第9章 引き籠り、防衛する!
第125話
最初はちょっとした違和感。
けれども、その違和感は大きな疑念へ。
そこに「彼」はいる。
形のない霧のような悪夢にも似た……とても恐ろしい。
いっそのこと、悪夢であったなら良かったのに。
「どうして、もっと早く気がつかなかったのかしら」
後悔しても遅い。「わたくし」は嘆くことを辞め、すぐに考えました。
このことを誰かに伝えるべきか。
伝えるとすれば、誰に伝えるべきか。
すぐに浮かんだのはセザールでした。
今は領地に引き籠ってワインを作っているけれど、彼なら呼べばすぐに来てくれる。事情もわかっているし、「わたくし」の相談にも乗ってくれるでしょう。
けれども、セザールへの手紙をしたためようとして、「わたくし」の手は止まりました。
「セザールでは、ダメ」
これは誰かに相談して解決することではない。「わたくし」はわかっていたのです。
セザールに、この事態をおさめる力はありませんから。きっと、「わたくし」よりも無力でしょう。
書きかけの手紙を破って、新しい便箋に文字を綴りました。
彼への手紙は、現状を打開するためのものではなく、今後を託すことにします。
やっぱり、エミールのことが心配ですから。
手紙を書き終えて、「わたくし」はすぐにもう一度筆を執りました。
次の相手は――。
「なにをしている、セシリア?」
ぞっとするような声が聞こえて、「わたくし」の思考は遮断されました。
わたくしは冷やりとした汗が背筋に流れるのを感じながら、後ろを振り返ります。とっさに手紙を隠し、背後の扉を見ました。
扉の向こうの人物は、「わたくし」が室内で動いたことを感じ取ったのでしょう。ゆっくりと、扉が開きました。
誰か、助けて。
そう求める気持ち。
でも、これは「わたくし」の戦い。
そう律する気持ち。
交互に混ざり合って、「わたくし」の思考は固まっていきました。
「ごめんなさいね」
セザールへの手紙を引き出しに隠しました。
そして、クロードに宛てたもう一通の手紙を破り捨てます。
あとで、手紙を書き直そう。こんなに、みっともない助けを求める手紙などではなく、セザールと同じ内容のもので良いでしょう。
「これは、わたくしの戦い」
気丈に唇を結んで、「わたくし」は歩き出しました。
きっと、わかってくださるわよね?
† † † † † † †
妙な夢にも慣れてきていた。
こんなに汗をかいているのは、久しぶりだからだろうか?
「…………気分悪いですわ」
ルイーゼは天井を眺めて、袖で額の汗を拭った。過呼吸になるのではなかろうかと思うくらい呼吸も荒い。
だが、不思議と思考は冷静だった。
この夢を見るのは気持ちが悪くて苦手だ。まるで、他人の身体を借りている気分になる。そして、目覚めたルイーゼの身体が自分のものではないという妙な感覚にもなるのだ。
それでも冷静なのは、慣れたから。最初はベッドから飛び上がったものだ。
「こんなときは、爽やかなモーニングティーに限りますわ」
ルイーゼは呼吸を整えて落ち着こうと、身を起こす。
ジャンを呼ぶために、ベッドの脇に置かれたベルに手を伸ばした。旅のせいか、シャリエ公爵邸での朝がとても心地良い。
「……またこのパターンですか?」
ふと、違和感に気づいてルイーゼは動きを止めた。そして、やや乱れたベッドにかけられた毛布をバサリと剥ぎ取る。
「お父様、ベッドに忍び込まないでくださいと、いつも言っておりますわよね!?」
ルイーゼは毛布を剥ぐと同時に叫ぶ。
すると、案の定。そこには、娘の素足に頬ずりするシャリエ公爵が現れた。
「僕もいるぞ!」
声高らかに宣言したのは、父の隣で拳を握る兄アロイスだった。何故かルイーゼの予備の寝衣を身体に巻きつけている。
「んぅ~、ルイーゼちゃ~ん。わしの天使! 長い間、会えなくて寂しかったのではないか? パパが存分に癒してあげようと思ってだな……!」
「僕だって。もうルイーゼがどこにも行かないように、地下室を片付けておいたんだ。いつだって、僕だけのルイーゼに出来るからな。誰にも連れて行かせない!」
