この世でもっとも尊いものとは

いちご

第1話


「この世で最も尊いものとはなんぞや」


 そう問われたら私はなんと答えればいいのでしょう?


 幼き頃から教えられたとおりに「神である」と答え、護るべきは「命である」と導くべきなのだろうけれど。


 今の私には真っすぐにその言葉を口に出すことができません。


 国と神の慈悲により生かされている身としては恥ずべきことであり、罪深いことなのだと思います。

 ですがどうしても神を唯一と仰ぎ、無垢な心で信心し、それを愛すべき兄弟たちに説かねばかねばならない責務がありながら――私はその存在を全く信じてはいないのです。


 貧困の中、私の家族は手がかかる上に病弱な赤子の私を教会の入り口に捨てた。

 その辺の道端や人気のない路地に捨てられなかったことを思えば彼らにもまだ良心はあったのだと分かります。

 教会の方々は過剰な愛情を注がない代わりに穏やかに、そして丁寧に生きることやこの世界について教えてくださりました。


 勿体ないことです。


 神を愛せない私に対して時間を割くという無駄なことをさせてしまったことを謝らなくてはならないのですが、未だに切り出せぬまま。

 そろそろ告解でもして懺悔し、厳しい折檻をしてもらった方がよいのかもしれません。


 まあ我が教会ではそのような乱暴なことは認められていないのですが。


 それに今は私のことに構っているほど教会もそして国も余裕がない。

 小国であるこの国は国境を接する三つの大国と争わぬように立ち回ってなんとか平和を保っていたのですが、先日大国の王子との婚姻を嫌がった我が国の姫が騎士と駆け落ちして出奔してしまったことから一触即発の危機的状況になってしまったのです。


 私はため息をついて祭壇に捧げられていた果物をいくつか葡萄酒とパンの入った袋に入れて抱えなおしました。


「なんだって私がこんなことを」


 腹が立つよりも呆れと情けなさでいっぱいになりながら裏口から出て、準備して繋いでいた手綱を取り苦労して馬に跨ります。

 こういう不慣れなことをさせられているということに対して理不尽である、と責める権利が少しくらいは私にもあるのではないかと思うのですがあの御方から頼まれれば否やはいえません。


 渋々とはいえ馬を走らせ夜の闇の中を街外れにある教会所有の小さな家へと向かいました。

 馬を建物の陰に誘導して柵に手綱を結び付けて玄関へと移動します。

 灯りはありませんが、そこに人がいることは存じています。

 扉をノックして「私です」と小声で告げると心臓が五十を打ち終わった頃にようやく細く扉が開きました。中から鋭い目が他に誰もいないかを伺っています。


「だいじょうぶですよ。私だけです」

「……そのようだな。すまない」

「いいえ」


 警戒するのは当然なので笑顔を浮かべると精悍な顔つきの美丈夫がほんの少し申し訳なさそうな顔をして奥へと入れてくれました。


 埃っぽい廊下の先にある小さな部屋には一人用の寝台とソファがあるだけ。

 そこに使用人の服を纏った美しい少女がいることにとてつもない違和感があります。お仕着せの服を着ていても元より備わった高貴なお顔立ちと品の良さは消すことができません。

 陶器のように滑らかな肌は青い血が透き通って見え、薔薇色の唇は愛らしくほころび、長い道のりを歩いたことなどないような細く小さな足や苦労を知らない華奢な手指が少女の出自を語らずとも知らしめてしまう。


「遅くなり申し訳ございませんでした。教会には質素な食べものしかないのでお口に合うとは思えませんが」

「構わないわ。どんなものであってもわたくしはこれから庶民として生きるのですから。気にしないでくださいまし」


 本来ならば直接口を利くことさえできぬ身分の高い方である少女の前に跪き差し出した袋は、当然のことながら鍛えられた肉体を持つ男の手に奪われてしまいました。


「……いつまでこちらに身を隠すおつもりでしょうか?」

「我々はすでに国外に出たと思われている。動くよりもここに留まっている方が安全だろう」


 なるほど。

 それではまだしばらくこの遊びに付き合わされるわけですか。


 笑みを深くして私は頷き、長居をしてはよくないでしょうからと早々に引き上げさせてもらうことにいたしました。


 扉を開ける前に十分に気を付け、そっと抜け出し、馬の元へ戻った時。

 小さな影がうずくまっているのに気づきました。

 足を止めた私を振り返った白い顔。澄んだ紫色のふたつの瞳が私をひたりと見つめます。


 胸がドキリと弾みました。


 見られてしまった。

 知られてしまったと。


 私はどうするべきなのでしょうか。


 目の前の責務から逃げ出した姫と騎士の道ならぬ恋とやらに巻き込まれることも、それを負って処分されることも心底嫌でした。


 ならば目の前の小さな命を自らの手で消してしまえば。

 誰にも漏れはしない。


 このような夜分に出歩いているくらいだからまともな家庭環境ではないはず。


 ならば。

 構わないだろうと悪い心が囁くのです。


 どうせ神などいない。

 誰も見ていないからと。


 しかし私が彼らのために手を汚す必要がどこにあるのだと囁く声が聞こえて。


「どうしました?馬がお好きなのですか?」

「すき。あたたかい」


 ずいぶんと幼い声が答えます。

 その間も私から目を逸らしません。


「あなたのお家まで送って差し上げましょう。お家はどちらです?」

「おうち?ない」

「ない?」

「ないの」


 幼子が立ち上がり私の元へと歩いてきます。栄養状態のよくない細い体なのに確かな足取りで迷うことなく。


「ちょうだい」


 汚れた小さな手のひらが差し出され、私は思わず「はい」と応じていました。

 その手を取った時にふと心に浮かんだのは私が理解できぬと諦めていた感情だったのかもしれません。


 おそらく勘違いでしょうが。

 どちらにしろ私の罪深さは消えないのですから。


 変わりないのです。


 

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