第4話
部屋の奥へ逃げるエミールを追って、ルイーゼも駆け込んだ。
「で、殿下、お待ちくだ――うっ……なん、ですの?」
部屋に踏み込むと、足の裏にグニュッと柔らかい感触。
ルイーゼは嫌な予感がしつつも、恐る恐る足元を見た。
「ああっ! 魔除けの結界が……!」
エミールが顔を青くして叫んだ。
「で、殿下……これは?」
「魔除けの結界を作っている途中だったんだよ。せっかく仕入れたヤギの……」
「や、ヤギの肝ですか!?」
「それは気持ち悪いから、チーズで代用したんだ……」
「…………は?」
なんだ、チーズか。
一歩進むと、今度はなにかを蹴飛ばしてしまった。
「ブドウジュースが!」
「聖血の代用なら、ブドウ酒ではないのですか!」
「お酒は苦手だから……」
「あのぉ、なんだかんだで、ご自分が食べられるものを選んでいませんか?」
「だって、美味しいし……」
「…………」
そのあとも、薄暗い部屋を一歩進むたびに、目玉焼きだとか、いちごだとか、どうして床に置いてあるのかわからない食品の名前が飛び交った。
いったい、この部屋はどうなっているのかしら。
ルイーゼは項垂れる。
ああ、まずい。今世では大人しくしていたいのに。
エミールとのやりとりに、虫唾が走って身体がウズウズしてきた。とりあえず、ストレス発散したい。ルイーゼは揺らぎはじめるハッピーエンドへの決意を手放さないように、必死で耐えるしかなかった。
「と、とりあえず……窓を開けましょう!」
ルイーゼは笑顔を繕いながら、窓へと進んだ。もうなにを踏んでも突き進む所存である。
しかし、エミールは夢中で首を横にふっている。
「だ、ダメ……! 窓はダメ! まぶしいから、無理!」
「でも、お片づけができませんし」
「やめて! そんなの必要ない!」
仕舞いに、エミールはルイーゼのドレスをつかんで泣き崩れてしまった。
さて、どうすればいいのでしょう。
はっきり言ってしまえば、この王子、とても面倒くさい。
ルイーゼは笑顔を絶やさぬよう努めたが、いつまでも続く自信はなかった。
「殿下、せめて床の食材を片づけませんか?」
「……ぼ、僕のことは放っておいてよ」
エミールは部屋の隅で背中を丸めて座り込む。
六番目の前世である海賊時代には、よく見た光景である。陸地の町や村を襲撃すると、女子供は、こんな風にして海賊から身を隠していた。
「困りましたわね」
ルイーゼは、この状況を打開する方法を考えた。
一、構わず一発お見舞いする……いやいや、それはダメですわ。相手は王族ですもの。ルイーゼは自らを律する。
二、もういっそ投げて帰る……いくらなんでも、一日で投げたら最短記録を作ってしまいますわ。骨のない女だと、社交界で罵られるのは、少々癪なので却下した。
三……と、考えていたところに、開けっ放しにしておいた扉からの視線に気がつく。
ジャンがここぞとばかりに身を乗り出し、構えていた。手には、なぜか馬用の短い鞭が握られている。
「よろしゅうございますよ、お嬢さま」
なにが? よろしゅう? ございます?
いやいやいや、さすがに意図がわかりませんから! え? なに? その鞭で殿下を打てと? スパルタ教育をしろと?
ルイーゼは拒絶の意を瞳に込める。一方のジャンは心得ているとでも言いたげに、キリッとした表情を浮かべた。
「いいえ、意味がわかりませんから!」
ルイーゼがきっぱりと口に出すと、ジャンは寂しげに目を伏せてしまった。そして、期待はずれと言わんばかりに、鞭を下げる。彼は、いったいなにを望んでいたのか。
「殿下」
挙動が意味不明な執事から目を逸らし、ルイーゼは再びエミールに向き直る。エミールは怯えて蹲ったまま、ルイーゼを見ようともしない。
頑なすぎて、たしかに、多くの貴婦人があきらめた気持ちがわかる。大いにわかる。
だが、ルイーゼは国王から彼の教育係を任されているのだ。まっとうな今世ライフを送るためには、ある程度、王命に従う義務がある。ものすごく不本意だが。
そう。悪党やら悪役やらの人生を歩むわけにはいかない。ちょっとした綻びが原因で国家反逆罪エンドになるかもしれないのだ。その可能性はわずかだが、否定はできない……と、思う。
今回のクエストを落とすと、また刺されて死ぬバッドエンドが待っている気がする。そんな気ーがーしーまーすー!