それぞれに力説しているのを聞いていると、頭が痛くなってきた。
ただでさえ気分が悪いというのに、なんだこれは。朝から苛立ちが頂点に達しそうだ。
「この状況、デジャヴですわね」
「でじゃぶ? なんだ、ルイーゼ。パパのキスが欲しいのかい?」
「いいや、ルイーゼ。お兄ちゃんのキスが欲しいんだよな!」
「いいえ、お嬢さま。朝の目覚めにジャンは如何でしょうか!」
いつ、どこから湧いてきたのか謎だが、ジャンまで混ざっていた。どの辺からここにいたのだろう。この執事。
「とにかく、三人とも。そこに並んで正座なさい!」
「せいざ?」
ルイーゼはジャンの差し出す鞭を奪い取り、ベッドの上で立ちあがった。空打ちする鞭の音がベシィンッ、バシィンッと響き渡る。
心得たとばかりにジャンが正座した。シャリエ公爵とアロイスも真似して正座する。
三人とも行儀が良くてよろしい。
「おーほっほっほっほっ! いいでしょう。朝のお仕置きで鬱憤を晴らしますわ!」
「可愛い娘のお仕置きもなかなか良いではないかッ! 久しぶりだからな!」
「ルイーゼのお仕置きはクセになるからな! ルイーゼ、僕から頼む!」
「よろしゅうございます! お嬢さま、まずはこのジャンを!」
各々に打ってくれと求める男三人を、ルイーゼは朝から気持ちよく鞭打つのであった。
朝食を食べる頃には、妙な夢のことなどすっかりと忘れて気分爽快。実に良い朝を迎えた。
「悪い夢をみたときは、お仕置きに限りますわ」
「よろしゅうございます、お嬢さま!」
シャリエ公爵邸は、今日も平和だった。朝食のフレンチトーストが、なかなか美味しい。
「あらあら、ルイーゼったら。これはきっと恋ですわね」
清々しい顔で朝食を摂るルイーゼと、朝からボコボコのボロボロになった公爵たちを見比べて、シャリエ夫人も笑うのであった。
† † † † † † †
シャリエ公爵邸で恒例の朝の行事が行われている頃。
カゾーラン伯爵の邸宅で悲痛な叫びをあげる者があった。
「母上!? なんということですか、どうしてこのようなことにッ!」
長旅を終え、久方ぶりに帰宅したユーグが半泣きになっていた。彼が半泣きになるなど大変珍しいことなのだが、異常事態なので仕方がない。徹夜明けのようで目の下に隈も出来ていた。
「あら、ユーグ。寝ていないの? お仕事のし過ぎは、お肌に悪いんですって。ユーグは寝不足になると、すぐに隈を作るんだから」
「仕事などしていません。それどころでは、ありませんから!」
ユーグは無造作な赤毛を掻き毟り、寝起きの母親リュシアンヌに詰め寄った。
そして、手にしていた本を机に叩きつける。
「なんですか、この本は! 寝ずに読んでしまったではありませんかッ!?」
ユーグは机に置いた本をバシバシと叩き、声を荒げた。すると、リュシアンヌはキョトンと首を傾げたあとにポンッと手を打った。
「ユーグもその本が気に入りましたのね。今、王都で大流行していますのよ。そのお陰で、あなたへの求婚が殺到していますの。昔のエリックに似てモテるのね。罪作りな我が子」
「ええ!? この駄作は、そんなに流行っているのですか!? 母上、求婚ってなによ! 聞いてないわよ!」
最終的にいつもの口調に戻りながら、ユーグは死んだような眼でリュシアンヌを睨んだ。
一方のリュシアンヌは楽しそうに両手を合わせた。
「いくつかお受けしたお見合いがありますの。あなたも、そろそろ結婚しないとね」
ユーグの抗議が耳に入っているのかいないのか。リュシアンヌは愛用しているエクスカリバーちゃんを握り締めながら、息子に対して満面の笑みを浮かべていた。
そんな母を見て、ユーグは魂が抜けたように脱力し、額に手を当てて天を仰いだ。
「私、結婚なんてしないわよぉぉおおッ!」
絶叫が朝のカゾーラン邸に響き渡った。
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