短編小説

はまだ語録

第1話 マナー違反

「迎、結婚したんだって?」


 それは知っていて当然だろう、という口調だった。

 元クラスメイトとはいえ、決して仲が良かったわけではない相手からの何気ない質問だ。他意がないことは分かっている。

 だから、俺は平然とした態度で頷いた。いや、頷くことができた。


「だな」

「なんとなく、結婚遅そうと思ったんだけどなぁ」

「いや、あいつはやるときはやる男だからな」


 俺の何気ない言葉から元クラスメイトは少し嫌な感じで笑う。


「はは、そうだな。デキ婚らしいな」


 やる、という言葉を嫌な変換されてしまったようだ。胸の奥に嫌な重みが生まれ、息苦しくなった。

 俺は適当に笑って流しながら――どうせ次に会うのは早くても数年後の相手だ。もう二度と会わないかもしれない――そこで会話を打ち切って席を離れる。

 トイレに行くフリをしたのは、元クラスメイトに対する嫌悪感が理由ではなく、やや混乱した思考を整理したかったからだ。深呼吸しながら考える。

 迎陽貴と俺は高校時代ふたりだけの将棋部だった。先輩はひとりもいない、休部状態だった将棋部をふたりで復活させたのだ。まるで校内に自分たちだけの秘密基地ができたようで、俺たちは親友といっても過言ではなかった。団体戦にも出られない弱小部だったが、真剣ではないからこそ楽しい面もあった。

 その翌年に入ってきたのが真田小百合だ。これで三人の部活になった。

 トイレの隣に喫煙スペースがあったので俺はため息まじりに重い煙を吐き出す。

 思い出すと辛くなるが――俺はマナー違反で友だちを失っていた。


   +++


「僕、真田さんに勝ったら告白するから」


 それは溜めに溜めたものが爆発した告白だった。

 同じ部活の友達とはいえ中学までは別々だったし、クラスも同じになったことがない。

 だから、俺は迎の女性の好みについては全く知らなかったし、同じ部の後輩に対してそんな気持ちを秘めているなんてまるで気づいていなかった。


「そ、そうか」

「滝野原はどう思う?」

「いや、俺がどう思うかは関係ないだろう。迎の好きにしろよ」


 真田はかなり美形だし、そういう対象として見てもおかしくはない。

 ただ迎は言っては悪いが、あまり釣り合うという感じではない。まじめで良い男だとは思うが、同世代で味が分かる人間は多くない。特に女性には希少だ。


「……滝野原は勝てないと思っているんだな」

「まぁ、真田は強いからなぁ」


 どうやら俺が外見の不釣り合いを想像して躊躇したのを勘違いしてくれたようなので便乗する。実際、そういう問題もあったのだ。真田はかなりの将棋の腕前だ。少なくとも、高校までろくに駒を触ったこともなかった迎よりも大駒ひとつ強い。


「ただ、まあ、勝算はあるかもな」

「そうか?」と少し嬉しそうに真田は笑う。

「ああ、真田と二人ばかりが指していて俺は疎外感を覚えるぞ」


 真田は負けず嫌いというか、負けるのが嫌いなのだ。棋力は三人の中では俺が一番高いため、勝てない俺とはあまり指したがらない。駒を落とすのも嫌なのだそうだ。


「そうだひとつアドバイスだが、先に告白しておけよ」

「……? いや、僕は勝ったら告白するつもりなんだが」

「先に告白しておいて脈があれば手を抜いてくれそうだし、脈がなくても動揺させられるだろう。どっちにしろ先手が取れる」

「……滝野原が将棋に強いのはそういう部分なのかもな」


 感心しているのか呆れているのか分からないが、褒められているのだろう。


「なかなか合理的だろう」

「合理的すぎる。僕はやっぱり勝ったら告白するよ」


 俺はすこしだけ牽制くらいしておくかと思い、ある決断をした。

 ――それが全ての間違いだった。

 その決断で、俺は友だちを失うことになった。


   +++


「迎先輩、本当にあたしのことが好きなんですか?」


 俺の決断とは『あらかじめ真田に迎の気持ちを伝えておくこと』だった。

 おせっかいかもしれないが、勝算は高めていて損はない。友情を理由に俺は多少面白がっていた。


「……それであたしはどうすれば良いんですか……いえ、滝野原先輩はどうして欲しいんですか」

「いや、俺がどうして欲しいかは関係ないだろう。それに、真田は迎と仲が良いじゃないか。全然悪い気はしないだろ?」

「……それ、本気で言っているの? 準ちゃん」


 その呼び方はやめろよ、と俺は苦笑する。子どもの頃の呼び名だ。

 俺と迎は高校に入ってからの親友だが、真田とはいわゆる幼なじみだった。

 地元にあった将棋道場に子どもの頃から一緒に通っていた程度の関係だが、そうでなければ、男ふたりの冴えない将棋部に紅一点で入部しようとは思わなかっただろう。

 そもそも、俺とあまり部活動で指さないのも指し飽きた面もあるのかもしれない。もちろん、負けるのが嫌なのも間違いではないと思うけどな。昔は負ける度にすぐ泣いたし、勝つまで何度となく勝負をせがまれた。しかも、手を抜くと怒るのだ。


