第5話
私は知っている。本物の天才というのは極稀で、巷で天才と呼ばれる人たちの大半は天才のフリをしているだけだということを。
この日、私は自分が所属するとある団体の機関紙を自室のパソコン上で編集していた。
私は「日本ポリグロット連盟」という多言語学習コミュニティに所属しているのだが、上級会員の私は毎年年末になると毎年の成果やら会員の声などをまとめる必要があった。
私はいくつかのワードファイルをチェックして、機関紙に載せるものを絞り込んでいた。最終的に残った二、三の原稿のうち、一つは五ヶ国語で書かれた短いエッセイだった。文法の誤りや不自然な表現はないに等しく、内容的にもふさわしかった。
ちょっと長いけど、まあいいか。
私はそう思って、彼のエッセイを会員紹介コーナーに貼り付けて編集作業を終わらせようとした。そしてマウスをクリックして私がそのファイルをもう一度開いた時、ファイル名として表示された彼の名前をよく見ると、以前出会ったとある男と同じ名前だということに気づいた。
ひょっとしたら。
私は一年前の会合のことを思い出した。
一年ぐらい前だった。
「山崎さーん、ちょっとこっち来てくださいよ」
「はい、今行きます」
私は他の会員に呼ばれて、五、六人の人が集まっている会場の一角に向かった。
ここは、都内のとあるビルの一室――「日本ポリグロット連盟」は三ヶ月に一度ぐらい、こうして会員同士で集まって外国語学習について話し合っている。言ってみればパーティのようなものだが、食事はかなり粗末でスナック菓子しかなく、飲み物も追加料金で精々ワインとビールが買えるぐらいだった。
その日も、新入会員たちがテーブルを取り囲んで紙コップでジュースやお茶を飲みながら話をしていた。会話の中心にいたのは三十代後半ぐらいの男だった。彼が会員たちに流暢な英語とフランス語を披露すると、隣にいた女性がやたら彼を褒めていた。
「すごーい、英語とフランス語、イタリア語が全部おできになるんですか?」
「ええ、スペイン語も割と」
「いいなー。ヨーロッパ大体どこでも行けるじゃないですか」
彼がひとしきり自慢している横で、私は内心ほくそ笑んだ。
コイツらはバカだ。フランス語とイタリア語は語彙的に方言程度の差しかない。スペイン語もフランス語と比べたら文法的には大差ない。どれかが話せれば、それ以外のロマンス語派の言語の習得も容易だろう。
そして彼の英語の発音はフランス語訛りがきつく、文法的にも間違いが多々あった。どうせコイツも、外国語ができるフリをしているだけだ。いつものように私はそういう結論に達して、くるりと後ろを向いてその場を立ち去ろうとした。すると背後から腕をグイ、と引っ張られた。振り向くと、さっき私をここに呼んだ会員の林さんが呆れた表情でこちらを見つめていた。
「新入会員のどんな人かぐらいは覚えてくださいよ。後で名簿作るんですから。仕事ですよ、一応」
彼女は小声で私に耳打ちした。私は露骨に顔を顰めて生返事をした。
「……分かりましたよ」
私は現在職についていない。今のところ収入はこの団体や塾などで語学チューターとして働いて得られるわずかなお金のみだ。この団体の運営も本当はやりたくない。しかし、一人暮らしを続けるためのお金は必要だった。
私は英語以外では主にロシア語しかできない。三ヶ国語しか話せないのでは、ポリグロットを名乗るにはギリギリかもしれない。しかしロシア語は英語とは文法的にかなり違う言語ではあるので、学習にはそれなりに時間が掛かる。そんなことを自分に言い聞かせて、私は同じ語派の言語ばかり習得する人や自分の実力を実際の語学力よりも大きく見せようとする人々を見下していた。
私は知っている。外国語を覚えるというのは往々にして、外国語ができるようになったフリに過ぎないことを。
同じ日、あの男に出会うまでは、私はそう固く信じて疑わなかった。
新入会員の中にある若い男がいた。彼はケンヤと名乗った。会社員なのか、彼はあの日もスーツを着ていた。
彼の第一印象は「普通」だった。立ち振る舞いや話し方から彼は人が良さそうな感じに見えて、例の語学力をひけらかす男の前でも決して嫌な顔をしなかった。順番が回ってきて自分自身が自己紹介を求められても、彼は特に自慢することもなく手短に話をしただけだった。
「僕、もう社会人なんですけど、恥ずかしながら二年前にようやく英語の勉強を再開しまして……。このレベルでこんな所に来るのも違うかな、って思ったんですけど、今まで海外とか行ったことないし色んな国の友達作りたいなと思って来ちゃいました。皆さんすごい方ばかりで本当に尊敬します」
彼は私が嫌いな社交的なタイプの人間のように見えた。初め私は彼の話し方を聞いて、やたら人を褒めるだけの上っ面の礼儀正しさを振りまく性格なのかと思った。
