第38話
なんだか、今日のルイーゼは機嫌が悪かったなぁ。
ルイーゼの乗った馬車が王宮の門を潜っていくのを窓から見送って、エミールは息をついた。
オレンジの夕陽が眩しくて、思わず目を細めてしまう。
以前のように部屋の中に隠れてしまいたいとは思わない。むしろ、茜色に染まる雲や、そこへ飛び立つカラスの影が美しくて、もう少し眺めてみたくなる。
カーテンを開けている自室にも、違和感がなくなっていた。そもそも、ルイーゼにカーテンを撤去されてしまったので、閉めたくても閉められないのだけど。
「殿下、疲れましたか?」
ミーディアが水を差し出しながら、エミールに声をかけてくれる。
「ううん、大丈夫」
エミールは水の入ったコップを受け取り、ぎこちなく笑った。人の好意を受けたときは、とりあえず、笑っておけばいいとルイーゼが言っていた。
ルイーゼはすごい。なんでも知っているし、なんでも出来る。綺麗で可愛い令嬢なのに、強くてカッコイイ。
エミールも早くあんな風になって、ルイーゼの手を――。
「う、ぅ……」
ルイーゼの手を引いて歩きたい。
そう考えた瞬間、顔から火が出るほど熱くなった。気がつくと、ルイーゼのことばかり考えてしまう。
こうすれば、きっとルイーゼは喜んでくれる。
褒めてくれる。
これが出来るようになったら、きっと、ルイーゼだって嬉しいと思う。そんなことばかりを考えていた。
今もルイーゼのことを思い出して俯いてしまう。
本当は、ルイーゼと踊りたい。ルイーゼの手を引いて踊るのは、たぶん、楽しいと思う。
でも、ルイーゼの顔が近づくと、どうしても緊張してしまうのだ。頭が動かなくなって、ボーッと熱くなってしまう。気がついたら、目を回して倒れてしまっていた。
ルイーゼが「じんこーこきゅー」しようとしたとき、とても恥ずかしかった。
蜂蜜色の髪が顔に触れるほど近くにあって、見開いた蒼い眼が深い海の中みたいで綺麗に見えた。いつも会っているはずなのに、あんなに近くで見ると、自分でも驚くほど緊張してしまう。
時々、ルイーゼの眼は不思議な色合いをする。水面の波みたいに透明で、揺れているように見えることがあるのだ。たぶん、気のせいだと思うけど、そう見えることがある。
「殿下」
ミーディアに声をかけられ、エミールは顔をあげた。
ミーディアは不敵に笑うと、急にエミールとの距離を詰めてきた。艶やかな黒髪に縁取られた少女の顔が近づき、青空色の瞳がまっすぐにエミールを見ている。
「な、なに?」
「わたしが近づいても、平気ですよね?」
「え、え、うん、まあ。緊張、するけど」
エミールは目のやり場に困りながらも、チラチラとミーディアを見た。
「ルイーゼさんが近づくと、倒れるんですよね?」
「え、う……だって、ルイーゼ、きれいだから……」
「わたし、不細工ですか?」
唐突な質問に、エミールは首をブンブン横に振る。
シエルに変装していたときも、女として振舞うミーディアも、充分に美しいと思う。艶やかな黒髪も、花弁みたいな唇も、青空色のあどけない瞳も、とても魅力的だ。
方向性は違うが、ルイーゼにも負けないと思う。
「と、とっても、きれいだよ……ミーディアは、その、優しいし……ルイーゼみたいに、かっこいいし……不細工なんて、そんなこと、思ってない」
「そうですか。じゃあ、良いことを教えてあげます。ルイーゼさんが、ダメダメなので」
ミーディアは爽やかに笑いながら、エミールから少し距離をとってくれた。
「殿下、それは恋って言うんですよ」
「こ、こい?」
本で読んだ。相手のことを大事に思って、仕方がなくなる気持ちだと書いていた気がする。ルイーゼが教えてくれたフランセールの叙事詩にも、そんな題材が多かったと思う。
「こい? これって、恋なの?」
「そうです。殿下は、ルイーゼさんに恋をしているんです」
断言されて、エミールは視線を泳がせてしまう。
ミーディアは満足そうに笑いながら、小さく「ふふ、腑抜けたご主人様の二の舞にならないように、わたしが手伝ってあげるんですっ」と鼻を鳴らしていたが、あまり頭に入らない。
これは、恋なのかな?
エミールはよく考えてみるが、しっくりこない。そもそも、恋がよくわからない。
「ね、ねえ、ミーディア。恋って、なにするの?」
「そうですね。見つめ合って手を握りあったり、お互いに他愛もないことを語り合ったり、キスしたり? まあ、お互いに好き合う必要はありますけど」
「キス!?」
「口づけです」
「いや、それは知ってるよ!」
ルイーゼがつまらなさそうに恋愛の詩を読んでいたのを思い出す。
彼女は騎士や英雄が活躍する詩の方を好んでいたと思う。そのせいか、エミールもついカッコイイ英雄譚を謳った詩の方が好きになっていた。
「まずは、ルイーゼさんに恋を自覚させないと」
「え、え、じ、自覚?」
「ルイーゼさんの頭の中は、前……いいえ、昔から、かーなーり残念なので。殿下がビシッと恋に目覚めさせる必要があるんですっ!」
「そ、そうなの?」
ルイーゼはとても頭がいい。エミールの知らないことをたくさん知っているのに、
「残念」の基準がよくわからなかった。
「ルイーゼさんを、キュンとさせましょう!」
「きゅん?」
キュンって、なに。きゅん? ルイーゼは、たまに「キャピッ」って言ってるけど、それとは違うのかな?
