光る人
@ns_ky_20151225
光る人
『大仏は見るものにして尊ばず』と、落語の枕で聞いたことがある。『鹿政談』だったろうか。奈良の大仏の巨大さにただただ感心し、うっかりして拝むのがあとになってしまうさまを話していた。
わたしにはそれはあてはまらない。そもそも信仰心がないので、大仏にかぎらずあらゆる仏像のたぐいは美術工芸品として味わってしまう。ついわすれるのではなく、そもそも拝むという行為にならない。
だから、心から神や仏を信じている人がやわらかい光を放っているのを見かけると、光子を生み出すほど帰依できるとはどのような人生を歩んでこられたのだろうかと思う。
尊び、敬う心が信念にまで昇華し、なにもうたがいを抱かない。そうなると光子を発する奇跡が起きる。
若い人などは俳優や歌手にそう感じるようで、映画館やコンサート会場の近くでは光る人たちがたむろしている。
わたしは美術工芸品としての仏像が好きで、寺院や美術館、博物館をよくまわるが、光りだすほど好きというわけではない。実をいうと、自分はほんとうに美しい像が見たいのか疑問に感じている。仏像を鑑賞している自分を他人に見せつけているだけではないか、または、ただの無教養で下品なエロおやじではないぞと自らをだましにかかっているのではないか。
なにをしてもそうだ。その行っているなにかを背後から第三者的に観察しているもう一人の自分がいて、おまえは純粋に尊んでいるのではなく、もっとこずるい企みがあるのだろうとささやいてくる。仏像鑑賞を高尚な趣味だとかんちがいしていて、そんな自分をだれかに承認してもらいたいだけなのだ、と。
だから、光子に変換されるほど雑味のない尊敬とはなんだろうと思い、澄みきった心がうらやましくなる。
でも、一方でその透明さにうさんくささ、危うさを感じるのも事実だ。
そんなに信仰してどうするのだろう。信じる自分や対象をうたがわないとはなにごとなのだろう。仏に手を合わせ、俳優にあこがれ、歌手の唄に泣く。全身全霊でそうできる人。光る人になるとはなんなのだ。すこしは自分の頭で考えないのか。
どんな宗教でもそうだが、仏の教えも信じるに値しない部分がある。俳優の格好良さ、歌詞や曲のすばらしさ、わたしの好きな仏像だって絶対的に美しいのではない。ここが惜しい、とか、あそこに目をつぶれば、という箇所がかならず見つかる。
自分という主体も、仏像という客体もすべてを尊ぶには値しない。どこかで一歩引くのが人間だろう。
でも、ここに現に光る人がいる。光子として客体を尊ぶ心を放出する人。
本音をいえばかたっぱしから質問し、議論して解剖したい。
光る人が手を合わせている。ここは博物館なのに、菩薩だから頭を垂れている。その人がどこかへ行ってから説明文を読んだが、展示用に最近作られた複製品だった。そうであってもあの人にしてみれば菩薩様なのであって、光るほどの信心で尊ぶ対象だった。
なんなのだ。これは。もはや魂すら入れられていない形だけの菩薩ではないか。なぜ菩薩の形が人を光らせたのだ。それが信仰なのだろうか。
わたしは、わたしにはわからない尊敬という想いについて思考をめぐらせた。おかげでその博物館にならぶ仏像のすべてが記憶にない。見るものにして尊ばず、ですらなく、見なかったのだった。
了
光る人 @ns_ky_20151225 @ns_ky_20151225
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