「それじゃ、ケンヤさん。一応英語でも自己紹介していただけますか。強制はしないですが、まあルールなんで」
私は彼の話を適当なところで切り上げて、学習言語での自己紹介を促した。上級会員なので、形上司会進行してみただけだった。
私に促されて、彼は英語で簡単な自己紹介をした。話したのはせいぜい一、二分もなかったが、私はこの瞬間を忘れない。彼の英語が信じられないほどネイティブそのものだったからだ。彼のアメリカ英語は完璧だった。「ほとんど完璧」ではなく、「完璧」だった。言い換えると、発音、文法、語彙、どれをとっても母語干渉が全くなく、普通のアメリカ人のように聞こえた。
周囲が少しザワザワする中、私は英語で彼に尋ねた。
「『二年前に英語の勉強始めた』って言わなかったっけ?」
この時私は内心焦っていた。しかし彼は落ち着いた様子で、相変わらず完璧な英語で答えてきた。
「はい、それまでは全然海外にも興味なかったんで。最近ちょっとアメリカのティーンエージャー向けの歌とかを聞いてるぐらいかな。高校の時なんて英語の勉強真面目にしなかったせいでセンターも六割切ってましたよ」
彼の話す英語と内容のギャップに、私は思わず苦笑した。
「それにしちゃ上手すぎない? 親が日本人じゃないとか?」
「いえいえ、二人とも日本人ですよ。親戚も全員」
「本当にどこか英語圏住んだことないの? 冗談だろ」
「パスポートもないですよ? それに、留学とか怖いじゃないっすか。まだ言葉もちゃんとできないのに。山崎さんの方がよっぽど英語お上手ですよ」
はにかみながら謙遜を続ける彼に、私は唖然としてしまった。彼は心からそういう台詞を言っているようで、そこだけは日本人らしかった。
私はこの時、激しい憤りを感じたことをよく覚えている。
私はいわゆる「純ジャパ」でここまで外国語が上手い人間を見たことがなかった。大体はハーフだったり、帰国子女だったり、あるいは小さい頃から英語教育を受けていたりした。それ以外の普通の日本人で外国語が上手いのはいわゆる私のような語学オタクの連中で、それでもここまで完璧というのはかなり珍しかった。
そして私は彼のような存在が認められなかった。つまり、私は彼にただひどく嫉妬したのだった。
私はちょっと意地悪をしたくなって、日本語に切り替えて彼にまた話しかけた。
「本当にそんな短期間で英語が上達したんだったら、他のヨーロッパの言語もやってみるといいですよ。ロシア語とか。私もロシア語やってるんで、初歩的なことなら教えますよ」
しかし彼はこれが嫌味だと受け取らなかったようで、こんなことを言った。
「ホントですか? いいですね、僕まだ英語も全然ですけど、次に何語勉強しようかなって思ってて。ロシア語とかカッコよさそう」
すると、私の近くにいた林さんも話に参加してきた。
「中国語もいいですよ。日本語と似てる単語も多いし」
彼女は中国人で、日本に長年住んでいることもあって日本語がペラペラだった。私はちょうどいいと思ってさらに意地悪を言ってみた。
「でもロシア語も中国語も、絶対英語より発音が難しいからなぁ。巻き舌とかできます?」
私は得意げに舌を巻いて見せた。すると彼は真似しようとしたが、「る、る、る」というような感じでしか発音できず失敗した。
「いやぁ、できませんよ。難しいなぁ」
彼は相変わらず、屈託なく笑った。彼が万能ではないことを白日の下に晒すことに成功した私は、心の中で彼をあざ笑った。そして同時にほっとした。
やっぱり彼も普通の日本人なのだ。
私は自分にそう言い聞かせた。その後、林さんが中国語の発音を教えたのだが、やはり彼は英語以外の言語の発音はあまりできないようで、彼女に笑われていた。
その時点では、彼は英語が飛びぬけて上手いことを除けば普通だった。私はその一点だけは気に入らなかったが、彼が他の外国語ができないことで安心していた。
あれから一年が経って、彼は英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語でエッセイを書いて送ってきた。私は彼の書いた文章をもう一度読んだ。そして、辞書やオンライン上の文法書を読み漁ったり、各言語の母語話者の友達に聞いたりしてあら捜しをしたが、彼の書いた文はいずれの言語でもネイティブが書いたように完璧だった。
文章だけだったら、辞書さえあれば私でも書ける。
そう思ったが、何だか胸騒ぎを感じた。ひょっとして彼はこの一年で、これら全ての言語を少なくともこれぐらいの文が書ける程度にはマスターしてしまったのではないか。
もし彼が本物の語学の天才なんだとしたら――私は彼に対して無視できないほどの強い興味を抱いた。
私は彼に連絡を取って、もう一度会うことにした。
