桜が散りゆく中で ~無貌の神の悪戯 Long Ago~

和辻義一

桜が散りゆく中で ~無貌の神の悪戯 Long Ago~

 今日は隊務がなく非番の日だったので、桜を見に行こうと思った。どこへ行こうかと少し考えたが、折角だったので東山まで足を伸ばしてみることにした。


 俺は朝稽古を終えた後、源さん――新選組六番隊組長、井上源三郎に一言断りを入れた。組長が自らの預かる隊士の動向を把握していない場合、万が一にも何かがあった時にとがを受けることがある。源さんは実直な良い人だ、出来ればそのような目には合わせたくない。


「組長。今日は非番なので、昼から東山の方まで桜を見てこようと思います」


 俺の言葉に、源さんは穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。


「ほう、そりゃいいな。今なら桜もまだ、綺麗に咲いていることだろう……で、又さん、誰かと一緒に行くのかね?」


「いえ、特にこれといって誰かと約束などはしていません。一人です」


 俺の言葉に、源さんは少しの間考え込んだ後、やや間延びした声で言った。


「そうか。又さん、あの辺りには桜の名所がいくつもある。どこかで誰かに断りを入れて、桜の枝を貰って歳さんへの土産にするといい」


 歳さんというのは、土方副長のことだ。源さんは土方副長のことを、いつもそう呼んでいる。


「土方副長に、ですか?」


「ああ。歳さんはあれでいて、風流を感じる繊細なところがあるんだよ。きっと喜ばれるだろうて」


 我々新選組隊士の間では「鬼の副長」で通っている土方副長が、実は密かに和歌や俳諧を嗜んでいることは、一番隊組長の沖田さんから何かの時に、こっそりと聞いたことがあった。


「分かりました、そういたしましょう」


 俺は源さんに一礼すると、部屋で身支度を整えて刀を帯び、屯所とんしょを出た。時刻はうまの刻(正午)の頃だった。昼飯がまだだったので、東山へ向かう途中にあった店で蕎麦を食べた。


 東山まで来て、さてどこに向かおうかと考えた。実のところ、これといって行く宛てもなかった。そこからふらりと足を運んだのは、知恩院の境内だった。


 境内のあちらこちらに、立派な桜の木があった。枝垂桜しだれざくらは既に満開の時期を過ぎていて、はらはらと風に舞い散る桜の花びらが、晴れた青空に映えてとても美しかった。


 故郷の会津では、桜の花が咲く時期はもう少し先であることをふと思い出したが、場所が違っても桜の花の美しさには変わりがないだろう。薄紅色の小さな花は、派手さこそないものの可憐でいじらしくもあり、ある種の尊さを感じずにはいられない。


 境内でたまたま見かけた僧の一人を捕まえ、桜の枝を一本分けて欲しいと頼んでみた。御坊ごぼうは最初こそ迷惑そうな顔をしていたが、俺が「どうしてもこの桜を見せたい相手がいる」と言うと、その御坊は何事かを悟ったような顔をして「此度こたびだけでございまするぞ」と言いながら、枝垂桜の枝の先を一本切って手渡してくれた。


 おおよそ御坊は、桜の花の送り先をどこぞの女子だとでも思ったのだろう。だが、生憎と俺にはそのような相手はいないし、その必要も無い。今の自分は下手に剣を鈍らせれば、路上に冷たい骸をさらすことになる。


