負けるような男ではない。
アルヴィオスで暇潰しに稽古していたのでわかるが、だいたい実力的にはルイーゼと同じくらい。体力があるので、相対的にルイーゼより強いかもしれない。
そんな人間をこうやって気絶させるなど、容易ではないはずだ。現場を見る限り抵抗した痕跡があり、全くの不意打ちでもない。
「…………ッ」
肩を揺すると、セザールの瞼が震える。
「……く、ッ……セシル様?」
「寝ボケないでくださいまし。ルイーゼにございます」
サラッと訂正すると、セザールは頭を抱えて起き上がろうとする。だが、まだ意識が朦朧としているらしい。
「カゾーランの奴が……」
「え? カゾーラン伯爵?」
セザールはおぼつかない足取りで立ち上がり、自分の剣を探す。
「早く……不味いことになるかもしれん」
「は、はあ……?」
セザールの言っている意味がわからない。
けれども、珍しく随分と焦っているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます