第7話  ある夫婦の物語 Sideアンジェリカ

 その日は天候に恵まれれば、雲一つなく澄んだ青い空が王都よりも更に遠い北へと続いておりました。


 この国の正式なる結婚の証として妻となる者は夫により新たなる夫婦の住処へ連れ帰られるものとされております。


 本来ならば婚儀を挙げた時に旦那様と共にアッシュベリーへ向かう筈でした。

 それが私の体調不良……悪阻と兄王によりもう暫く王宮で過ごすがいいと邪魔が入った故に正式な夫婦と未だ成されなかった私達。


 勿論王宮へ留まるのが嫌で辺境伯邸へと早々に逃げ込みましたけれどもです。

 


 何時までも現実に目を背けてはいられない。

 だからと言って何処をどう探しても正解は見つからない。


 遊び歩くかまたは屋敷内で情緒不安定で泣き暮らすかの私をきっと屋敷の者達は心配したのでしょう。

 それ故アッシュベリーで生死を懸けて戦っておられる筈の旦那様がこうして迎えに来て下さったのですね。


 それはとても有り難いのですが同時に私としましては何とも正しく針の筵……と言ったところでしょうか。


 そして何時旦那様によって断罪されるのかと思えば生きた心地何て全くしないと言うのに何故でしょう。


 この様に空は吸い込まれそうなくらいに青く美しい。


「さあアンジェリカ様馬車へ乗りましょう」

「……はい」


 スマートにエスコートをして下さるのは旦那様。

 でも馬車に乗るのは私とリザの二人だけ。


「アッシュベリーまでは護衛も兼ねて私は馬上で指揮を執ります。……だからゆっくりと馬車の中でお過ごし下さい。途中休憩も細目に挟みますからお身体に異常を感じれば必ず報告を、後列の馬車には医術の心得がある者も同行しておりますれば……」


「何から何まで有難う存じます旦那様。さあアンジェ様お言葉にお甘えになってお寛ぎを……」

「え、ええ……」


 馬車は王家のものとそん色がないくらいに広く乗り心地も快適でした。

 馬車の中にはふかふかのクッションが幾つも用意されれば私はそのクッションに身体を預ける様に休んでいたのです。


 バスケットの中身はコーヒーや紅茶ではなくハーブティーと簡単な軽食も用意されております。

 本当に至れり尽くせりでした。


 そうまるで私が妊婦である事を知っているかの様な待遇だったのです。


「まさか……旦那様は……」

「どうなさい――――⁉」


『何者だ!! 我がアッシュベリー辺境伯の一行と知っての狼藉か!!』


 その瞬間馬車の外で旦那様の誰何すいかする声から何頭もの馬が立ち止まる足音。

 馬車の中や外に関係なく一斉に緊張感が走った時でした。


 コンコン


「は、はい」


 リザは私を自身の背へと隠せば必死に声を震わせまいと返事をします。


「休まれておられる所を済まないがどうかアンジェリカ様へお伝えをしたい事がある」


「だ、旦那様⁉ ご無事なのでしょうか」

「ああ敵の襲撃ではありません。ただその……」


 何時になく弱々しい口調の旦那様の様子に疑問を抱きはしました。


「アンジェリカ王女殿下へ申し上げます。私は此度陛下よりの勅使としてここへ罷り越しまして御座います。どうか王女殿下には速やかに国王陛下よりの勅令を以って王都へ、速やかに王宮へとお戻りになられますよう」


 私とリザは一瞬お互いの耳を疑いました。

 そして態々わざわざとってつけた様に兄は勅使と勅令を以ってしてまで私を自身の腕の中へ縛り付けようとするのです。



 何故⁉

 どうしてなのっっ。

 何故執拗に私へ執着するのです。

 そして大前提にこの結婚を決めたのは他の誰でもない兄自身。

 たとえそれが臣下からの奏上があったにせよです。

 

 国王としてアッシュベリーとの絆を深めなければいけないと判断したのは兄自身なのです。

 然も私の様な穢れし者を旦那様へと宛がったのは兄なのです!!


 なのに王都を出た瞬間情けなくも追い掛けあまつさえ兄の狂気より逃げ出した私を旦那様の目の前で拘束しようとするのですか。



 ああ目には見えない幾重もの鎖が私の身体へと絡みついていく。

 

『永遠に逃しはしない。私は死する瞬間までアンジェを愛している。私だけのアンジェ』


 あの犯され続けた日々の中で繰り返しそう囁かれた兄の声が鎖となって生々しく何処までも私の身体へと纏わりつく。



 絶対に私は戻りたくはない!!


 譬え死を受け入れようともあの兄の許へは戻りたくはない!!


『さあ王女殿下間もなく迎えの馬車が追い付きましょう。さすれば速やかに王都へのお戻りを――――』


 無遠慮極まりのない勅使の言葉に怒りは頂点へと突き上げていきます。


 そしてきっともう誰もこの勅使を留はしないでしょうね。 

 リザ以外は……。



 何故なら国王の勅使と勅令の前において臣下である旦那様とその配下者も達にしてみれば絶対的な命令でしかないのです。


 逆らう等考えるまでもない。

 

 そうアッシュベリーはどの貴族家よりも王家へ忠義を捧げている家柄なのです。


 旦那様の立場としては新婚の妻を取り上げられる屈辱は確かに存在するでしょう。


 ですか私は純潔ではない穢れし者。


 然も個まで孕んでいる女を護る価値と義務は旦那様にはないのです。


 旦那様の幸せを思えばこのまま迎えの馬車へ乗り私と別れる事が良策となるに決まっています。

 また此度は王家側の有責として叙爵もしくはそれに値するものを送られる筈です。

 何も態々背負わなくともよい荷物を旦那様が背負う必要はないのですから……。



「リザ、あなたはこの馬車に残って下さい。そしてそのまま領地へお帰りなさい。王都へ戻るのは私だけで良いのです」


「アンジェ様どうかその様な事を仰らないで下さいまし。私は産まれて間もない貴女様を実の子の様にお育てしたのです」

「リザ」

「全てを仰らなくともよいのです。このリザは死する瞬間までアンジェ様のお傍にいとう御座います。あちらで両陛下へ共に会いに行こうではありませんかアンジェ様」


「り、リザ、リザっ、ごめ、本当にこの様な事へ付き合わせてしまってごめんなさい」

「しっ、駄目ですよアンジェ様。余り大きなお声でお話になられますと外の者へと聞こえてしまいます」

「ええ、そうねリザ」


 何時まで経ってもリザには頭が上がりません。


 彼女は私が行おうとする事までもわかってしまうのですもの。

 

 ごめんなさいリザ。

 そしてこの様な弱き母を許して頂戴。

 何があろうともあの兄の許にだけはもう二度と帰りたくはないのです。

 

 私達はその瞬間がくるまで声を潜めて静かに泣いておりました。

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