 士道と里心は、氷炭のごとく相容れぬ。だが、御坊の勘違いをわざわざ訂正する必要まではないだろうと思い、俺は丁重に礼を述べてその桜の枝を受け取った。


 その後、産寧さんねい坂を歩いて餅を食べ、ついでに清水寺を見てから屯所へと戻った。さるの刻(午後四時)頃のことだった。


 屯所に戻った俺は、早速土方副長の部屋へと向かった。


「大江君か、何か私に用かね?」


 部屋に入るなり、文机に向かっていた土方副長が、さも意外そうな顔で俺を見た。そして、土方副長は俺の手の内にある桜の枝に目を向けた。


「何だね、それは?」


「土方副長への土産です。井上組長から、副長へお渡しするようにと言われました」


 俺が桜の枝を差し出すと、土方副長は不思議そうな顔をしながらその枝を受け取った。枝に幾重にもついていた桜の花びらは、持ち帰る途中で少し散ってしまっていた。


「こいつはどこの桜かね?」


「知恩院です。今日は非番だったので、少し足を伸ばして桜を見てきました」


「誰かと一緒に行ったのか?」


 土方副長の目が、一瞬ぎらりと光ったような気がした。俺は被りを振った。


「いえ、一人で行きました」


「一人で知恩院まで行って、桜の枝を取って来た、と?」


「盗んではいませんよ。寺の御坊に頼んで、桜の枝を分けてもらったのです」


 俺がそう言うと、土方副長は少しの間黙り込んだが、やがて唇の端を軽く上げて薄く笑った。


「大江君、どうやら君には風流心ふうりゅうしんがあるようだな」


「さて……私には風流心とやらのことは良く分かりませんが、桜の花は好きです」


「そうか。ではこの桜、ありがたく頂戴しておこう。下がってくれたまえ」


 俺は一礼した後、土方副長の部屋を後にした。それからすぐに、一番隊組長の沖田さんに出会った。


「やあ、大江さん」


 沖田さんが屈託のない笑みを浮かべたので、俺が軽く会釈をすると、沖田さんが何かを思い出したかのように言った。


「そう言えば今日の昼過ぎに、土方さんが貴方のことを探していましたよ。もうお会いになられましたか?」


 俺が今日は非番で外出していたこと、源さんからの話もあって、つい今しがた土方副長の元へ桜の枝を届けに行ったことを説明すると、沖田さんはさも愉快そうに笑った。


「大江さん。貴方、井上さんに助けられましたね」


「はて、それは一体どういう意味でしょうか?」


 俺が尋ねると、沖田さんはひとしきり笑った後、真面目な表情に戻って言った。


「つい先日、伊東さん達が隊を割ってここを出ていったばかりですよ。そんな時期に一人で外出するだなんて、あまり褒められた真似ではありませんね」


 沖田さんの言葉に、俺は思わずはっとなった。伊東参謀が十五名の同志を引き連れ、新選組と袂を分かち御陵衛士の盟主となったのは、つい半月ほど前のことだった。


「井上さんが貴方に、誰かに断りを入れて桜の枝を分けて貰えといったのは、要はですよ。貴方の今日の行動に証人がいれば、土方さんも貴方を疑うようなことはないでしょう」


「そうでしたか……しかし、私は今更、隊を抜けようなどとは思っていませんよ」


 第一、新選組の禁令の中には「きょくだっスルヲ不許ゆるさず」とある。禁令を破れば、待っているのは死あるのみだ。


 実は少し前に一度、伊東参謀から「今の新選組の在り方について、君はどう思う?」と尋ねられたことがあった。俺にそのようなことが分かる訳もなく、どうもこうもない、ただ隊務に精励することが己に課せられた責務だと答えると、伊東参謀は一言「そうですか」とだけ言って、すぐにその話は終わった。後になって、あの時の返答次第では、己の立ち位置を危うくしていたかも知れないと思ったものだった。


 沖田さんは、再び屈託のない笑みを浮かべて頷いた。


「はい、ぜひそうであり続けて下さい。貴方はなかなかに腕も立つし、とても気持ちが良い人だ。出来れば私も、貴方を斬りたくはない」


 それだけ言い残すと、沖田さんはその場を去っていった。気が付くと、背中にはまるで冷や水を浴びせられたかのように汗をかいていた。いつもにこにこと笑っているように見えて、時折見せる凄みが、沖田さんの恐ろしいところだった。


 それから俺は、源さんに無事戻ったことの報告と、一言礼を述べておこうと思い、屯所の中で源さんの姿を探した。


 源さんはすぐに見つかった。源さんは自室で、糸がほつれた稽古着の修繕をしていた。


「組長、ただいま戻りました」


 薄暗い部屋の中で目を細めながら、自ら裁縫をしていた源さんは、俺の方を振り返り、のんびりとした声で言った。


「やあ、又さんか。どうだったかね、桜の方は?」


「はい。満開の時期を過ぎて散り始めていましたが、楽しむことが出来ました。土方副長への土産も、無事に渡せました」


「そうかそうか。ちなみに歳さん、土産を喜んでくれていたかね?」


「……はい、おそらくは。此度はご助言のほど、誠にありがとうございました」


 俺がそう言って頭を下げると、源さんはその言葉の意味を分かってか分からずか、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。


「歳さんは色々と忙しいお人だ。じっくりと桜を眺める暇もそうそうあるまいから、又さんの手土産をきっと喜んでくれたことだろうさ」


 それだけ言うと、源さんは再び針仕事へと意識を向けた。俺はその背中に一礼してから、静かに源さんの部屋を後にした。


 源さんは、剣の腕こそ各隊の組長の中ではそれほど達者ではなかったが、人に対する気遣いや配慮については、俺のような若輩者では遠く及ばないところがあると思った。新選組の中で上手く立ち回るためには、それ相応の処世術が必要であることを思い知らされた一日だった。

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