不幸の対価〜雨の日のスカート〜

兎ワンコ

シーン1 雨の中の回想

 ポツポツと雨が降り出し、眼前に広がる水田に小さな波紋を起こす。穏やかな水面に落ちる雫が幾学模様きかがくもようの螺旋アートを作り出す。

 空を仰げば鈍色の雲が空を覆い、全てを支配していた。


 雨粒は私の着るセーラー服にも降りかかり、やがて雨足を強くさせていく。

 十八年間の人生の中で、雨に降られたことは何度だってある。でも、この雨はきっと忘れることはないだろう。

 そういえば、彼と出会ったのも、こんな雨が降る日だった。


 ― ― ― ― ― ― ―


 それは二週間前、駅の外れにそびえる十二階建てマンションの屋上に向かうときだった。

 午前は燦々とした日光が降り注ぐ良い日であったが、夕方から真っ黒な雲が頭上を覆い始めた。学校を出る頃にはポツリポツリと、大雨を予兆させる雨粒が私の髪に垂れた。

 そんなこともお構いなしに私は足早に学校を抜け、線路の上をまたがる歩道橋を進む。

“大好きな人と結ばれない”それだけが私の足を屋上へと運ばせた。

 学校からマンションまでの道中、彼との思い出ばかりが脳裏に浮かぶ。

 あんなに甘い言葉で夢を見せてくれて、どんな遠いところも腕を掴んで連れて行ってくれて、冷えた指先を何度も暖めてくれたのに。「もう会えない」なんて一言で、遮られるなんて思いもしなかった。


「私が悪いの?」

 そう切り出すと、あの人は「君は悪くない。君はいい子だよ」と言ってくれた。そんな優しい愛情を思い出しては、ひどく胸に刺さって苦しかった。

 一緒になれないなら、いっそ二人で死んでしまいたいと願った。でも、そんな風に傷つける勇気すらもなかった。だから、せめて黙って死のうと決意した。

 誰にも明かせぬ多くの秘密を、何も知らぬ人の不謹慎な手で暴かれるのが怖い。なにより、あの人に失望されて見捨てられるのも、もっと怖い。


 辿り着いたマンションは古く、まるで死にかけているように思えた。かつては白かった外壁もいまは風雨で汚れており、所々に歪なヒビが走っていた。

 人の目につかぬように入り口をそっと見る。管理人室の窓口を見れば『外出中』という立札が掲げられており、その下には電話番号が記載されている。私は足早に窓口を通り抜け、すぐにエレベーターの呼び出しボタンを押し、エレベーターを待つ。

 蛍光灯の頼りない明かりが灯るホールの中にチン、という音がし、覗き窓がついた銀色の扉が開く。


 エレベーター籠の中にはくすんだ灰色のフェルトとマンションの外壁に負けないくらいの薄汚れた白い壁に覆われていた。幸いなことに人はいない。即座に乗り込み、十二階のボタンと閉のボタンを素早く押す。

 低い唸りとともにエレベーター籠が上昇する。ほんの十数秒にも満たない時間の中で、私は十六年四カ月という短い生涯を振り返る。

 教育熱心で完璧主義者である母と、育児に無関心な父。小学校からずっとテストでは九十点以上を取らなければ、夕飯は粗末なものであった。毎日のように塾に行かされ、友人と遊ぶ時間なんてなかった。いや、母は友人を作るのを許さなかった。


「自分の価値を高める友人を作りなさい。だから、このあいだウチに来た子はダメ」


 初めて連れてきた、初めての友人に対していった母の言葉。今でも忘れることはない。

 そうして、私は自分でなにかを選ぶことが出来なくなった。すべて母の言いなりであった。

 おかげで私の性格は暗いものとなった。学校の外で遊べない私に、同年代の子供たちは冷酷だった。話しかけることもなく、みな遠ざかっていく。やがて母の噂も知れ渡り、私は疫病神のような存在となった。

 中学に上がっても母の教育方針は変わらず、むしろ苛烈となった。


 部活には入るな、寄り道せずにすぐに塾に行け。十代で出来た友人なんてどうせ大人になったら、忘れてしまう。異性なんてもっての他だ。大事なのは国立大学に入って、良い会社に入って誰もが羨む地位を築け。そうすれば、お前を支えてくれる立派な人が現れる。ここが辛抱だ。

 母の激励はこんな感じだ。そして、それは低学歴であった自分と夫を戒める言葉でもあった。私は母と父の幼少時代も、なれ初めも知らない。だから、二人の中にある愛も、私に向けるべきはずの愛情も理解できなかった。

 

 母に反抗すれば、家になんて上げてくれない。ご飯だって用意してくれない。それよりも、普段通りに接していてもどこでヒステリーのスイッチが入るかわからない。中学の時から私は完全な下僕と化していた。

 中学校には噂が流れ、知らない学区の子も近寄ることはなかった。影でコソコソと噂し、ありもしない中傷を流す。

 どこにも心安らぐ場所はなかった。家に居れば、母の怒り狂った声が私を押し潰してくる。学校では同級生たちの囁く雑言。おかげで中学三年間は苦痛に満ちた時間だった。それでも、ずっと勉強だけは続けてきた。従い続ければ、いつか報われる。

 志望校の合格、解放されたと私は思った。けどそれは間違いだった。

 

 高校に入っても生活は変わらなかった。母の圧政は緩むことはなく、私を縛り付けてくる。

 中学時代の友人はほとんどいなかったが、大事な十代の前半を勉強だけに費やした私に、友達を作る方法など皆目見当もつかない。

 時代と流行りに取り残された私は、高校という舞台には不釣り合いだった。同世代の子たちがスマホを持つ中、私はキッズ向けのガラパゴスケータイ。化粧も母は許してくれない。最低限のスキンケアだけ、許された。

 無口で陰気な性格も相まって、私は教室で浮いた生活だった。初めて出会う子たちから見て、自分のような存在が異質だったと気付くのに時間は掛からない。

 最初は質問攻めからだった。


「化粧とかに興味ないの?」

「もしかして、それって逆に時代の先取り?」


 悪意のある質問が飛び交う。まるで珍獣を見るかのような奇異な視線とともに。

 彼女らは狡猾に私を言葉の刃で傷つけていく。

 やがて半年ほどすると、今度は無視するようになった。

 無視されるのは幸いだった。だがそれは同時に、完全に孤立した。これから二年と半年、私はまた孤独な戦いを始めるつもりでいた。


 そんな生活の中で、あの人は現れた。

 ひとりぼっちだった私に、優しく微笑んで手を差し伸べてくれた。

 教科書と参考書。そして家と学校と塾以外の景色を見せてくれた。厳しい監視の中を潜り抜けて、私を救ってくれた。絵本から飛び出した王子様のような存在。

 あの人は私のすべてを受け止めてくれた。家庭環境も、学校生活も、小さくて、ちっぽけな私を。

 初めて、生まれてきて良かったって、心から思えるようになった。

 高校に入学して半年。突然の甘い日々に、私はずっと舞い上がっていた。

 でも、それも数日前に終わってしまった。

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