「指した手が最善手って言うし、真田が思うようにすべきだ」

「分かった」と真田はどこか拗ねたような口調で頷いた。


   +++


「あたし、滝野原先輩のことが好きなんです」


 翌日、部室に入ってきてからの第一声がこれである。

 真田はその日の部活動で面と向かって迎にそう宣言した。

 正直、驚きすぎて俺は声を失った。この女はいきなり何を言い出すのか。俺のことが好き? え? どういうこと?


「は? え?」

「滝野原先輩、いえ、準ちゃん。昔からずーっと好きです」


 これは俺に向かって言ったセリフだ。無性に喉が渇く。予想外すぎる事態だった。少なくとも真田はそれまでそんな素振りを見せたことはなかった。はずだ。

 それに対して、迎は落ち着いた様子で頷いた。


「うん、君が滝野原のことを好きなのは知っているよ」


 知っていたんかい! と思わず叫びそうになった。何が起きているのか。


「僕は君のことをずっと見ていたからね」

「でも、迎先輩はあたしのことが好きなんですよね?」

「………………とりあえず、部活を始めないか」

「そうですね」


 二人だけでお互い分かり合っているように対局準備を始めた。息がピッタリだ。

 雑なドッキリでもされている気分。ついていけていないのは俺だけで、逃げ出したかった。

 切り替えるために、ちょっと水でも飲んでこようと席を外そうとしたら、


「滝野原」「先輩」


 逃げるなという鋭い二つの視線を向けられて、その場から動けなくなった。

 と、次の瞬間、迎が吹き出した。


「お前がそんなに真っ赤になるの、初めて見た」


 真田もクスリと笑っているが、どうしてお前は平静なんだよ。本当に俺に告白したのか。あ、そうか。断るために口実だったというだけなのか。なんだ。そうか。


「滝野原は鈍感だからな」

「知ってます。もう十年来の付き合いですもん」

「いや、そんなことはないと思うんだが……」という俺の言葉は黙殺された。


 そして、いつの間にか駒が並べられ準備完了。挨拶を交わして対局が始まった。

 先手は迎になっていたようだ。飛車を四間に振っている。得意戦法だ。

 後手の真田はじっくりと持久戦模様。穴熊に組もうとしている。本気戦法だ。

 パチン、パチンと高い駒音から二人とも気合が入っていることが分かった。廃部寸前までいった高校将棋部の、安物の盤駒とは思えない格調高い駒音だった。


「……あたし、迎先輩のことも嫌いじゃないですよ」

「そっか、ありがとう」

「それだけ一年で強くなるなんて、どれだけ努力したのか分かりますもん」


 ぼそっとしたそのやり取りに、急速に俺は喉元を締め付けられる感覚に襲われた。なんだ、この感情は。俺はどちらを応援すべきなのか。

 指した手が最善手とか余裕めいたことをほざいていた自分をぶん殴りたかった。

 俺は当事者のひとりであるはずなのに、どうしようもなく仲間外れだった。

 盤面は駒組みを終え、戦いが始まろうとしていた。

 ひと目、真田の方が指しやすそうだ。これは棋力差を考えれば予想通りの展開だ。

 駒がぶつかり始め、本格的な戦いが始まる。

 予想通り、真田が主導権を握っている。何がなんでも勝つという意思が伝わる、という感想は迎に悪い気がするが、事実だろう。

 いや、それよりも俺のことを好きだった? 噓だろう? いつから? という混乱で盤面がまともに判断できない。手が読めない。時間が経つほどに混乱が大きくなる。とりあえず、真田のことを直視できない。

 その時、迎の顔は見た。必死な形相で、真剣に手を読んでいる。

 ああ、その時にようやく、本当に本当なんだな、と気づくことができた。腑に落ちる。浮足立っていた気持ちが落ち着いていくにつれ、手を読むことができた。

 盤面は終局が近く、後手の真田が優勢から勝勢の間くらいだった。将棋は逆転のゲームで最後の一手までどうなるか分からないが、十中八九このまま終わりそうだった。

 そもそも、真田の方が圧倒的に棋力は高いのだ。この結末は予想通り。

 そう思っていたのだが。


 ――あ。


 迎が指した悪手に、真田が悪手で応じたのだ。

 それは時間が差し迫っての手拍子だったのかもしれない。あるいは、負けたくないと慎重になりすぎての緩手かもしれない。ただ、いわゆる頓死もあり得た。大逆転だ。

 その時、迎の手が止まる。

 手を止めたことで、真田も自分が悪手を指したことに気づき真っ青な顔になる。

 迎が顔を上げ――俺と目が合った。

 それで気づく。迎は逆転の手が見えていない。ただ、何かがあると直感している。

 それで俺に訴えかけているのだ――ヒントをくれ、と。実際、どのあたりを攻めるか教えるだけで気づく筋だ。おそらくは視線だけで伝えることはできる。

 ただ、それは将棋指しにとっては最悪のマナー違反だ。俺にとっても、迎にとっても。迎は将棋を指し始めてまだ一年ちょっと。そういうカンニングが最悪の行為だと分かっていないのだ。いや、違う。それだけ真田のことが好きで視野が狭くなっているのだ。ただ、好きだからこそそんなマナー違反をしてはダメなのだ。