そもそも、エミール自身、ルイーゼに恋をしているのか、よくわからない。ミーディアは断言するが、実感がないのだ。
たぶん、恋をよく知らないから。知ったら、そう思えるようになるのかな?
「なにか、ルイーゼさんの好みを知りませんか?」
「こ、好み……豚の肝が美味しいって、言ってたよ。あと、筋トレが、好きかな……カゾーラン伯爵の筋肉を、絶賛してた……あ、そう。キュンとするって言ってた!」
「なるほど、なるほど……今も昔も脳筋なのね。可哀想なご主人げふんげふん、ルイーゼさん」
ミーディアの言う「昔」がいつに当たるのか、エミールは少し不思議に思った。
そういえば、ルイーゼはよくエミールの知らない言葉を使う。「じんこーこきゅー」とか「くえすと」とか「ばっどえんど」とか……エミールには言えない秘密でも、あるのだろうか。
「どうしました、殿下?」
「え、う、ううん。なんでもない……なんとなく……ルイーゼって、強い人が好きなのかな、って……」
だから、僕じゃダメだ。簡単な結論に行きついて、エミールは落胆した。
どうして、落胆するんだろう。自分がルイーゼには好かれないと悟った瞬間、ものすごく寂しくなった。怖い思いをしているわけではないのに、涙が出そうになる。
いや、怖い。
ルイーゼに好かれないことが、怖かった。
もしかし、好かれたいの? 僕は、ルイーゼに好きになって欲しいのかな?
これが、ミーディアの言ってる「恋」なのかな?
「ミ、ミーディア」
震える唇で、ミーディアを呼んでいた。ミーディアはものすごい勢いでなにかをメモしている最中だったが、エミールの方を振り返る。
「あのね、その……僕、強くなりたい……剣を、教えて?」
その言葉を聞いて、ミーディアは青空色の目を大きく瞬かせた。
「え……剣術ですか? それはカゾーラン伯爵が担当されると、聞いていますけど」
「そ、そうなんだけど……伯爵は、忙しいみたいだし……そ、その。ルイーゼにナイショで……」
すぐに強くなりたかった。ルイーゼには無茶をするなと言われているが、居ても立ってもいられない。
ルイーゼに見捨てられたくなかった。早く強くなって、ルイーゼに認められたい。
「んー。ダンスやマナーのお稽古も、ちゃんと出来ますか?」
「う、うん。がんばるよ!」
「そうですか……では、ルイーゼさんには内緒にしておきましょう。それに、すぐに結果を求めるんだったら、わたしのスタイルの方が殿下には合いそうですね」
「どういうこと?」
「まあ。わたし、女でしょ? 非力な人間には、それなりの戦い方があるんです。基礎も大事ですが、自分に合ったスタイルも必要なんですよ」
そういうものなのか。
自分でも強くなれる方法があるかもしれないと聞いて、エミールは眼を輝かせた。
いつの間にか強くなっていたら、ルイーゼもきっと喜んでくれる。
早く一人前になって、ルイーゼに好きになってもらいたいなぁ!
「僕、がんばるよ!」
† † † † † † †
フランセールの港町ノルマンド。
海の向こうからその存在を確認して、一隻の船が波を掻き分け進んでいた。
「ギルバート様、危のうございます。どうぞ、お下がりくださいませ」
従者の制止も聞かず、船の穂先に足をかける青年――ギルバートは意に介さず、望遠鏡の中を覗き込んで笑う。
「へぇ、アレがフランセールか。思っていたより、チャチな街じゃあないか」
「あれは港町ですから。王都は更に南と伺っております」
「知ってる。だが、この俺を迎える港なんだぞ? もう少し派手でも良いだろうが。この国はケチなのか?」
闇のような漆黒の髪が海風に揺られる。遮るもののない陽射しが容赦なく突き刺さり、ギルバートは思わず目を細めた。
紅玉のような美しい右眼。対になって輝くのは、深い海を宿したかのような藍色の左眼。不思議な色合いのオッドアイに笑みを浮かべながら、ギルバートは甲板へと戻っていく。
日焼けした胸元を晒すように、シャツの襟を緩めた。
「上陸の準備をしよう。さっさと王都に着いて、少しばかり仕事も進めようじゃあないか」
宣言して、ギルバートは快活に笑った。それに呼応するように、船を操舵していた船員たちが、「オッケー、ギルバート様!」「いくぜ、野郎ども!」などと荒々しく声をあげている。
翌日。王都に報せが入る。
ギルバート・アルヴィオス王子が、予定より少し早くノルマンド港に上陸した、と。
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