ルイーゼは無理やり思考を結びつけて、自分に言い聞かせる。一種の暗示だ。
ハッピーエンドのためなら、なんだってすると今世では決めている。
深呼吸した。
まず、信頼関係を築くために、距離を縮めなければならない。相手を安心させれば、たいていの無理は通るのだ。詐欺師だったころの前世で、よく使った手口である。
「どうして、そんなに怖がっていらっしゃるのですか?」
子供に語りかけているつもりで、ルイーゼは穏やかに問う。
因みに、確認するまでもないが、ルイーゼは十五歳、エミールは十九歳。彼は四つも年上の男性である。
「外は……怖いから」
エミールはボソボソと泣きそうな声だった。
「恐ろしいと思う理由があるのでしょう? まずは、それを取り除く努力をいたしましょう。協力しますわ」
「……あるけど……あるんだけど……」
エミールはあいまいに濁してしまった。エミールはおずおずと顔をあげ、ようやくルイーゼを見た。
サファイアのような瞳に涙がたまっていく。
面倒くさい。
これが、いわゆるトラウマに触れてしまった状態ですか。
瞳の色が、不意に遠い記憶と重なる。
それは今世、いや、前世。
――冷たいのですね。少しは、わたくしのワガママも聞いてくださらない?
ルイーゼはその記憶が誰のものだったのか思い出し、憂鬱を溜め息に乗せた。これは、しばらく意識していなかった、いや、意識する必要がなかった記憶だ。
そういえば、こんなこともありましたわね。
「こんなタイミングで思い出してしまったら、捨て置けなくなるではありませんか」
ルイーゼは誰にも聞こえないようにつぶやき、何度目かわからない溜め息を吐く。溜め息とともに幸せは逃げると言うが、たぶん、当たっている。
これだから、この国の王族にはかかわりたくなかったのだ。いっそ、平民にでも生まれていればよかった。
「なにか、言った?」
「いいえ、独り言にございます」
ルイーゼは自嘲気味に誤魔化した。そして、胸の内で決意を固める。
「殿下、もうそろそろ面倒くさいので……うかがっても、よろしいでしょうか?」
「な、なに?」
ルイーゼは静かに問う。部屋の温度が三度ほど下がった気がするが、スルーだ、スルー。エミールが怯えていても、それは通常運転である。きっと、この王子は、ずっとこうなのだから。
「殿下は、一生ここに引き籠っていたいのでしょうか?」
「え?」
エミールが目を見開く。
その表情は驚きに染まっており、いままで、考えたこともないといった様子である。
「ですから、殿下。外に出たいというお気持ちはありますか? ありませんか? ないのでしたら、いくらわたくしが尽力しても、無駄でございます。適当な理由をつけて、教育係を辞任いたしますわ」
「え、え……その、僕は……」
「もしも、部屋の外に出て、王子として相応しい人生をお望みなら……わたくしは一流の殿方となれるよう、教育しましょう」
ジャンが心配そうに二人を見つめている。
ルイーゼは自分の目つきが悪くなっているのを感じた。
エミールが息を呑んでいる。
「あ、あの」
震える唇。
エミールが次に言う言葉を、ルイーゼは静かに待った。
「僕は……出たくないわけでは、ないんだけど……うん、外には、出てみたい……でも、外は怖くて――」
「外に出るおつもりは、あるのですね?」
エミールの言葉を聞き、ルイーゼは笑顔を作った。
「わかりましたわ」
ルイーゼは素早く身を翻した。
そして、日光を遮る分厚いカーテンへと手を伸ばす。
「え、ちょ、な、なにを!?」
ルイーゼは、カーテンを思いっきり引く。
明るい陽射しに照らされた部屋の隅で、エミールは口をあんぐりと開けていた。恐怖よりも驚愕という感情が勝っているようだ。
「ま、まぶしい!」
エミールはビクビクと肩を震わせながら、頭を抱えて丸まってしまう。
そのかたわらに歩み寄り、ルイーゼは高らかに宣言した。
「改めて、自己紹介させていただきますわ。わたくし、ルイーゼ・ジャンヌ・ド・シャリエと申します。今日から、殿下の教育係をさせてもらいます」
無駄に明るく、ハキハキした口調で言い放つ。
「お約束しましょう。殿下を誰もが認める王子様にしてみせますわ。ですから、多少手荒な真似をしても、お許しくださいね。見放してあげたりなどしませんので、ご覚悟を」
手を差し伸べながら、ルイーゼは思った。
ああ、面倒くさい。
今世こそは、平凡に過ごしたかったのに。
適当な家に嫁いで、ほどほどにいい生活を送って、ほどほどに美貌を保って、ほどほどに幸せだったと言いながらハッピーエンドで締めくくりたい。
そう思っていたのに――。
仕方がありません。
なんとしてでも、このクソ王子の根性を叩き直して、調教して差しあげるしかないでしょう。
せいぜい、刺されて死なない程度にがんばることにしますわ。
こうして、引き籠り姫と新しい教育係が出会ったのである。
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