 俺は迎から目を逸らした。迎は天を仰ぐ。

 結果、真田の勝利。

 真田はそして俺に向き直って言った。


「準ちゃん、好き。付き合って」


 俺はどうして良いか分からなかったが、何故か自然と頷いていた。

 胸に飛び込んできた真田を抱きしめながら、その後ろに見えた迎の顔は、


「それはマナー違反だろ……」


 泣きそうか迎の顔を見ながら俺は目を閉じる。


 ――こうして、俺は友だちを失った。


   +++


「久しぶり、滝野原」


 俺は懐かしい声に泣きそうになる。煙草を消しながら応じた。


「ああ、久しぶりだ。迎。遅かったじゃないか」

「仕事で遅くなったよ」


 迎はそう言いながら俺の隣に腰を下ろした。

 しばらく時間を忘れたように近況を報告し合う。ふと先程聞いた情報を口にする。


「そういえば、迎、結婚するんだって?」

「ああ、大学院の同級生とな。……滝野原は?」


 俺は一瞬迷ったが、左手の薬指を見せた。軽い調子で補足する。


「あのままなんか付き合いが続いてな、三年くらい前に」

「……そっか、幸せにやっているんだな」


 と、どう表現して良いのか分からない顔をする迎。まぁ、そうだろうな。


「いや、でも、すんごい尻に敷かれているからな」


 俺は言い訳するように言ったが、それほど気にすべきことでもないのかもしれない。お互いあれから時間が経ち、さまざまな経験を積んだ結果、それなりに受け入れられるようになっていた。あの純粋さ。思いつめたような空気は生まれない。


「でもさ、あれはマナー違反だろ」

「あ、あぁ……マナー違反ね。いや、俺は正しいことをしただろ」

「いやいや、いきなり付き合い始めたのはダメだろ。こいつ、最悪って思ったからな。僕は実際、あれから同じクラスでも話せなかったしな」


 そこで気づいた。

 どうやら俺と迎のマナー違反の理由は違っていたようだ。


「マナー違反って、あぁ、そっちか」

「そっちか、って他にあるか? ま、もう昔の話だけどな」


 俺が気にしていたのは将棋に対するマナーだ。

 それに対して、迎は恋愛に関するマナーを問題視していた。

 しかし、どちらが一般的かといえば、どう考えても迎の方だろう。おそらく、迎はカンニングをしようとしたことさえ覚えていなさそうだ。

 ただ、意外とそういうものなのかもしれない。

 同じ時間を共有していたとしても、完全に理解し合うことなんて絶対に不可能だ。同じものを見ていても評価が異なったり、すれ違ったりすることはある。

 それでも、俺は、あの一年間よりも濃密な一年間を知らない。

 友情は永遠だ。だからこそ、俺はもう二度と交わらない時間を寂しく思った。


「ま、ちゃんと結婚したんだから許してくれよ」

「のろけか?」

「そう思ってくれて良いよ」


 俺が笑いながら言うと、迎も笑う。

 多少、苦味の混ざったものだったが、楽しそうであったことも間違いではない。


「そういえばさ」

「ん?」

「俺の結婚式、出ないか?」

「んー……別に構わないけど」

「そうか、招待状送るから住所と連絡先、教えてくれよ」


 もう二度と同じ時間を過ごすことはないし、密に連絡を取り合うこともないだろう。

 それでも、取り戻せるものもあるのかもしれない。

 何度間違えても、どれだけ負けても……一から始めて良いのだ。


「夫婦で出た方が良いか?」と俺が冗談っぽく言うと「それも良いな」と迎は乗り気になった。


「また将棋を指しても良いからな」

「多少は腕をあげたか?」

「まぁな。滝野原はあれから指しているか?」

「全然。迎は指しているのか?」

「ああ、大学は全国大会で入賞したぞ」


 そこまで強くなっているのか、と俺は目を見開いた。時間の経過を強く意識した。ため息交じりに諸手を挙げて降参した。


「俺よりも間違いなく強いな、それは。もう将棋で告白を賭けるなんてバカなことはできないな」

「婚約したばかりの男に、その軽口はマナー違反じゃないか?」


 俺は迎の言葉に「確かに」と笑った。




                  マナー違反 了

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