その日、私は林さんと一緒に新宿のあるビルの中にあるカフェに来た。集合時間の五分ほど前に、ケンヤは小走りでやってきた。一年ぶりに現れた彼は、スーツの上に厚手のコートを上手に着こなしてオシャレをしていた。一方私は黒いジャンパーと黒いコーデュロイといういかにもファッションなどどうでもいいという服装で、隣にいた林さんに「あなた、本当に服のセンスないね」と言われたぐらいだった。
コーヒーを注文してから、私たち三人は丸いテーブルを取り囲んで座った。
「単刀直入に聞きますけど、あれからロシア語と中国語を独学なさったんですか?」
前置きが面倒だったので、私は何の雑談もせずに話を始めた。
「はい。仕事とか他にも色々やらないといけないことも多かったんで、時間はかかりましたけど、この一年でやっと中級に上がれたぐらいだと思いますが……」
彼は自信なさげな口調だった。彼はどう見ても極普通のサラリーマンにしか見えず、私がずっと追い求めてきた語学の天才には見えなかった。
「いや、アナタの語学力は本当に素晴らしいですよ。中級なんてもんじゃない。例のエッセイも拝読しましたが、たった一年でこのレベルに到達できる人はかなり稀だと思いますよ」
「そんなに褒めていただいて恐縮です。大したことないですよ」
彼が照れ笑いしながら話すのに、私はイライラした。
「ちょっと実際に喋ってるのを聞かせてもらいたいんですが、よろしいですか?」
それから私は彼にテストを受けてもらった。
私はまず、彼にロシア語で簡単な質問をした。子供のころはどこに住んでいたか、とか、好きな場所はどこか、なぜ好きなのか説明してください、とか、非母語話者である私でも何とか答えられる範囲のものを選んだ。しかし彼は私のロシア語の能力を上回るような素晴らしい文法と発音、自然な語法で答えた。彼は巻き舌ができるようになっていただけでなく、ロシア語で特に難しいとされる生格の使い分けといった屈折変化も一切間違えなかった。
次に私はあらかじめ自分のスマホに入れておいたロシア語の文を彼に見せて音読してもらった。彼の発音はこれまたありえないほど正確だった。連音や不規則なつづりはもちろんのこと、表記されない語強勢の位置まで間違えなかった。しかし彼はいくつかの難しい単語を知らず読めなかった。ここだけが、彼のロシア語が完璧でない点だった。
そして最後に音声ファイルを聞き取ってその場で通訳してもらった。ロシア人同士の自然なスピードで話される速い会話でも、彼が聞き取りに苦労する様子はなかった。しかし通訳の経験がないためか言葉選びに多少問題があったものの、意味の取り間違いはなかった。
結論から言うと、彼はネイティブの子供のようだった。そして林さんに頼んで同じことを中国語でやってもらったが、彼は語彙が足りないことを除いてやはりネイティブのように中国語を話した。あまりにも上手すぎるので、最終的に林さんはケンヤが中国人であると言い出した。
たった一年で、似ても似つかない言語であるロシア語と中国語ですらもネイティブのように習得してしまう彼は明らかに本物の天才だった。私は皮肉抜きで彼を褒めるしかなかった。
「アナタはやはり、天才でしょう?」
すると彼は身振り手振りを交えて大げさに否定した。
「いやいや、そんなことないですよ。僕、頭もよくないし――」
「行き過ぎた謙遜は嫌味にしかなりませんよ?」
ついきつい口調になってしまった私に、彼は言葉に詰まったようだった。私は彼を問いただすように聞いた。
「どうやって勉強したんですか? 脳にドーピングでもしました?」
「……僕はただ、普通にテレビ見たり本読んだりしただけですよ」
「それなら私もとっくにネイティブ並みになってるはずなんですが? たった一年でこの学習曲線はおかしいでしょ?」
私はもう十年以上ロシア語を勉強しているが、彼ほどの流暢さはない。嫉妬からくる私の挑発的な話し方のせいで、向こうも若干苛立ち始めたようだ。
「そんなに僕は特別ですかね? 言語なんてどんな子供でも覚えるじゃないですか?」
「子供と大人は違う。臨界期仮説を知らないのか?」
「知りませんよ、そんなもの。僕は自然にやってたらできちゃっただけですよ」
私はとうとうキレてしまった。
「嘘をつくな。お前は絶対にハーフか、帰国子女か、子供の時から多言語環境にいたか、どれかのはずなんだ。下手な芝居はやめろ」
私はテーブルを両手で叩いて立ち上がった。周りのテーブルの客がチラチラとこちらを見ているように感じたが気にしない。
「僕は本っ当にただの日本人ですよ。僕は高校卒業までずっと、修学旅行で東京に行った以外は故郷の山梨から出てどこかに住んだこともなかったんですよ? なんでそんなに僕に拘るんですか?」
「母語干渉、って分かるか?」
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