埋葬と世界の終焉
阿賀沢 隼尾
埋葬と僕 ~死は何処へ~
小学校低学年のころから死んでいる生き物を埋葬するのが好きだった。
アリの巣の近くで死んでいる虫が、巣の中に吸い込まれていくのが始まりだった。
この虫はこの後どこへいくのだろうと。
親に「生き物は死んだらどこへいくの?」と聞いてみたことがある。
その時、僕の親は「生き物は死んだら食べた生き物の体に、力になるんだよ」と教えてくれた。
その日から、僕にとって「食事」は「食した生き物を自分の中に取り入れる」行為となった。
以来、僕は毎日体を鍛えるようになった。
「命」を感じる為に。
体を鍛えることは自分の体の成長を感じる為にとても重要なことだから。
後日、僕は鴉達が猫の死体に群がっているのを見たことがあった。
猫に付いた肉を蝕む黒塗りの天使たち。
とても美しい光景だった。
耽美的と言っても過言ではない。
生は死を食らうことで、命を継続させていく。
続いていく生は死によってもたらされ、輪廻する。
魂は天上へ。
器は他の器へ。
だから、僕は死んだ生き物がいるといつも埋葬した。
土葬。
水葬。
火葬。
鳥葬。
様々な手法で生き物を埋葬した。
ある日、生きている間にしたことがある。
命の躍動を感じた。
生が浄化され、自然へ還っていった。
心が、魂が震えた。
生命力は生まれてきた時と死ぬときに一番輝くものだと知った。
だから、大木から感じるあの生命力に僕は感動してしまうのかもしれない。
植物は生きながらも死んでいる。
生と死の狭間にいる生き物だ。
常に生と死を繰り返し循環させている。
だからこそ、常に輝き続けているのかもしれない。
その命の一瞬を僕は見たくて虫を、犬を、猫を埋葬していった。
藻掻き苦しみ、暴れる姿を見ると今日も生きているのだなと実感することが出来た。
ただ、その痛みを感じるのは僕じゃない。
他の生物の痛みを見ることで僕は「生きる」ことを感じていたんだ。
でもそれは違う。
本当の『生』を知るためには実感しないといけない。
自分の体で知っていかなくてはいけない。
だから、僕は刃物で自分の体を傷つけていった。
痛みは僕にとって生きることだった。
苦しみは、痛みは生きることだ。
喜びも悲しみも。
喜怒哀楽の全ては生を謳歌する為のドーパミンだ。
でも、自分の体をいくら傷つけた所で何も変わらなかった。
僕の心を本当の意味で癒してくれたのは埋葬行為のみだった。
埋葬行為は『僕』と『セカイ』が繋がるための唯一の行為だった。
僕は一人じゃない。
僕は孤独じゃない。
肉体は、精神は、魂は世界と繋がっている。
僕らの死は無駄じゃない。
死は生で、生は死だ。
相補的で有機的な繋がりによって世界は補完されている。
いつも見る夢が僕にはあった。
それは僕が僕を食べる夢。
腕に、足に、首に噛み付いて肉を引き千切る。
身体から分裂する肉と噴き出る血。
血塗られていく僕の手首と口。
僕は僕を内包していく。
『セカイ』と繋がっている『僕』を、僕自身が食べる。
その行為は世界を内包するに等しい。
僕は、全ての生物は世界と繋がっている。
それは愛と言っても過言ではない。
世界は愛で、愛は世界なんだ。
埋葬と世界の終焉 阿賀沢 隼尾 @okhamu
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