急性くも膜下出血――告げられた病名には聞き覚えがあった。いつも遊びほうけている無学なおれにも理解できるように、時間をかけて何度も説明してもらった。かんたんにいえば、脳にできた動脈瘤が破裂する病気ということだった。でもおふくろの場合、全身の健康状態が思わしくなく、手術による治療はできないらしい。

「いっしょに暮らしていて、きみはなにも気がつかなかったのか?」

 おふくろの病名より、怒りをはらんだ担当医のその言葉のほうがおれを打ちのめした。なにも気がつかなかったんじゃない。なにも見ちゃいなかったんだ……。



 真っ白なベッドに横たわるおふくろを見つめながら、おれはその手をそっとにぎった。ふだんなら恥ずかしくて、とてもそんなことできやしない。おふくろの手は信じられないほどやせほそっていた。おまけにひどい乾燥のせいでかさかさになっており、年齢以上に年老いた手に見える。


 ――おふくろの手を一度でも見たことがあったか?


 どんなに体調のわるい日でも仕事と家事をこなし、どんなにつらくても無理して笑顔を浮かべていたにちがいない。おれみたいな放蕩息子のことを気にかけながら、心配だけはかけまいと。


 ――おふくろを一度でも安心させたことがあったか?


 単調で無機質な機器の音だけが病室にこだましていた。

 人工呼吸器につながれたおふくろは、ただ目を閉じ、静かに眠っている。こんなになるまで、おれなんかのためにがんばってくれていたなんて……。


 ――おふくろに感謝の気持ちを一度でも伝えたことがあったか?


 もう伝わることはないかもしれない。でも、いま言葉にして伝えておかなければ、きっと死ぬまで後悔しつづける。


「ありがとう……」


 こんなにかんたんな言葉がおれにはいままでいえなかった。子どもでも知っているたった五文字のなんでもないその言葉が。

 おふくろのかぼそい手にすがりついて、おれは大声をあげて泣いた。


 ――もっと早く伝えていればよかった。


 いままで抑えこんでいた感情が一気にあふれだした。静まりかえった夜の院内に、おれの泣きさけぶ声だけがけたたましく響きわたる。


 ――おふくろを大事にしていればよかった。


 聞きつけた担当医と看護師に押さえつけられても、おれはおふくろの手をにぎりしめたままさけびつづけていた。


 ――たのむから、起きてまた笑ってくれよ。


 それはまるで、だだをこねる子どものようだった。

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